第67話 引き裂かれた空と、風穴の迷宮
水龍の長、リヴァイアから蒼き宝玉を受け取った俺たちは、さらなる霊峰の高み――『風龍の里』を目指してタロウ号を進めていた。
だが、氷の世界を抜けた先に待っていたのは、これまでの過酷さを嘲笑うかのような、常軌を逸した「空の魔境」だった。
「……ひどい有様ね。大気中の魔力が完全に暴走しているわ」
シルヴィアが、魔導書を片手に険しい表情を浮かべる。
俺たちの目の前に広がっていたのは、巨大な岩山が巨人の刃で乱雑に切り裂かれたような、底の見えない大峡谷だった。無数の奇岩が宙に浮き、谷底からは鼓膜を破るほどの凄まじい風切り音が絶え間なく鳴り響いている。
ただの強風ではない。邪竜の障気が風の魔力と結びつき、目に見えない無数の『風の刃』となって空間を乱舞しているのだ。
「シルヴィア。万が一の時のために、バベルと繋がる転移門は開けそうか?」
俺が尋ねると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「ダメよ。空間の座標が風の魔力でズタズタに引き裂かれているわ。……今の状態じゃ、転移魔法を使うのは危険すぎる。空間の狭間に放り出されてしまうわ」
「つまり、後戻りもショートカットもできないってことだな」
俺は御者台から降り、タロウの様子を確認した。
暴君地竜であるタロウの巨体と車輪のついたキャンピングカーでは、この乱気流が吹き荒れる細い岩の道を進むのは不可能に近い。
「タロウはここに置いていくしかないな。……みんな、ここからは徒歩だ。突風に煽られないよう、姿勢を低くして進むぞ」
「はいっ!」
レイアが魔法剣を杖代わりに地面に突き立て、レオナがハルバードを構えて風の抵抗を減らす。タマモは「風で髪が乱れるのは嫌じゃ……」と文句を言いながらも、自らの身体に薄い魔力の膜を張って歩き出した。
「ご主人様。私が少し先を行って、風の通り道(安全なルート)を探ってきます」
獣人としての並外れた平衡感覚と、暗殺者の身のこなしを持つセツナが進み出る。
「頼む。だが、絶対に無理はするなよ。少しでも異変を感じたらすぐに下がれ」
「はいっ、お任せください!」
セツナは身を低くし、強風を柳のように受け流しながら、切り立った崖沿いの細い道を先行していった。
彼女の足取りは驚くほど軽く、風の刃の軌道を本能で読み切っている。さすがは俺の誇る、最高の暗殺者だ。
順調にルートを確保し、俺たちも彼女の背中を追って慎重に歩みを進めていた――その時だった。
『ゴォォォォォォォォッ!!』
突然、谷底からこれまでとは全く質の違う、どす黒い障気を纏った『超高圧縮の竜巻』が吹き上がったのだ。
それは自然の風ではなく、明確な悪意を持って真下からセツナの足元を強襲した。
「ッ……!? きゃあっ!!」
「セツナ!!」
足元の岩盤ごと竜巻に巻き上げられ、セツナの小柄な身体が宙に浮く。
暗殺者の身のこなしをもってしても、足場が何もない空中では為す術がない。彼女の身体が、底なしの暴風谷へと真っ逆さまに吸い込まれていく。
思考よりも早く、俺の身体が動いていた。
『ゼロから100』への爆発的な踏み込み。俺は迷うことなく崖を蹴り、自ら暴風の吹き荒れる谷底へと身を投げ出した。
「クロウさんッ!!」
「旦那様!!」
レイアとレオナの悲鳴のような声が遠ざかる。
俺は空中で体勢を整え、必死に手を伸ばすセツナの細い腕をガッチリと掴み、そのまま自分の胸の中へと強く抱き寄せた。
「ご、ご主人様っ……!? どうして、こんな……!」
「舌を噛むぞ! 俺から絶対に離れるな!!」
俺はセツナを外套で包み込みながら、崖の上で見下ろしている仲間たちに向かって、渾身の力を込めて叫んだ。
「お前たちは先へ進め!! 俺たちは自力で這い上がる!! 風龍の里で合流だ!!」
「でも……ッ!」
「信じろ!!」
俺のその一言に、レイアがハッと息を呑み、そして強く頷くのが見えた。
直後、俺とセツナは荒れ狂う風の刃に巻き込まれ、深い谷の底へと一気に落下していった。
◆
「ぐ……ッ!!」
落下しながら、俺はアイテムボックスから長めのワイヤーを取り出し、通りすがりの奇岩に巻き付けて落下の勢いを強引に殺した。
腕の筋肉が千切れそうになるほどの衝撃。だが、無人島で幾度も崖から転落しそうになった経験に比べれば、対処のしようはある。
何度か岩肌に叩きつけられながらも、俺はセツナを完全に庇ったまま、谷底の薄暗い岩棚へと転がり落ちた。
「……痛っ。ふぅ、なんとか生きてるな」
俺はゆっくりと身を起こし、全身の骨と筋肉の状態を確認した。
背中と腕にいくつか打撲と切り傷があるが、『ハイヒューマン』の異常な回復力によって、すでに血は止まり、痛みも引いてきている。
「ご主人、様……」
俺の胸の中で、セツナが震える声で顔を上げた。
彼女に怪我はない。だが、その琥珀色の瞳からは、ポロポロと大粒の涙が溢れ出していた。
「私、私のせいで……っ! 私が油断したせいで、ご主人様をこんな危険な目に……っ!」
セツナは俺の胸ぐらをギュッと掴み、ボロボロと泣きじゃくる。
「……気に病むな、セツナ」
俺はため息をつき、彼女の頭にポンと手を乗せた。
そして、その柔らかい獣耳を優しく撫でてやる。
「お前が先行してルートを探ってくれたから、みんな巻き込まれずに済んだんだ。それに……俺の大切な家族が落ちていくのを、黙って見ていられるわけがないだろ」
「ご主人、様……うぅっ……」
「俺たちは生きている。怪我もない。サバイバルにおいて、これ以上の『大成功』はないよ」
俺が落ち着いた声でそう告げると、セツナは俺の胸に顔を押し当てて、しばらくの間、声を殺して泣いていた。
彼女の涙が落ち着くのを待ってから、俺は立ち上がり、上を見上げた。
「……ひどい有様だな」
思わず口をついて出た。
俺たちが落ちてきた谷の上空は、漆黒の障気と、岩をも容易く粉砕する超高密度の風の刃が、文字通り「ミキサー」のように荒れ狂っていた。
登攀技術がどうこうという次元ではない。あの風の壁の中に飛び込めば、たとえ神話級の防具を着ていても細切れにされてしまうだろう。
「ご主人様……これでは、上に戻るのは不可能です。皆さんと合流するには、どうすれば……」
セツナが絶望的な表情で強風を見上げる。
「上から帰れないなら、別の道を探すまでだ」
俺は視線を下げ、谷底の周囲を慎重に観察し始めた。
光の届かない薄暗い谷底。だが、俺の『サバイバーとしての勘』と、バベルの迷宮で培った『建築構造への知識』が、ある違和感を捉えた。
「……セツナ。あそこの岩壁を見てみろ。風化の仕方が、自然のものじゃない」
俺が指差した先。苔とツタに覆われた巨大な岩壁の一部が、わずかに直線的なカットを描いていた。
近づいてツタを剥がしてみると、そこには巨大な石の扉と、風化した『古代竜文字』のレリーフが刻まれていた。
「これは……遺跡?」
セツナが驚いて目を丸くする。
「ただの遺跡じゃない。ダンジョンだ。……ドラゴンたちは空を飛べるが、今のような極端な障気の嵐や、天変地異の際には、空が一番危険になる。もしかしたらこれは、昔の風龍たちが緊急時の避難路として作った『地下道』かもしれない」
俺は石の扉の隙間から漏れ出る、微かな、だが確かに澄んだ魔力の流れを感じ取っていた。
「……ビンゴだ。上空の魔力は完全に狂っているが、このダンジョンの奥からは、安定した風の魔力が流れてきている。……おそらくこの深部に、風龍の里へ直通する『古代の転移陣』が眠っているはずだ」
「地下から、直接里へ……! さすがご主人様です、どんな状況でも絶対に活路を見つけ出してしまうんですね!」
セツナの瞳に、再び希望の光が宿る。
「ただ、何百年も放置されたダンジョンだ。どんな魔物やトラップが待ち受けているかわからない。……今日は入り口でビバーク(野営)して、明日の探索に備えよう」
「はいっ!」
俺たちは石の扉を少しだけこじ開け、風の入ってこない安全な前室を確保した。
魔力回路が乱れているため、便利な魔導具は使えない。俺はアイテムボックスから火打ち石と乾燥した苔を取り出し、原始的な方法で火を起こした。
パチパチと燃え上がる小さな焚き火。
俺は鉄鍋に雪を溶かし、以前作っておいた『火龍の干し肉』と、薬効ハーブを放り込んだ。
じっくりと煮込むことで、干し肉に凝縮された旨味がスープに溶け出し、冷え切った身体に染み渡る極上の野戦食が完成する。
「美味しい……。身体の奥から、力が湧いてきます……」
スープを啜るセツナの顔に、ようやくいつもの血色が戻った。
火を囲みながら、セツナは俺の袖をギュッと握りしめ、揺るぎない眼差しで俺を見上げた。
「……ご主人様。私、絶対に、もっと強くなります」
「セツナ?」
「もう二度と、ご主人様にこんな無茶をさせないために。ご主人様がピンチの時は、私が誰よりも早く気付いて、私がご主人様を守れるくらい……最高の『刃』になりますから」
その真っ直ぐな誓いに、俺は静かに微笑み、頷き返した。
「頼もしいな。……なら、俺の背中はこれからもお前に預けるよ」
地上では仲間たちが、俺の言葉を信じて過酷な嵐の中を進んでいるはずだ。
レイアたちなら、必ず風龍の里に辿り着き、俺たちを待っていてくれる。俺にはその確信があった。
「明日はこの迷宮を踏破し、絶対にみんなの元へ帰るぞ」
「はいっ、ご主人様!」
風鳴りの響く古代の迷宮の入り口。
だが、この小さな焚き火の前だけは、互いを信じ合う確かな温もりで満たされていた。
明日は、未知なるダンジョンの最深部を目指す。
仲間たちとの再会を誓い、俺たちは静かに、短くも深い眠りについた。




