第70話 黄金の眼差しと、嵐を征く乙女たち
「クロウさんッ!!」
「旦那様!!」
レイアとレオナの悲鳴のような叫びが、逆巻く暴風の中に掻き消えていく。
わらわの目の前で、このパーティの主であり、わらわが永遠を共にすると決めた男――クロウが、愛しい幼子を助けるために自ら奈落へと身を投げ出した。
普通ならば、絶望して膝を突く場面じゃろう。
じゃが、わらわはこの黄金の瞳で捉えておった。落下の最中、一瞬だけこちらを見上げたクロウの瞳をな。
そこには恐怖など微塵もなかった。あるのは、わらわに対する絶対的な信頼と、『後を頼む』という静かな、だが重い託宣じゃった。
「……信じろ!!」
地の底から響くようなあやつの声。
それが谷底へ消えていくと同時に、わらわたちの周囲を囲んでいた景色が、邪竜のどす黒い障気によって急速に塗り替えられていった。
「……クロウさん……」
レイアが、クロウが消えた断崖の縁に膝を突き、魔法剣を握る拳を震わせている。
隣では、猛々しい獅子の猛姫レオナが、獲物を見失った獣のようにハルバードを握りしめ、咆哮を上げようとしておった。
わらわは、いつもの幼子の姿のまま、二人の背中を見つめて静かに口を開いた。
「何を呆けておる。主は『信じろ』と言ったはずじゃ。あやつは15年も地獄を独りで生き抜いてきた男。……あんな谷底、あやつにとってはただの『少し深い庭』のようなものじゃよ」
わらわの言葉に、シルヴィアがハッとして眼鏡の奥の瞳を鋭くさせた。
「……そうね。クロウは絶対に帰ってくる。私たちがすべきことは、ここで立ち止まって彼を心配することじゃない。……彼の信頼に応え、約束の場所である『風龍の里』へ辿り着くことよ」
「……っ、はい。そうですね……! 落ち込んでいる暇はありません!」
レイアが涙を拭い、毅然とした表情で立ち上がった。
じゃが、道は容易くはなかった。
クロウという中心核を失ったことを嘲笑うかのように、霊峰の頂へと続く道は、障気の乱気流によって巨大な浮遊岩が入り乱れる『天空の楼閣迷宮』へと変貌を遂げておった。
かつては一本道じゃったはずの崖道は寸断され、霧の向こうには古代の石塔が宙に浮き、不気味に明滅しておる。
「……地上の道が完全に消えたわ。ここからは、浮遊する岩を飛び移りながら、この空中迷宮を突破するしかないみたいね」
シルヴィアが『星砕きの竜弓』を構え、進路を阻む障気の霧を睨む。
わらわは、その後ろで三本の尻尾をゆらゆらと揺らしながら、心の中でくすりと笑った。
(さて……クロウという翼を失ったお主たちが、自らの力でどこまで高く舞えるか。……わらわは楽しみにさせてもらうぞ?)
もちろん、わらわが本気を出せば、このような障気の迷宮など一息に焼き払い、全員を抱えて里まで飛んでいくことなど造作もない。
じゃが、それではあやつの期待を裏切ることになる。
あやつは、この娘たちが自らの足で立ち、自らの刃で道を拓くことを望んでおるのじゃ。
わらわの役目は、あやつが帰ってくるまでの『家』を守ること。そして、この雛たちが真の鳥へと羽ばたくのを、特等席で見守る保護者であることじゃ。
「――来るわよ! 散って!」
レイアの鋭い号令が響く。
迷宮の最初の試練。障気の霧の中から現れたのは、風の魔力と障気が癒着した怪物――『嵐を纏う石像鬼』の群れじゃった。
それも一頭二頭ではない。数十頭もの群れが、浮遊する足場を狩場にするように、四方八方から襲いかかってくる。
「ハァァァッ!!」
レオナが咆哮と共に、不安定な浮遊岩の上を疾走した。
いつもなら、クロウが敵の注意を引きつけ、その隙を突くのが彼女たちの定石。じゃが今は、自分たちで標的を分担せねばならん。
レオナはハルバードの柄でガーゴイルの爪を強引に受け止めた。
「旦那様がいなくとも、私の誇りは挫けん! この程度の石塊、粉々にしてくれるわ!!」
砂漠の闘技場で培われた、野生の反射。レオナはあえて足場を蹴り、空中へと身を躍らせた。一瞬の無重力状態。そこで彼女は、帝国でクロウから学んだ『重みの乗せ方』を再現してみせた。
ドォォォォンッ!!
柄の一撃がガーゴイルの魔石を正確に砕き、怪鳥が虚空へと落ちていく。
「シルヴィアさん、時計回りに三体! 私が抑えます!」
レイアが魔法剣に魔力を充填し、突進してくる三頭のガーゴイルの正面に立った。
彼女の足元は、常に乱気流で揺れている。じゃが、レイアの姿勢は微塵も揺るがん。
エリーゼ師匠から伝授された『受け流し』の極致。
ガギィィンッ! と、火花を散らしながら、三頭の波状攻撃を剣一本で完璧に円の軌道へといなす。
「……捉えたわ」
レイアが作った刹那の隙。シルヴィアが放ったのは、三本同時に放たれた『極大圧縮』の光矢じゃった。
矢は風の抵抗を完全に無視し、一直線にガーゴイルたちの核を貫いた。
「ふむ……なかなかやるではないか」
わらわは安全な後方の足場で、優雅に髪を整えながらその光景を眺めておった。
クロウがいた時は、どこかあやつに甘えておった娘たちが、今は互いの呼吸を読み、必死に連携を模索しておる。
特にレイア。あやつが消えた直後のあの弱々しさはどこへやら。今はパーティの『最高』の盾として、見事にリーダーの役割を果たそうとしておるわ。
じゃが、迷宮は地下に潜ったクロウたち同様、階層を下る(あるいは登る)ごとにその過酷さを増していく。
「……っ、何、これ……!? 急に重力が……!」
地下2階……もとい、空中迷宮の第2層へと足を踏み入れた瞬間、シルヴィアが苦悶の声を上げた。
そこは『重力反転の回廊』。
足元の岩が上へ、頭上の石柱が下へと、空間の法則が障気によってねじ曲げられておった。
平衡感覚を失い、上下の区別がつかなくなった空間で、新たな魔物が現れる。
目に見えない不可視の風の刃を操る、『大気の死神』。
「姿が、見えません……! 魔法の探知も乱されています!」
レイアが周囲を警戒するが、死神の鎌は予期せぬ方向、天井(あるいは床)から無慈悲に振り下ろされる。
「くっ……!」
レオナの肩が薄く切り裂かれた。
クロウがおれば、あやつの並外れた五感で一瞬にして位置を特定し、無力化していただろう。じゃが、今ここにあやつはおらん。
わらわは、思わず指先に黄金の狐火を灯しかけた。
一振りで、この不快な死神どもを灰にしてやりたい衝動に駆られる。
じゃが……わらわは、灯した火を静かに消した。
レイアたちが、死神の攻撃を受けながらも、互いの背中を合わせ、目ではなく『感覚』を研ぎ澄ませ始めたからじゃ。
「……シルヴィアさん。レオナさん。……聞こえますか? 風の『音』が、刃が通る時だけ、わずかに高くなっています」
レイアが、目を閉じ、精神を集中させておる。
「……ええ。障気の乱気流の中に、一筋だけ鋭い波形があるわ」
「ガハハ! 私の耳も、伊達に獅子の耳じゃないぞ! 右斜め後ろだ!!」
三人の意識が、クロウという導き手なしで、一つの点へと収束していく。
見えぬなら、感じるまで。
彼女たちは自らの力で、この絶望的な環境に適応しようとしておるのじゃ。
「――そこだッ!!」
レイアの剣が虚空を叩き、シルヴィアの矢が一点を射抜く。
断末魔の声と共に、不可視の死神がその姿を現し、霧散していった。
わらわは、その光景を満足げに見つめ、小さく頷いた。
「くふふ……。クロウよ、お主が手塩にかけて育てた娘たちは、案外逞しいぞ」
あやつが地下で泥にまみれ、セツナと共に道を拓いておる間に。
地上でもまた、残された者たちが自らの殻を破り、真の強さを手に入れようとしておる。
わらわは、黄金の瞳をさらに細め、遠く霊峰の頂を見据えた。
邪竜の障気が濃くなるにつれ、迷宮の難易度はさらに跳ね上がるじゃろう。
じゃが、今の彼女たちなら、わらわが手を貸すまでもなく、あの約束の場所へと辿り着けるかもしれん。
「さあ、お主たちの真価を見せてみよ。……わらわが、最後まで特等席で見届けてやるからな」
タマモは三本の尻尾をご機嫌そうに揺らし、必死に空中迷宮を駆け抜ける少女たちの後を、音もなく、優雅についていった。




