第59話 路地裏の幸福と、暗殺者の誓い ―― セツナ編
「ご主人様っ……! あっち、あっちにすっごく美味しそうな匂いがします……!」
レイア、シルヴィアとのデートを経て、迎えた三日目の朝。
個別デートの三番手を務めるセツナは、別荘のエントランスを出た瞬間から、背中のしなやかな尻尾をパタパタと千切れんばかりに激しく振っていた。
彼女が今日のために選んだのは、レイアたちのような煌びやかなドレスではない。動きやすさを重視しながらも、ふんわりとしたシルエットが可愛らしい、深い赤色のチュニックとショートパンツ姿だった。
腰には常に、彼女の『牙』である『伝説級:血竜の暗殺短剣』が二振り、静かに下げられている。
「わかった、わかった。落ち着け、セツナ。そんなに急がなくても、屋台の肉は逃げないぞ」
「だって……ご主人様と二人きりでお出かけなんて、夢みたいなんですっ! 今日は私、ご主人様を一日独り占めできるんですよね?」
嬉しそうに見上げてくる彼女の獣耳が、ピクピクと動く。
かつてバベルの奴隷商会で、生気を失い、ただ死を待つだけだった少女の面影はもうどこにもない。今の彼女は、愛する人と共に生きる喜びに満ち溢れた、年相応の無邪気な少女そのものだった。
セツナが今日望んだデートコースは、高級なレストランでも、静かな景勝地でもなく、帝都の活気あふれる「路地裏の屋台巡り(B級グルメツアー)」だった。
「ほら、ご主人様! あそこの屋台、人がたくさん並んでます! 絶対に美味しいですよ!」
俺の手を引いてズンズンと進むセツナ。
だが、その足取りを見て、俺は密かに感嘆の息を漏らしていた。
これだけ人がごった返す帝都の路地裏を歩いているというのに、セツナの肩は誰にもぶつからない。それどころか、雑踏の中で彼女の『気配』や『足音』は、まるで水に溶けるインクのように完全に周囲の環境と同化していたのだ。
皇帝直属のメイドにして元凄腕の暗殺者・ニーナ。彼女から叩き込まれた「日常の延長として気配を断つ」という極意が、すでにセツナの身体の芯まで染み込んでいる証拠だった。
ただ無邪気にハシャいでいるように見えて、彼女は俺の周囲の死角を完全にカバーし、いざという時にはゼロコンマ数秒で『不可視の刃』を抜ける状態を保っている。
「……本当に、立派な戦士になったな、セツナ」
「えっ? ご主人様、何か言いましたか?」
「いや、何でもない。よし、まずはあの『火牛の直火焼き串』から攻めるか」
「はいっ!」
屋台から漂う、焦げた脂と強烈なスパイスの香り。
俺たちは顔の大きさほどもある巨大な肉串を買い求め、路地裏のベンチに腰を下ろした。
「はふはふっ……あふっ、んん〜っ! 美味しいです……!」
セツナは目を細め、幸せそうに肉串に齧り付いた。
俺も一口食べてみる。獣人村で貰った『黄金スパイス』ほどの上品な辛味はないが、武闘国家らしいガツンと胃袋にくる粗削りな塩気とニンニクの風味が、肉の旨味を暴力的に引き立てていた。
「ご主人様の焼いてくれるお肉も最高ですけど、こうやって外で、ご主人様と一緒に食べるお肉も、なんだか特別な味がします!」
口の周りにタレをつけながら、満面の笑みで咀嚼するセツナ。
俺は苦笑し、懐からハンカチを取り出すと、彼女の口元を優しく拭ってやった。
「ほら、タレがついてるぞ。慌てて食べなくても、俺の分も半分やるから」
「ひゃうんっ……! あ、ありがとうございます……えへへ」
顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに獣耳をペタンと伏せるセツナ。
15年間のサバイバルで、ただ栄養を摂取するためだけに泥まみれの肉を飲み込んできた俺にとって、こうして『誰かと美味しいものを共有して笑い合う』という行為は、心を猛烈に温かく満たしてくれた。
◆
午後。
路地裏の屋台を隅から隅まで堪能し尽くした俺たちが向かったのは、帝都の街並みを一望できる、巨大な時計塔の屋上だった。
ここは一般人の立ち入りが少なく、風がよく通るため、獣人であるセツナの鋭い五感にとっても非常に心地よい場所だ。
眼下には、赤茶色の屋根が連なる帝都の街並みと、遠くに見える闘技場、そして皇宮の威容が広がっている。
吹き抜ける風が、セツナの赤いチュニックと、俺のアビス・クロークを大きく揺らした。
「……ご主人様」
手すりに寄りかかり、遠くの景色を見つめていたセツナが、ふと、普段の無邪気な声とは違う、どこか静かで大人びた声で口を開いた。
「私……あの暗い奴隷の檻の中にいた時、毎日、誰に届くともわからない祈りをしてたんです」
「祈り?」
「はい。……もし、この地獄から私を助け出してくれる人がいるなら。その人に、私の命も、心も、すべてを捧げようって」
セツナは俺の方に向き直り、その美しい琥珀色の瞳で、俺を真っ直ぐに見上げた。
「ご主人様は、私を買い取って、檻から出して、美味しいご飯を食べさせてくれました。だから最初は、ただ恩を返すための『道具』として、ご主人様のために死ぬ気でした」
彼女の腰にある『血竜の暗殺短剣』が、夕日を受けて鈍く光る。
「でも……今は、違います」
セツナは俺に一歩近づき、そっと俺の大きな手に、自分の小さな両手を重ねた。
「ご主人様と一緒にバベルで暮らして、旅をして、修行をして。……道具として死ぬためじゃなくて、ご主人様と一緒に『生きる』ために強くなりたいって、そう思うようになったんです」
彼女の手は、剣を握るための硬いタコができている。だが、同時にひどく温かかった。
「私、ニーナ師匠から教わった暗殺の技術を、これからはすべて、ご主人様の邪魔者を排除し、ご主人様の背中を『守る』ために使います。……誰よりも速く、誰にも気づかせず、ご主人様の脅威を刈り取ってみせます」
それは、帝国最高の暗殺技術を受け継いだ彼女なりの、最大限の愛の告白であり、忠誠の誓いだった。
「だから……これからもずっと、私を『ご主人様の一番の刃』として、側に置いてくれますか……?」
不安と期待が入り混じったような、震える声。
俺は重ねられた彼女の手を優しく握り返し、もう片方の手で、彼女の柔らかい獣耳の付け根を、ゆっくりと撫でてやった。
「……ああ。当たり前だ」
俺の言葉に、セツナの肩がビクッと跳ねる。
「だが、訂正させてくれ。お前は俺の刃であり、大切な家族だが……決して『道具』なんかじゃない。俺が命を懸けてでも守り抜きたい、たった一人の愛する女性だ」
「ご、ご主人様っ……」
「俺の背中は、お前に預ける。だからお前も、俺の隣でずっと笑って、一緒に美味い飯を食い続けてくれ。……愛してるよ、セツナ」
俺がはっきりとそう告げると、セツナの琥珀色の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
彼女は「ふぇ……っ、うあぁぁっ」と子供のように泣きじゃくりながら、俺の胸に勢いよく飛び込んできた。
「わ、私もっ……私も、愛してますっ……! 世界中の誰よりも、ご主人様のことが、大好きです……っ!!」
俺の背中に回された腕の力強さが、彼女の想いのすべてを物語っていた。
俺は時計塔の屋上で、夕日に照らされる帝都の街並みを背景に、嗚咽を漏らす愛おしい少女の背中を、何度も、何度も優しく撫で続けた。
守るべき存在が、また一人、俺の心に深く根を下ろす。
15年の孤独は、彼女たちの温もりによって完全に塗り潰され、俺は自分が無人島の『獣』から、愛を知る『一人の男』へと還ってきたことを、確かな実感と共に噛み締めていた。




