第71話 紫電の空と、自立する三つの星
「ハァッ……ハァッ……! シルヴィアさん、右の浮遊岩が崩れます! 左へ跳んで!」
「わかっているわ! レオナ、牽制を!」
「ガハハッ! 泥臭い真似は任せておけ! オラァッ!!」
天空の楼閣迷宮へと変貌した霊峰の上層。
邪竜の障気が渦巻く空の海を、三人の娘たちが必死の形相で駆け抜けておる。
わらわはといえば、最後尾の安定した岩の上で、幼子の姿のまま三本の尻尾を揺らし、優雅にその後ろ姿を眺めておった。
クロウが谷底へと姿を消してから、すでに数時間が経過している。
あやつがいた頃のパーティの戦いは、どこか「安心感」という名の薄布に包まれていた。
いざとなればクロウがその規格外の技術で全てを捻じ伏せ、状態異常完全無効という理外の盾となって彼女たちを守ってくれる。
それは紛れもない事実であり、だからこそ彼女たちは自らの役割に専念することができておった。
じゃが、今は違う。
盾であり、鉾であり、羅針盤であった男が不在の今、彼女たちは剥き出しの自然の脅威と、狂乱する魔物たちの殺意を、すべて自分たちだけで処理せねばならんのじゃ。
「……くっ、足が、痺れて……!」
レイアが魔法剣を杖のように突き立て、苦悶の声を漏らす。
彼女たちが現在足を踏み入れているのは、迷宮の中でも最も過酷な領域――『風雷の乱雲層』じゃ。
ここでは障気が濃密な紫色の雷雲を形成し、絶え間なく落雷が周囲の浮遊岩を砕いている。
さらに厄介なことに、大気そのものが帯電しておるため、息をするだけで肺が焼けるように熱く、肌に触れる微弱な電流が徐々に筋肉の自由を奪っていくのじゃ。
「クロウがいてくれれば、この程度の麻痺、あやつの固有スキルで一息に無効化してくれたのじゃがな」
わらわは小さく独り言ちた。
サバイバルの達人であるあやつなら、この帯電した空気の中でも何食わぬ顔で歩き、あっという間に安全なルートを見つけ出していたじゃろう。
あやつの『状態異常完全無効』がいかに異常で、いかにパーティの負担を減らしていたか。この娘たちも今、身をもって痛感しておるはずじゃ。
「……弱音を吐いている暇はないわ。私の結界で、電磁の波をギリギリまで相殺する! レイア、レオナ、魔力回路を同調させて!」
シルヴィアが額に汗を滲ませながら、魔導書を全開にして術式を展開する。
彼女の魔力が雷雲のエネルギーとぶつかり合い、バチバチと激しい火花が散る。
「はいっ! ……クロウさんが戻ってくるまでに、私たちが足を引っ張るわけにはいきませんから!」
レイアが気力を振り絞り、再び前を向く。
「フハハ! 麻痺など気合いで押し返せばいいのだ! 筋肉が痺れるなら、痺れが追いつかない速度で動けばいい!」
レオナに至っては、もはや理屈ではなく己の生命力そのもので雷の停滞をねじ伏せようとしておった。
わらわは、その健気で泥臭い姿に、思わず目を細めた。
(よい面構えになってきたではないか……)
これまでの彼女たちは、それぞれが「優れた個」であった。
じゃが、今は三人が互いの足りない部分を補い合い、一つの「完璧な群れ」として機能し始めておる。
クロウという大樹の陰で育った雛鳥たちが、自らの力で嵐に立ち向かう術を覚えつつあるのじゃ。
その時じゃった。
ピカァァァァッ!!
突如、頭上の雷雲が昼間のように強烈な閃光を放ち、周囲の空気がビリビリと悲鳴を上げた。
「……ッ! 全員、伏せて!!」
シルヴィアの叫びと同時、彼女たちが立っていた巨大な浮遊岩の半分が、天から降り注いだ極太の雷撃によって一瞬にして蒸発した。
ゴォォォォォォ……ッ!!
雷煙の奥から、空気を裂くようなけたたましい鳴き声と共に、一頭の巨大な怪鳥が姿を現した。
全身を紫電で包み、羽ばたくたびに嵐を巻き起こす空の覇者――『暴風雷神鳥』じゃ。
「……厄介なものが出たのう。邪竜の障気を限界まで吸い込み、完全に理性を失った精霊の変異体か」
わらわは黄金の瞳をすっと細め、いつでも動けるように自らの魔力を練り上げた。
あれは、今の彼女たちが正面から打ち合って勝てる相手ではない。
圧倒的な速度。そして、触れただけで内臓を黒焦げにする雷撃の暴力。クロウがいれば「脱力からの一点突破」で雷の軌道をすり抜け、一撃で急所を貫いていたじゃろう。じゃが、彼女たちにその変則的な武技はない。
『ピィィィィィャァァァァッ!!』
雷神鳥が鼓膜を破るような鳴き声を上げ、急降下してきた。
その速度は、まさに落雷そのもの。目で追うことすら不可能な一撃が、先頭に立っていたレイアへと襲いかかる。
「レイア!!」
シルヴィアが叫ぶ。
じゃが、レイアは逃げなかった。
彼女は足を大きく開き、魔法剣の刀身を両手でしっかりと握りしめた。
恐怖はない。その瞳には、かつて帝国の闘技場でクロウの猛攻を正面から受け止めた時の、あの絶対的な「盾」としての誇りが宿っておった。
「シィィィッ!!」
レイアが剣を斜めに構え、雷神鳥の巨大な嘴が激突するコンマ一秒の刹那――剣の角度をミリ単位でズラし、雷撃の運動エネルギーを空へと『受け流した』のじゃ。
ガギィィィィンッ!!!
強烈な放電がレイアの身体を包み込む。じゃが、彼女の完璧な『パリィ』によって、致死の雷撃は完全に軌道を上空へと逸らされ、雷神鳥自身が体勢を大きく崩した。
「ぐぅぅっ……! 今です、レオナさん!!」
レイアが両腕から煙を上げながらも、叫ぶ。
「ガアァァァァッ!! 待っていたぞ、このデカ鳥がァッ!!」
死角から跳躍したのは、獅子の猛姫レオナじゃった。
彼女は麻痺した身体を気合いで動かし、ハルバードの柄に自身の有り余る魔力をすべて叩き込んだ。
「粉々に、砕け散れェェェッ!!」
レオナの渾身のフルスイングが、体勢を崩した雷神鳥の胴体にクリーンヒットする。
ドゴォォォォォンッ!!
という爆音と共に、雷神鳥の巨体が浮遊岩の岩壁へと激しく叩きつけられた。
「……ほう」
わらわは思わず、感嘆の声を漏らしておった。
見事な連携じゃ。クロウがいなくても、彼女たちは自分たち自身の長所を完璧に理解し、互いの命を預け合っておる。
じゃが、雷神鳥はこれでは倒れん。
岩壁に激突した巨鳥は、怒り狂ったように全身の紫電を爆発的に増幅させた。
空中の雷雲が渦を巻き、無数の落雷が雷神鳥の身体へと集束していく。あれは、一帯の浮遊岩もろともすべてを消し去るための『極大放電』の予備動作じゃ。
「……まずいな。あれを撃たれれば、防御結界ごと蒸発するぞ」
わらわは立ち上がり、ついに自らの『黄金の狐火』を解放しようと指先を鳴らした。
保護者の役目もここまでじゃ。ここから先は、わらわが焼き尽くしてやる。
そう思い、一歩を踏み出そうとした時じゃった。
わらわの耳に、静かで、だが異常なほどの集中力を孕んだ声が届いた。
「……魔力充填、完了」
シルヴィアじゃった。
彼女はいつの間にか、仲間たちの後方で膝をつき、『星砕きの竜弓』を雷神鳥へと構えておった。
じゃが、その様子が普通ではない。彼女の弓には矢が番えられておらん。代わりに、彼女の周囲の空間そのものが、ブラックホールのように歪んでおったのじゃ。
「……なっ。あの小娘、まさか」
わらわは目を見張った。
シルヴィアは、自身の魔力を『圧縮』するだけでなく……この空間に満ちる帯電した空気、そして雷神鳥が集束させようとしている『雷雲のエネルギー』そのものを、強引に自らの弓の焦点へと引き寄せ、圧縮しようとしておったのじゃ。
カーミラから教わった極大圧縮の魔法を、さらに応用した、無謀とも言える大魔術。
「私の魔力だけじゃ足りないなら……この環境の殺意ごと、一点に集めて撃ち貫く!!」
シルヴィアの弓の先端に、直径一ミリにも満たない、しかし直視すれば目が潰れるほどの超高密度の光の玉が形成されていく。
『ピィィィィィャァァァァッ!!』
危機を察知した雷神鳥が、極大放電をシルヴィアへと放とうとした。
じゃが、遅い。
「レイア、レオナ、伏せて!!」
シルヴィアの叫びと共に、弦が弾かれた。
「――『雷穿・極点星』!!」
放たれたのは、矢ではない。
極限まで圧縮された雷と光のエネルギーが、一筋のレーザーとなって空間を完全に「消失」させながら突き進んだ。
ズガァァァァァァァァァンッ!!!!
音すらも遅れて届く、圧倒的な破壊。
シルヴィアの放った一撃は、雷神鳥の放電を真っ向から食い破り、その巨大な魔力核を、背後の分厚い雷雲ごと一直線に貫いておった。
天を覆っていた紫色の雷雲が、その一撃によって見事に真っ二つに割れ、そこから一筋の陽光が差し込んでくる。
雷神鳥の巨体は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、ただの塵となって空の海へと散っていった。
「……はぁ、はぁ……っ。やった……わね」
シルヴィアが弓を杖代わりにし、そのままその場へ崩れ落ちる。
レイアとレオナが慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こした。
「シルヴィアさん! 大丈夫ですか!?」
「フハハ! お前、エルフのくせに随分と豪快な魔法を撃つじゃないか! さすがは私の同志だ!」
三人は煤だらけになりながら、互いの無事を確認し合い、そして晴れ間が覗いた空を見て、安堵の笑いをこぼした。
「…………ふふっ、あははははっ!」
わらわは、空へ向かって心の底からの笑い声を上げておった。
痛快じゃ。あまりにも見事じゃった。
「クロウよ。お主の選んだ娘たちは、お主という太陽がなくとも、自らこれほどの光を放ち始めたぞ。……これなら、もうわらわが口出しする余地などないわ」
わらわは三本の尻尾を揺らしながら、ゆっくりと彼女たちの元へ歩み寄った。
三人はわらわに気づき、「タマモちゃん、無事だった!?」と駆け寄ってくる。わらわは「うむ、お主らの活躍、しかと見届けたぞ」と尊大に頷いてみせた。
「さあ、見ろ。雷雲が晴れて、ついに道が開けたぞ」
わらわが指差す先。
割れた雷雲の向こう側に、天へと真っ直ぐに伸びる巨大な竜巻の柱が見えていた。
あれこそが、空の迷宮の終着点であり、風龍の里へと至る『天への道』じゃ。
「……行きましょう。クロウさんもきっと、もうすぐあの場所へ辿り着くはずです」
レイアが、力強く竜巻の柱を見据えて宣言する。
わらわたちは、泥だらけで満身創痍ながらも、その足取りはどこまでも誇り高く、最後の道へと歩みを進めていった。
地下の闇を征く男と、天空の嵐を征く乙女たち。
二つの道が交わる時は、もうすぐそこまで迫っておった。




