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第68話 疾風の試練と、風を纏う刃

谷底の岩壁に隠されていた古代の石扉。


重々しい音を立ててその扉を押し開け、俺とセツナが一歩足を踏み入れた瞬間――背後の扉が、自らの意思を持つかのようにガァンッ! と完全に閉ざされた。


「……ッ! ご主人様、閉じ込められました!」


「慌てるな。古代の迷宮にはよくある防衛機構だ。……それに、どうやら歓迎されているわけでもなさそうだな」


俺は静かに『伝説級:深淵の剣盾』を抜き放った。


ここは、かつての風龍たちが極限の障気から逃れるために築いたとされる緊急避難路――『疾風の魔穴』。だが、数千年の時を経て邪竜の障気が沈殿したこの地下空間は、今やSランクを超える最悪の殺人迷宮へと変貌していた。


地下1階。


薄暗い石造りの通路には、地上の嵐さえも生温く感じるほどの「殺意ある突風」が絶え間なく吹き荒れている。


俺には『状態異常完全無効』があるため、風に含まれる障気や、息を吸うのも困難な気圧変化は問題にならない。だが、セツナの表情は険しかった。


『グルルルゥゥ……ッ!!』


風切り音に混じって、低く濁った獣の唸り声が響く。


通路の奥から現れたのは、実体を持たない乱気流そのものが狼の形を成した魔物――『旋風の猟犬ゲイル・ハウンド』の群れだった。


「セツナ、俺の動きを見ておけ。こういう『自然現象そのもの』みたいな相手には、力任せに打ち合っても体力を消耗するだけだ」


俺はあえて脱力し、大剣をだらりと下げたまま群れの中へ歩み出た。


ゲイル・ハウンドたちが一斉に跳躍し、真空の刃を伴った牙を剥く。だが俺は、その牙を力で弾き返すことはしない。


「風の流れには、必ず『芯』がある」


俺は突風の軌道にそっと大剣のひらを添え、風の勢いを利用して刃を滑らせた。


無理に逆らうのではなく、相手の運動エネルギーをそのまま受け流し、わずかな角度をつけて軌道を逸らす。直後、態勢を崩した猟犬たちの魔力核コアを、最小限の動きで正確に貫いた。


パキィンッ! と音を立てて、魔物たちがただのそよ風となって消え去る。


「……自然界の猛威に、力で逆らえば死ぬ。無人島のサバイバルで嫌というほど学んだことだ。……風の向きを読み、その流れに乗るんだ」


「風の向きを読み、流れに……乗る」


セツナは俺の戦い方をその琥珀色の瞳に焼き付け、真剣な表情で頷いた。


地下2階へと続く階段を降りると、迷宮の構造はさらに複雑さを増した。


通路のあちこちに亀裂が走り、そこから不規則な突風が吹き出している。


「ご主人様、今度は私が前衛を!」


「ああ、頼む。だが無理はするなよ」


セツナが双剣を構えて先行する。


暗殺者として『気配を消す』ことにおいては、彼女の右に出る者はいない。だが、この階層に潜んでいた魔物は、気配ではなく『風の乱れ』を感知する生態を持っていた。


キキィィィッ!!


天井の亀裂から、刃のように鋭い羽根を持つ巨大な蟷螂カマキリの魔物――『暴風刃の蟷螂ストーム・マンティス』が奇襲を仕掛けてきた。


「ッ! シィッ!!」


セツナが素早く双剣を振るう。彼女の速度は申し分ない。だが、渾身の力で振るった彼女の刃は、蟷螂が纏う強烈な風のバリアに弾かれ、逆にその反動で体勢を崩してしまった。


「しまっ――」


蟷螂の鋭い鎌が、風を切り裂きながらセツナの死角を突く。

俺が飛び出そうとした瞬間、セツナは獣人特有の驚異的な柔軟性で身体を捻り、致命傷を避けた。だが、彼女の白い頬に、薄く赤い線が走る。


「ガァッ!」


俺が背後から投擲したナイフが蟷螂の複眼を貫き、絶命させる。


すぐさまセツナに駆け寄り、俺はアイテムボックスから傷薬を取り出した。


「……ごめんなさい、ご主人様。私、力任せに振ってしまって……」


セツナが悔しそうに俯く。俺は彼女の頬の傷に優しく薬を塗り込みながら、静かに首を振った。


「謝るな。怪我が浅くてよかった。……セツナ、お前は今まで、気配を『消す』ことに特化してきた。だが、ここは風が支配する空間だ。気配を消して虚無になろうとしても、そこに『抵抗』があれば風にぶつかる」


俺は彼女の小さな手を握り、吹き荒れる通路の風へと向けさせた。


「風を敵だと思っちゃいけない。風を読み、風に溶け込み、風の魔力をお前自身の刃に纏わせるんだ。……お前のその高い適応能力なら、絶対にできる」


「……風に、溶け込む」


俺の言葉を反芻するように呟き、セツナはそっと目を閉じた。


その小さな身体が、ゆっくりと呼吸を深めていく。


地下3階。


そこは、これまでの魔物との戦闘とは毛色が違う、純粋な『トラップの階層』だった。


一見すると何もない石造りの大広間。だが、俺の『サバイバーの勘』が、そこかしこに張り巡らされた死の気配を感知していた。


「……厄介だな。床のタイルの大半が感圧式のスイッチになっている。一度でも踏み違えれば、四方八方から見えない真空の刃が飛んでくる仕組みだ」


俺が小石を一つ投げ入れると、カチッという音と共に、広間の空間が切り刻まれるほどの凄まじい風の刃が交錯した。


「ご主人様。……ここは、私に行かせてください」


セツナが静かに目を開き、広間の前へと進み出た。


彼女の瞳には、もう迷いはなかった。


「……よし、任せた。お前の感覚を信じろ」


セツナは双剣を鞘に収め、完全に脱力した状態で広間へと足を踏み入れた。


その瞬間。


シュッ! という微かな音と共に、罠が作動し、不可視の風の刃が彼女の首筋へと迫る。


「セツナ!」


俺が叫びかけた時だった。


彼女の身体が、まるで一枚の木の葉のように、ふわりと『ズレ』たのだ。


風の刃を避けたのではない。風が吹き込んでくるその微かな気圧の変化を肌で感じ取り、刃が到達するよりも早く、風の通り道から自身の身体を滑らせたのだ。


「……視えます。風がどこで生まれ、どこへ向かおうとしているのかが」


セツナの足取りは、もはや歩行ではなく、風を伴奏にした舞いだった。


感圧スイッチを踏むことすら、意図的に風の刃を発生させ、その気流に乗って自身の身体を空中に浮き上がらせるための『足場』として利用している。


シュンッ、シュンッ! と、彼女の身体を掠めるように風の刃が通り過ぎていくが、そのどれもが彼女の衣服の裾すら切ることはできない。


かつての暗殺者としての極限の集中力が、大気中の魔力と完全に同調していた。


やがて彼女は、広間の最奥にある制御魔石の前に舞い降りると、指先でそれをコツンと叩き割った。


途端に、広間を吹き荒れていたトラップの風が嘘のように止む。


「……お見事だ、セツナ」


俺が追いつき頭を撫でてやると、彼女は猫耳をピコピコと動かして、満面の笑みを浮かべた。


「えへへ……! ご主人様のおかげです。私、なんだか風とお友達になれた気がします!」


地下4階。


迷宮の最深部を目前に控えたこの階層で、俺たちを待ち受けていたのは、風の魔力の集合体とも言える巨大な精霊――『大気の暴君テンペスト・エレメンタル』の群れだった。

実体を持たない彼らには、物理的な斬撃が通りにくい。


「ご主人様、ここは私が片付けます。……少しだけ、実験してみたいことがあるんです」


そう言って前に出たセツナは、愛用の双剣を静かに抜き放った。


そして、彼女自身の魔力を、周囲に吹き荒れる風の魔力と共鳴させる。


「――『纏旋風まといせんぷう』」


彼女が呟いた瞬間。双剣の刃の周囲に、超高密度の風の魔力が渦を巻き始めた。


刃の長さが、不可視の風によって数倍にまで拡張される。ただの物理攻撃から、風の属性を極限まで高めた魔法剣への昇華だ。


『ゴォォォォッ!!』


テンペスト・エレメンタルたちが一斉に襲いかかってくる。

だが、セツナは風に抗わず、むしろエレメンタルの放つ突風に自ら乗った。


「シィッ!!」


突風を背に受け、彼女の身体が弾丸のような速度で空間を駆け抜ける。


すれ違いざまに放たれた『風を纏った双剣』の一閃は、実体のない精霊たちの魔力核を、その周囲の空気ごと完全に切り裂いていた。


斬撃の跡には、遅れて真空の波が弾ける音が響く。


数秒後。巨大な精霊の群れは、ただの一度もセツナに触れることすらできず、ただの霧散した魔力となって地下迷宮に溶けていった。


「……すごいな。たった数階層で、完全に風を自分のモノにしたのか」


「ふぅ……。ご主人様の隣に立つなら、これくらいできなきゃダメですから!」


額に薄っすらと汗をかきながらも、セツナの表情はこれまでにないほど力強く、頼もしさに満ちていた。


15年間、一人で生き抜く術しか知らなかった俺に、仲間が成長していく姿を見守るという喜びを教えてくれる。……本当に、俺のパーティは最高の仲間たちばかりだ。


そして、俺たちはついに最下層――地下5階へと足を踏み入れた。


広大な円形の最深部。空気がこれまでの階層とは全く違う。


純粋な風の魔力に、どす黒く粘り気のある『邪竜の障気』が濃密に混ざり合い、息をするだけで肺が焼けるような錯覚に陥る。


その広間の中央。


何本もの太い鎖で巨大な祭壇に繋がれたまま、それは鎮座していた。


「……あれが、この迷宮の主か」


巨大な骨の塊。


腐敗した皮膜の残る翼はボロボロに破れ、かつての美しい蒼い鱗は、障気によって漆黒に染まり切っている。


だが、その巨体から放たれるプレッシャーは、これまで戦ってきたどのドラゴンとも比較にならないほど圧倒的だった。


『ゴォォォォォォォォォ……ッ!!!』


俺たちの侵入に気づき、巨大な骨のドラゴンが、地獄の底から響くような咆哮を上げた。


ただの咆哮ではない。放たれた衝撃波だけで、迷宮の石柱がメキメキと音を立てて砕け散る。


「……間違いない。あれは、かつて風龍の里を治めていたという元族長だ。……邪竜の障気に呑まれ、死してなお、狂乱の亡者ゾンビドラゴンとしてこの迷宮を彷徨い続けているんだ」


悲しき英雄の成れの果て。


かつて里を守るためにこの避難路を造り、最後までここに残って障気を食い止めようとしたのだろう。その誇り高き魂が、今は呪縛となって彼自身を縛り付けている。


「……ご主人様。あの方を、楽にしてあげましょう」


セツナが、風を纏った双剣を強く握りしめる。


「ああ。これ以上の冒涜は許されない。……俺たちの全力で、かつての英雄の魂を解き放つぞ」


Sランクを超える災厄級の難易度を誇る、古代迷宮の最深部。


強大な障気の嵐が吹き荒れる中、俺とセツナは、呪われた風龍の族長を鎮魂するため、並び立って大地を蹴った。


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