第69話 暴風の死闘と、受け継がれし神代の牙
地下5階。
古代の石造建築が広大な円形広場を形作るその中心で、俺たちの前に立ち塞がったのは、もはや生物としての形すら危うい、巨大な骨と腐肉の塊だった。
『オォォォォォォォォォ……ッ!!!』
咆哮。
放たれた音圧だけで、周囲の石柱に深い亀裂が入り、足元の瓦礫が粉々に砕け散る。
それが、かつてこの霊峰の風を統べ、障気の侵食から里を守るために自らを犠牲にして迷宮に残ったという、風龍の元族長――その無惨な成れの果てだ。
「……セツナ。油断するな。今までの階層とは、次元が違うぞ」
俺は『伝説級:深淵の剣盾』を正面に構え、極限まで重心を落とした。
『状態異常完全無効』によって障気の毒こそ防げているが、元族長が放つ「真空の暴風」そのものは、物理的な破壊質量となって俺の全身を打ち据える。
『死ネ……全テ、塵ト化セ……ッ!』
元族長が巨大な骨の翼を羽ばたかせた瞬間、広場全体が漆黒の竜巻に飲み込まれた。
視界はほぼゼロ。四方八方から、岩盤をも容易く切断する「真空の鎌」が、乱れ撃ちのように飛来する。
「くっ……!」
俺は大剣の腹と盾を使い、飛来する風の刃を弾き、受け流す。だが、重い。一撃一撃が、攻城兵器の直撃を受けたかのように腕の筋肉を軋ませる。15年のサバイバルで培った「いなし」の技術をもってしても、その圧倒的な質量と手数すべてを完全に殺し切ることは不可能だった。
「ご主人様!!」
俺の背後から、風を纏ったセツナが飛び出した。
地下階層で掴んだ「風に溶け込む」歩法。彼女は真空の刃の隙間を縫うように駆け抜け、元族長の死角へと回り込もうとする。
だが――甘かった。
『小賢シイ……ッ!』
元族長の巨体が、その巨体に似合わぬ異常な速度で反転した。
ただ風を読めば避けられるような単純な気流ではない。元族長の周囲には、幾重にも圧縮された『絶対防御の乱気流』が渦巻いていたのだ。
「シィッ!」
セツナの双剣が元族長の足元に放たれるが、硬質な風の鎧に阻まれ、刃は浅く弾かれる。
直後、弾かれたセツナの身体を、巨大な骨の尾が薙ぎ払った。
「セツナ!!」
俺は地面を蹴り、空中に放り出されたセツナと、追撃に来た元族長の爪の間に割り込んだ。
ガガァァァンッ!!!
「ぐ、ぅぉぉぉっ……!!」
盾越しに伝わる絶大な衝撃。俺の身体が後方へ吹き飛ばされ、石の壁に激突する。
肺から空気が強制的に絞り出され、口の中に鉄の味が広がった。
「ご、ご主人様っ……! 私のせいで……っ」
雪崩れ込んできたセツナが、俺を庇うように前に立つ。その細い肩は、絶望的な力の差に小刻みに震えていた。
「……気にするな。これくらい、無人島の火山の噴火に比べれば……どうってことない」
俺は口元の血を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
俺の回復力ならすぐに傷は塞がる。だが、今のまま真正面から突っ込んでも、あの『絶対防御の乱気流』を破ることはできない。
「セツナ。よく見ろ。あの風は……ただ狂っているだけじゃない」
俺は荒い息を整えながら、元族長を包む漆黒の風を見据えた。
「……え?」
「お前ならわかるはずだ。あの風には、怒りだけじゃなく……悲しみと、苦痛が混ざっている。障気に無理やり操られ、愛する同胞たちを傷つけることを、あの魂の奥底で拒絶しているんだ」
セツナがハッとして、琥珀色の瞳を見開く。
気配を断ち、風に溶け込むことを覚えた彼女だからこそ、その乱気流の中に潜む『真の気流(心の声)』に気づくはずだ。
「……抵抗している。あの方自身の風が、障気の風と喧嘩しているんですね……」
「そうだ。だから、風の鎧には必ず『綻び』ができる瞬間がある。……俺が、あいつの注意と風をすべて真正面から引き受ける。お前は風の『目(悲しみ)』を突け!」
「……はいっ!!」
俺は深淵の大剣を両手で握り直し、全身の魔力回路を全開にした。
筋肉の限界を超えるオーバードライブ。ゼロから100への、渾身の踏み込み。
「オォォォォッ!!」
俺の咆哮に呼応するように、元族長もまた、口径数メートルにも及ぶ極大の『漆黒の竜巻ブレス』を放ってきた。
真正面からの激突。
俺は逃げず、大剣の切っ先を竜巻の中心へと突き立てた。
凄まじい風圧が俺の外套を千切りかけ、皮膚を薄く切り裂いていく。だが、俺は一歩も引かない。
「ここだ、セツナァァッ!!」
俺が強引に抉り開けた、竜巻のコンマ数秒の『真空の隙間』。
その僅かな亀裂へと、セツナが風の束となって滑り込んだ。
『ガ……ァ……ッ!?』
元族長が迎撃しようと風を動かすが、セツナはすでにその「乱れ(綻び)」を完全に読み切っていた。
風に抗うのではなく、元族長自身の悲しき風の軌道に寄り添い、共に空を舞うように。
流星のような速度で元族長の懐に潜り込んだセツナの双剣が、障気の核となっている胸元の巨大な黒い魔石を、クロス状に斬り裂いた。
パキィィィンッ!!
甲高い破砕音と共に、障気の核が砕け散る。
広場を覆っていたドス黒い風が、嘘のようにピタリと止んだ。
ドスゥン、と。
糸が切れた操り人形のように、元族長の巨大な骨の体がその場に崩れ落ちた。
「……はぁ、はぁ……っ。やった、か」
俺は膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。セツナもまた、着地と同時にその場にへたり込んだ。
『…………ぉ、ぉぉ…………』
沈黙した広場に、地鳴りのような、だが不思議と穏やかな声が響いた。
崩れ落ちた元族長の眼窩から、漆黒の濁りが消え、かつての誇り高い風龍としての、澄んだ蒼い光が灯っていた。
『……見事ダ。人ノ子ヨ。……ソシテ、清ラカナ風ヲ纏ウ、獣ノ娘ヨ……』
元族長の巨大な頭部が、ゆっくりとセツナの前まで伸びてきた。
セツナは双剣を収め、吸い寄せられるようにその龍の鼻先へと手を伸ばした。
「……あなたは、ずっと一人で戦っていたんですね。私たちのために……ありがとうございました」
セツナの言葉に、元族長の魂が微かに震える。
『……我ハ、長キ悪夢ヲ見テイタ。……ダガ、貴殿ノ刃ガ、ソレヲ断チ切ッテクレタ。……我ガ魂ハ、コレデヨウヤク、風ニ還ルコトガデキル……』
元族長の意識は、風前の灯火だった。砕かれた核の代わりに、彼の存在そのものが今、大気へと溶けようとしている。
彼は最期の力を振り絞り、その胸の奥底――障気に侵されな
かった唯一の純粋な魔力器官から、一つの『結晶』を吐き出した。
『……娘ヨ。我ガ魂ノ欠片……古ノ風刃ヲ、貴殿ニ託ソウ。……ソレヲ持ッテ、我ガ同胞タチノ、閉ザサレタ心ヲ導イテクレ……』
「……はい。必ず」
その言葉を最後に、風龍の元族長の巨体は、一筋の清らかな風となって広場に霧散した。
後には、静寂と、セツナの前に残された二振りの美しいダガー。そして、祭壇の奥から浮かび上がった、風龍の正統な長を示す『古びた石板』だけが残された。
俺は歩み寄り、石板をアイテムボックスに収めると、セツナの前に転がるダガーを見つめた。
透き通るような翠色の刃。それ自体が風でできているかのように揺らめき、柄には神代の時代の文字が刻まれている。
「……見せてみろ、セツナ。鑑定をかけてみる」
俺はサバイバーとしての観察眼と、魔力構造を読み解く『鑑定』のスキルを、その翠色の刃へと向けた。
数秒後。俺の脳内に弾き出されたその武器の情報に、俺は思わず息を呑んだ。
「……嘘だろ。こいつは、ただのアーティファクトじゃないぞ」
「ご主人様……? この短剣、そんなにすごいものなんですか?」
俺はダガーの柄にそっと手を伸ばしてみた。
だが、俺の指先が柄に触れる数ミリ手前で、バチィッ! と翠色の火花が散り、見えない強固な風の壁に指を弾き返された。
「痛っ……なるほど、そういうことか」
「ご、ご主人様!? 大丈夫ですか!?」
「ああ、かすり傷だ。……セツナ、こいつの名は『嵐穿の虚空刃』。レアリティは、伝説級すら凌駕する、失われた時代の遺産……『神代級』だ」
俺の言葉に、セツナが驚いて目を丸くする。
「神代級……っ!? そんな、国が買えるようなものを、私が……」
「ああ。この刃には、極めて強力な『魂の紐付け(ソウル・リンク)』が施されている。元族長に認められたお前以外の人間が触れようとすれば、今みたいに不可視の結界に弾かれて、指一本さわることすらできない仕組みだ。……正真正銘、世界でセツナ専用の武器ってわけだ」
俺が微笑みかけると、セツナは恐る恐るその柄へと手を伸ばした。
結界は彼女の指を弾くことなく、まるで主の帰還を喜ぶように、翠色の光を優しく明滅させた。
「能力は、風と空間への干渉。……お前が投擲すれば、刃は空間を切り裂いて標的を貫き、風の軌道を通って一瞬で手元に戻ってくる。お前の暗殺術と合わされば、もはや防ぐ手段はない」
「私の、ための……刃」
セツナは『嵐穿の虚空刃』を胸に抱きしめ、深く頭を下げた。
彼女の背負うものが、また一つ増えた。だが、今の彼女なら、その重さを力に変えて空を駆けることができるだろう。
「よし。長居は無用だ、地上へ戻ろう」
俺たちは、元族長の魂が導いてくれた祭壇の奥の転移陣へと足を踏み入れた。
眩い光に包まれながら、俺の胸には確かな手応えがあった。
バラバラだったドラゴンたちの心。その最後のピースは、今、俺たちの手の中にある。
霊峰の頂、風龍の里へと続く道が、今、高らかに拓かれたのだった。




