第116話 喪失の波紋と、ギルドの決断
アルカディア王国、迷宮都市バベル。
冒険者ギルド本部の最上階にあるギルドマスター室で、俺――バルガスは、山のように積まれた書類と格闘していた。
つい数日前、常夏の楽園ブルーオアシスで、あの規格外の冒険者クロウの一党が悪徳領主を叩き潰したという報告を受けたばかりだ。
その事後処理や、オケアノス王国からの抗議に対する王都ギルド本部との連携で、俺の胃は悲鳴を上げ続けていた。
「まったく、あいつらはどこに行っても特大の雷を落としやがる。」
俺は引き出しから胃薬の瓶を取り出し、数粒を水で流し込んだ。
だが、彼らが悪を許さず、虐げられた者たちを救ったことは事実だ。
冒険者としてはこれ以上なく真っ当で、誇るべき行動である。
(そろそろ、バベルの家に戻ってきてのんびりしてる頃だろうな。)
あの極上の魔改造拠点で、クロウの手料理を囲みながら、レイアやシルヴィア、セツナ、レオナ、そしてタマモたちが笑い合っている姿が目に浮かぶ。
あいつらがこのバベルにいてくれるというだけで、俺たちギルドにとってはどれほど心強いか。
そんなことを考えながら、ペンをインク壺に浸した、その時だった。
バンッ!!!
ギルドマスター室の分厚い扉が、蝶番が吹き飛ぶほどの勢いで乱暴に開け放たれた。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
俺が弾かれたように立ち上がると、そこには信じられない人物が立っていた。
「……バ、バルガス殿……っ!」
「ア、アルバート伯爵!? 一体どうされたんですか、そのお姿は!」
俺は目を疑った。
この迷宮都市バベルを治める領主であり、王都でも重鎮として知られるアルバート伯爵。
普段は隙のない貴族服を身に纏い、冷静沈着な彼が、今は髪を振り乱し、服は泥や砂埃にまみれ、息も絶え絶えになって立っていたのだ。
まるで、死に物狂いで馬を走らせてきたかのような、異常な姿だった。
「はぁっ、はぁっ……! ク、クロウ殿が……っ!」
「クロウたちが、どうかしたんですか!?」
アルバート伯爵は、俺のデスクの前に崩れ落ちるように両手をつき、血を吐くような悲痛な声で告げた。
「クロウ殿が、この国から……出て行かれた……!!」
「……は?」
俺の思考が、一瞬完全に停止した。
「出て行った……? 旅に出た、ということですか? それとも、またどこかの国へバカンスに……。」
「違う!! 違うのだ、バルガス殿!! 完全に、我がアルカディア王国を見限って……この国を、捨てたのだ!!」
アルバート伯爵の叫びに、俺の全身からスッと血の気が引いた。
「伯爵、落ち着いてください。順を追って説明を。」
俺は急いで椅子を勧め、水を一杯差し出した。
伯爵は震える手でグラスを受け取ると、一気に飲み干し、絶望に染まった瞳で語り始めた。
「王都の若手貴族、ランドルフ子爵が……王命を偽装し、私兵を率いてバベルのクロウ殿の屋敷を包囲したのだ。」
「なんだと……ッ!?」
俺は机を叩いて立ち上がった。
「彼らを王国の管理下に置くため、屋敷を接収し、従わねば不敬罪に問うと……あの愚か者は、彼らを脅したのだ。」
「正気の沙汰じゃねえ……ッ!!」
俺は怒りのあまり、握りしめていたペンをへし折ってしまった。
冒険者ギルドの最高位、SSランクに到達した英雄たちを、力で従えようとするなど、自殺志願者でもやらねえ暴挙だ。
レイアの剣技、シルヴィアの魔術、セツナの暗殺術、レオナの武力、そしてタマモの底知れぬ力。
彼らがその気になれば、あんな私兵の小隊など、一瞬で肉塊に変わっていただろう。
「……それで、クロウたちはどうしたんですか。あの若造を、消し炭にしたんですか。」
俺が冷や汗を流しながら尋ねると、アルバート伯爵は力なく首を横に振った。
「いや……クロウ殿は、剣すら抜かなかった。私に免じて、彼らの命を奪うことだけは避けてくれたのだ。」
「では……。」
「その代わり……クロウ殿は、あの巨大な屋敷のすべてを、あの凄まじい時空間魔法で丸ごと収納し……跡形もなく消し去ってしまった。」
「家ごと……収納した……?」
「ああ。そして、巨大な転移魔法を展開し、帝国へと去っていった。……二度と、この国には戻らないという、明確な決別を告げてな。」
ドスン、と。
俺は椅子に深く沈み込み、両手で顔を覆った。
「……最悪だ。」
頭の中で、警鐘がガンガンと鳴り響いている。
これはただ、「強い冒険者が一人引っ越した」という次元の話ではない。
国家の防衛、外交、そして冒険者ギルドと国家との関係性そのものを根本から揺るがす、歴史的な大事件だ。
俺はすぐに立ち上がり、引き出しから最上級の羊皮紙と、ギルドマスター専用の真紅の封蝋を取り出した。
「伯爵。この件、ギルドとして決して看過することはできません。」
俺のただならぬ気配に、アルバート伯爵も顔を上げた。
「……ああ。わかっている。」
「すぐに、王都のギルドマスターであるガウェインの旦那に早馬を出します。」
俺は新しいペンを握り、物凄い速度で手紙を書き殴り始めた。
「バルガス殿。その手紙には……何と記すつもりだ?」
アルバート伯爵が、覚悟を決めたような声で尋ねる。
俺は手を止めず、重苦しい声で答えた。
「『アルカディア王国との、今後の関係性の見直しについて』です。」
その言葉に、伯爵の肩がビクッと震えた。
「冒険者ギルドは、いかなる国家にも属さない中立の機関です。俺たちギルドは、冒険者が命を懸けて依頼をこなす対価として、彼らの身分と安全を保障する義務がある。」
俺は羊皮紙に、怒りを込めてインクを走らせる。
「だが、今回のアルカディア王国の行いはどうだ。ギルドが認定した最高位の冒険者に対し、王命を偽って武力で脅し、その財産を不当に奪おうとした。……これは、ギルドという組織そのものに対する、国家からの明確な『敵対行為』です。」
「……返す言葉もない。」
「クロウたちだから、誰も殺さずに出て行ってくれた。だが、もしこれがまかり通るなら、他の冒険者たちはどう思うか。『アルカディア王国では、理不尽な貴族の気分次第で、自分たちの財産や命が奪われる』……そう考えるのが普通だ。」
俺は書き終えた手紙に、バンッと真紅の封蝋を押し付けた。
「ガウェインの旦那も、これを知れば黙っちゃいないでしょう。最悪の場合、ギルドはアルカディア王国への『高ランク冒険者の派遣停止』、あるいは『ギルド機能の一部凍結』を決断する可能性があります。」
高ランク冒険者が国からいなくなる。
それは、変異種や大規模なスタンピードが発生した際、国を守る矛と盾が消滅することを意味する。
王国の正規軍だけでは、凶悪な魔物の群れを捌き切ることは絶対に不可能だ。
国境の防衛は崩壊し、街道は魔物に溢れ、物流は止まり、やがて国は滅びる。
「……今まで、俺たちギルドと王国は、互いに助け合い、良好な関係を築いてきた。だが、あの一部の馬鹿な貴族のせいで、その信頼関係に致命的なひびが入ったんです。」
俺が厳しい視線を向けると、アルバート伯爵は逃げることなく、俺の目を真っ直ぐに見返した。
「……バルガス殿の言う通りだ。ギルドの対応は、あまりにも正当であり、王国は甘んじてそのペナルティを受けるべきだろう。」
アルバート伯爵は、泥にまみれた騎士服の襟を正し、深く、重々しく告げた。
「だが、私はこのまま国を滅ぼさせるわけにはいかない。……この失態は、同じアルカディア王国の貴族である、私の責任でもあるのだから。」
その瞳には、かつて前線で剣を振るっていた武人としての、凄まじい覚悟が宿っていた。
「私はこれから王都へと戻る。そして、クロウ殿を陥れたランドルフの派閥を、根こそぎ叩き潰す。」
伯爵の声には、一切の迷いがなかった。
「たとえこの首が飛ぼうとも、我がアルバート家のすべてを懸けて、王国の腐敗を焼き尽くしてみせる。……彼らがいつか、遠い異国でこの国の噂を聞いた時、せめて呆れられない程度の、真っ当な国に立て直すために。」
「……伯爵。」
その決意の重さに、俺はただ黙って頷くことしかできなかった。
「バルガス殿。ギルドからの厳しい沙汰、王国として正面から受け止めよう。……どうか、ガウェイン殿にそう伝えておいてくれ。」
アルバート伯爵はそう言い残し、来た時と同じように、風のような早さでギルドマスター室を後にした。
俺は手に残された真紅の封筒を見つめ、深く息を吐いた。
「……おい、誰かいるか!!」
俺が大声で呼ぶと、すぐにギルドの職員が部屋に駆け込んできた。
「マスター! いかがいたしましたか!」
「ギルドで一番速い馬を用意しろ! 王都のガウェインの旦那宛ての、最重要の緊急書簡だ! 昼夜を問わず駆け抜けろと伝えろ!!」
「は、はいっ!!」
職員が血相を変えて手紙を受け取り、部屋を飛び出していく。
「……まったく、とんでもない嵐を置いていきやがったな、クロウの野郎。」
窓の外を見下ろすと、バベルの街はいつもと変わらぬ活気に満ちている。
だが、あの迷宮都市の端にあったはずの、規格外の者たちが集う温かい家は、もうどこにもないのだ。
世界を救った彼らが去ったこの国に、これからどれほどの激動が訪れるのか。
俺は再びやってきた強烈な胃の痛みに顔をしかめながら、これから始まるであろう王国とギルドの果てしない交渉戦に向けて、腹を括るのだった。




