第79話 虚無の鱗と、這い出る絶望
『滅ビヨ――』
アジ=ダハーカの三つの口から放たれた極大の漆黒ブレスを、俺は『深淵の剣盾』と仲間たちからの魔力供給で強引に左右へと受け流した。
背後の岩盤がドロドロに溶け落ちる熱量の中、俺は一切怯むことなく、大地を蹴って巨竜の懐へと飛び込んだ。
「――シィィッ!!」
『ゼロから100』の踏み込み。俺の全体重と魔力を乗せた大剣の一撃が、アジ=ダハーカの漆黒の胸元へと叩き込まれる。
だが。
ガギィィィィィィンッ!!!!
「……なっ!?」
手応えが、おかしい。
岩を叩き割った時のような反発ではない。俺の剣が触れた瞬間、アジ=ダハーカの表面を覆う数千万枚の漆黒の鱗が、まるで水面のように波打ったのだ。
直後、俺が大剣に込めたはずの「運動エネルギー」と「魔力」が、全く同じ威力となって、剣を伝って俺自身の両腕へと跳ね返ってきた。
「ぐ、ぅぉぉぉっ!!?」
自らの全力の一撃を真正面から食らったのと同じ衝撃。
俺の身体は砲弾のように弾き飛ばされ、数十メートル後方の岩壁に激しく叩きつけられた。
「クロウさんッ!?」
「ご主人様!!」
レイアとセツナが悲鳴を上げる。
俺は全身の骨が軋むのを感じながら、瓦礫の中から立ち上がった。ハイヒューマンの回復力と『状態異常完全無効』があるから致命傷にはならないが、今の衝撃は純粋な物理反射だ。
「……気をつけろ! 奴の鱗、ただ硬いだけじゃないぞ!」
俺の警告と同時に、上空からレオナがハルバードを振り下ろしていた。
「ガハハ! ならば粉々に砕くまでだァッ!」
ドゴォォォンッ!
だが、結果は同じだった。レオナの圧倒的な膂力から放たれた打撃は、鱗の波紋に完全に吸収され、その反発力でレオナ自身が空中で血を吐いて吹き飛ばされた。
『愚カナ……。我ガ身ヲ覆ウハ、有ラユル力ヲ無ニ帰ス鏡ノ鱗。貴様ラガ足掻クホドニ、ソノ身体ハ傷ツキ、絶望ノ泥ニ沈ンデイクノダ……』
アジ=ダハーカの三つの首が、俺たちの足掻きを嘲笑うように低く喉を鳴らした。
「なら、これならどうですか!!」
レイアが『三位一体の風環』を輝かせ、シルヴィアの魔力とレオナの闘志を合わせた極大の光の斬撃を放つ。
さらに、セツナが死角に回り込み、神代級ダガー『嵐穿の虚空刃』で空間ごと切り裂こうとする。
だが、極大の魔法も、空間を裂く神代の刃すらも、巨大な鏡の壁にぶつかった光のように無惨に乱反射し、洞窟のあちこちを破壊するに留まった。
「……はぁ、はぁ……っ。全然、ダメージが通ってない……!」
レイアが肩で息をしながら、絶望的な表情を浮かべる。
サバイバルにおいて、俺が最も恐れるのは、一撃で命を奪われるような絶対的な暴力ではない。
こちらの攻撃が一切通用せず、焦りと共に自身の体力だけがジワジワと削られていく『リソースの枯渇』だ。
アジ=ダハーカは、まさにその「ジリ貧の絶望」を体現したような、最悪の防衛要塞だった。
このまま力押しを続ければ、奴に傷一つ負わせる前に、俺たちは自滅してしまう。
「――クロウ、攻撃を止めて」
張り詰めた空気の中、後方にいたシルヴィアの、氷のように冷たく澄んだ声が響いた。
彼女は弓を下ろし、眼鏡の奥の瞳で、アジ=ダハーカの巨大な身体をただじっと観察していた。
「シルヴィア?」
「……視えたわ。あの鱗、ただの反射障壁じゃない。数千万枚の鱗が、高速で入れ替わりながら魔力的な振動を繰り返しているのよ。……でも、永久機関じゃない。膨大な熱と障気を排出するために、鱗の並びが入れ替わる瞬間――ごく僅かな『呼吸』の隙間がある」
エルフの持つ超視覚と、極限の集中力を誇る狙撃手としての目。
彼女は、俺たちが無我夢中で攻撃している間、一人冷静に敵の「法則」を読み解いていたのだ。
「隙間って……どれくらいだ?」
俺が尋ねると、シルヴィアは淡々と答えた。
「胸部、三つの首の付け根が交わる逆鱗のポイント。そこの鱗が入れ替わる瞬間、ほんの一瞬だけ、中枢への魔力経路が剥き出しになるわ」
「ほんの一瞬って……そんなの、針の穴を通すどころの騒ぎじゃないぞ!」
レオナが驚愕の声を上げる。
「ええ。普通なら不可能よ。でも、今の私には……レイアとレオナから預かった魔力と、『極大圧縮』の技術がある」
シルヴィアは再び『星砕きの竜弓』を構え、その切っ先に、星の瞬きのように小さな、けれど直視すれば目が潰れるほどの超高密度の光を凝縮し始めた。
「クロウ。……あいつの注意を完全に引いて、正面を向かせて。時間は3秒。私が、あの分厚い鏡をぶち抜くわ」
その声には、微塵の揺らぎもなかった。
俺はニヤリと笑い、深淵の大剣を再び構え直した。
「レイア、レオナ、セツナ! 聞いたな! あのデカブツの意識を、俺たちに釘付けにするぞ!!」
「「「はいっ!!」」」
俺たちは一斉に散開し、アジ=ダハーカの視界を埋め尽くすように、あえて反射されるとわかっている攻撃を死に物狂いで乱れ撃った。
『愚カモノメ……学習能力ノ無イ虫ケラドモガ!』
アジ=ダハーカの六つの赤い瞳が、鬱陶しそうに俺たちの動きを追い、その巨大な胸部を正面へと晒した。
三つの首が再びブレスの予備動作に入り、胸の逆鱗の周囲の鱗が、熱を逃がすために高速で回転し始める。
「――今よ」
シルヴィアの呟きは、誰にも聞こえなかったはずだ。
だが、彼女の放った一矢は、音よりも、光よりも速く空間を駆け抜けた。
シュァァァァァァンッ……!!!
放たれた『極大圧縮』の光矢は、数千万の漆黒の鱗が入れ替わる原子レベルの隙間を寸分違わず射貫き、アジ=ダハーカの体内に侵入してから、爆発的な魔力を解放した。
『――ァ、ガ……ッ!?』
無敵を誇っていた鏡の鱗が、内側からの極大の光によってメキメキと亀裂を走らせる。
パリンッ、というガラスの割れるような音が連鎖し、巨大な黒竜の胸部から、眩い光の柱が天に向かって噴き出した。
『オォォォォォォォォォォォォォォッ!!?』
断末魔の絶叫と共に、アジ=ダハーカの三つの首が天を仰ぎ、山のように巨大なその身体が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
莫大な質量の肉塊が地面に叩きつけられ、地下空洞を激しい地響きが揺らした。
「……やった! 倒した……っ!!」
レイアが歓喜の声を上げ、その場にへたり込む。
「フハハ……ッ、ざまあみろ! 随分と手こずらせやがって……!」
レオナもハルバードを杖代わりにして、荒い息を吐きながら笑った。
俺も、深く、長く息を吐き出しながら、大剣の切っ先を下ろした。
全身の骨と筋肉が悲鳴を上げている。神代級の装備と四龍の宝玉、全員の全力を出し切って、限界ギリギリのところでようやくこのバケモノの息の根を止めることができ――。
(……いや、違う)
俺のサバイバーとしての直感が、かつてない最大級の警鐘を鳴らした。全身の産毛が逆立つような、強烈な悪寒。
死んだはずの巨竜の残骸。そこから立ち昇る障気が、全く霧散していない。
それどころか、残骸の中心に向かって異常な密度で吸い込まれ、どす黒い渦を巻き始めているのだ。
「全員、構えろ!! まだ終わってないぞ!!」
俺の怒声に、気を緩めていた仲間たちがハッと息を呑み、弾かれたように再び武器を構える。
ドクン、と。
崩れ落ちた肉の山の中から、巨大な心臓の鼓動が響いた。
次の瞬間、黒竜の胸部の装甲が内側から乱暴に引き裂かれ、どす黒い泥の海の中から「それ」が這い出してきた。
まるで、成長しきった昆虫が、不要になった古い抜け殻を破り捨てるように。
先程までの山脈のような姿からは想像もつかないほど「人型」に近い、極限まで圧縮された漆黒の装甲を纏う怪物が、ゆっくりと立ち上がったのだ。
『……ヨクゾ、我ガ分厚イ殻ヲ破ッタ。……褒メテヤロウ、矮小ナル者ドモ』
地獄の底から響くようなその声。
身体は俺たちと大差ないサイズまで圧縮されているのに、放たれる殺意と障気の圧力は、先程の比ではない。空間そのものが、その存在の重圧に耐えきれずにメシミキと軋み、悲鳴を上げている。
俺たちは、絶望の真の意味を理解した。
さっきまで俺たちが死に物狂いで倒し、歓喜したあの巨大な姿は、奴の本当の力に蓋をするための、ただの「重い鎧」に過ぎなかったのだ。
本当の絶望は、今、その恐るべき正体を現した。




