第113話 愚者の急襲と、消え去る我が家
クロウさんが、あの神獣フェニックスの元へと旅立ってから、約一時間が経過していた。
私は、クロウさんが私たちのために作ってくれた温かいリビングで、自らの愛剣を丁寧に磨いていた。
「ふぁぁ……。お腹もいっぱいじゃし、この床暖房はいつ寝転がっても最高じゃのう。」
タマモちゃんが、子供の姿のまま絨毯の上でゴロゴロと転がっている。
「本当に、クロウの作る家はどこよりも快適ね。……あら、セツナちゃん、どうしたの?」
シルヴィアさんが、窓の外をじっと見つめているセツナちゃんに声をかけた。
「……足音です。それも、たくさんの馬の。この家に真っ直ぐ向かってきています。」
セツナちゃんの銀色の耳が、ピクリと鋭く動いた。
その言葉に、庭でタロウの世話をしていたレオナさんも、怪訝な顔をしてリビングに戻ってきた。
「アタシも聞こえたよ。冒険者や商人じゃない。……綺麗に揃った、軍隊の行軍の音だ。」
レオナさんの言葉に、私は愛剣の柄をしっかりと握りしめ、立ち上がった。
迷宮都市バベルの端にあるこの家は、普段はとても静かな場所だ。
軍の小隊がやってくるような用事など、何一つないはずである。
窓から外を覗き込むと、完全武装したアルカディア王国の兵士たちが数十名、私たちの家をぐるりと包囲するように陣形を組んでいた。
「……何やら、ひどく不穏なにおいがするのじゃ。」
タマモちゃんが起き上がり、黄金の瞳を細めた。
彼女は小さな手を軽く振るい、家の周囲に不可視の防護結界を何重にも展開してくれた。
これで、外からいきなり魔法を撃ち込まれても家が傷つくことはない。
「シルヴィアさん。少し、外の様子を見てきましょう。」
「ええ、そうね。レオナとセツナちゃんは、ここでタマモちゃんと一緒に家を守っていてちょうだい。」
シルヴィアさんの指示に、二人は力強く頷いた。
私とシルヴィアさんは、油断なく警戒しながら、家の玄関扉を開けて外へと出た。
そこには、馬に跨り、私たちを見下ろすように鼻で笑っている若い貴族の男がいた。
「ほう。お前たちが、あのクロウとやらの取り巻きか。なるほど、噂に違わぬ美貌だな。」
男は、まるで品物を値踏みするような下品な視線を私たちに向けてきた。
「アルカディア王国の軍人が、私たちの家に何の用ですか。」
私が冷たい声で尋ねると、若い貴族はふんぞり返って答えた。
「私はランドルフ子爵。王国の名代として、貴様らに名誉ある通達をしに来てやったのだ。」
ランドルフと名乗った男は、懐から仰々しい羊皮紙を取り出した。
「オケアノスでの貴様らの勝手な振る舞い、王国は重く見ている。だが、その力に免じて罪には問わん。これより、貴様らクロウの一党は我がアルカディア王国の直轄部隊となり、私の傘下に入れ。そうすれば、十分な地位と金を与えてやろう。」
あまりにも突然の、そしてあまりにも傲慢な要求だった。
私とシルヴィアさんは、一瞬だけ顔を見合わせ、同時に冷ややかなため息をついた。
「……お断りします。」
私が即座に答えると、ランドルフの顔がピクリと引き攣った。
「私たちは、SSランクの冒険者です。どこかの国の軍隊に所属するつもりも、あなたの傘下に下るつもりも一切ありません。」
「それに、私たちが忠誠を誓い、共に在りたいと願うのは、愛するクロウただ一人よ。……あなたのような浅薄な男に、従う理由がどこにあるのかしら。」
シルヴィアさんも、氷のように冷酷な眼差しでランドルフを射抜いた。
「き、貴様ら……! たかが平民の冒険者風情が、王国の貴族に向かってその態度は何だ!!」
ランドルフが激昂し、兵士たちが一斉に槍を構える。
「言っておくがな! 貴様らが今立っているこの土地は、我がアルカディア王国のものだ! 私の誘いを断るというのなら、不敬罪としてこの家と土地を王国が没収する!!」
その卑劣な脅しに、私の中の怒りが静かに、しかし確実に沸点へと向かい始めた。
「この土地は、クロウさんが正当な手続きで、正式に購入した彼の持ち物です。王国であろうと、不当に奪う権利はないはずです。」
私が愛剣の鞘に手をかけると、ランドルフは醜く顔を歪めて笑った。
「平民が交わした契約など、貴族の権限があればいつでも白紙に戻せるのだよ! さあ、大人しく剣を捨てて傅け!!」
これ以上、言葉を交わす価値もない。
私とシルヴィアさんが、この愚か者たちを無力化するための魔力を練り上げようとした、その瞬間だった。
シュンッ!!
私たちのすぐ横の空間が歪み、見慣れた青白い光と共に、最愛の人が姿を現した。
「……随分と、騒がしいじゃないか。」
「クロウさん!」
「ピヨォォッ!!」
帰還したクロウさんの肩には、燃えるような真紅の羽毛を持つ、小さな神獣の雛が乗っていた。
だが、今は再会を喜んでいる場合ではない。
クロウさんは一目で状況を察し、私とシルヴィアさんの前に静かに歩み出た。
「な、なんだ貴様は! どこから現れた!!」
ランドルフが馬の上で狼狽える。
「俺がこの家の主のクロウだ。……留守中に、俺の大切な家族に随分と偉そうな口を叩いてくれたみたいだな。」
クロウさんの声は、信じられないほど静かだった。
だが、その身から放たれる絶対強者の覇気は、周囲の空気を物理的に重く押し潰すほどの圧力を伴っていた。
「ヒヒィィィッ!!」
軍馬たちが恐怖に泡を吹き、次々と前足を上げて暴れ出す。
「うわぁっ!? 貴様、何をした!!」
落馬しそうになりながら、ランドルフが必死に手綱を引く。
「俺は何もしていない。……で? 俺の土地の契約を白紙にして、家を没収するって言ったか?」
クロウさんが、一切の感情を排した冷たい瞳でランドルフを見下ろす。
殺意はない。
ただ、圧倒的なまでの強者としての圧力だけが、そこにあった。
「そ、そうだ! 貴様らが王国の傘下に入らないというのなら、この土地から出ていけ!!」
恐怖をごまかすように、ランドルフが甲高い声で叫んだ。
「……そうか。そこまで言うなら、別にいいぞ。」
クロウさんが、あっさりとそう口にした。
私とシルヴィアさんが驚いてクロウさんを見ると、彼は静かに、だが明確な怒りを込めて言った。
「俺たちの平穏な生活を力で脅かすような国に、これ以上未練はない。……この土地から、出ていってやる。」
「なっ……! 待て、待つのだ!!」
その時、後方の街道から、砂埃を上げて猛スピードで駆け込んでくる一台の馬車があった。
馬車から転がるようにして飛び出してきたのは、この迷宮都市バベルの領主であり、私たちの知人でもあるアルバート伯爵だった。
「アルバート伯爵……。」
「ハァッ、ハァッ……! ク、クロウ殿! 申し訳ない!! 私が止めるのも聞かず、この馬鹿者が勝手な真似を……っ!」
アルバート伯爵は、息も絶え絶えになりながら、クロウさんの前に深く、深く頭を下げた。
「伯爵、頭を上げてください。……あなたが謝る必要はありません。」
クロウさんは、アルバート伯爵には柔らかな声で応じた。
「これは、俺と、俺の家を力で奪おうとしたこの男、ひいてはアルカディア王国の一部の派閥との問題です。」
「お、お待ちを……! クロウ殿、どうか、どうか怒りを鎮めていただきたい! 彼の非礼は、私が必ず……っ!」
アルバート伯爵が必死に懇願するが、クロウさんの決意は揺るがなかった。
「伯爵には恩もありますし、個人的な恨みはありません。ですが、家族を理不尽な力で脅かされる不快感には、どうしても耐えられない。」
クロウさんは、すっと手を前にかざした。
「約束通り、この土地はお返しします。」
次の瞬間、クロウさんの手のひらから、規格外の膨大な魔力が放たれた。
それは、破壊の魔法ではない。
クロウさんが極めた、時空間魔法の無限収納の力だ。
ズゴゴゴゴゴォォォォッ!!!
地鳴りのような音と共に、私たちの背後にあった巨大な家が、光の粒子となって空間の渦へと吸い込まれ始めた。
屋根も、壁も、地下の永久床暖房の設備も、庭の柵に至るまで。
クロウさんが愛を込めて作り上げた魔改造拠点のすべてが、文字通り丸ごと収納空間の中へと吸い込まれてしまったのだ。
「な、な、な……っ!?」
ランドルフと兵士たちが、信じられないものを見る目で、ポカンと口を開けて呆然としている。
「あ、ああ……なんという損失だ……。」
アルバート伯爵が、その場に膝をついて絶望の声を漏らした。
家が消え去り、あとには綺麗に整地された四角い更地だけが残されている。
「これで満足か? 土地は返してやったぞ。」
クロウさんが、へたり込んでいるランドルフに向けて冷たく言い放つ。
「レイア、シルヴィア、セツナ、レオナ、タマモ。……行くぞ。」
「はいっ、クロウさん!」
私たちは、玄関扉だけが消えた空間から飛び出してきたセツナちゃんたちと合流し、クロウさんの周囲に円陣を組むように集まった。
「バベルの街には世話になったな。……じゃあな。」
クロウさんが指を鳴らすと、私たちの足元に巨大な転移魔法の魔法陣が展開された。
「ま、待ってくれクロウ殿!! どうか、我が国を見捨てないでくれぇぇっ!!」
アルバート伯爵の悲痛な叫び声が響く。
だが、光が視界を白く染め上げ、私たちの身体はふわりと宙に浮く感覚に包まれた。
愚かな貴族の暴走によって失われた、アルカディア王国での平穏な日常。
私たちは、クロウさんの転移魔法に導かれ、新たな拠点となる覇帝国ガレリアの巨大な屋敷へと、瞬時に空間を跳躍するのだった。




