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洞窟を快適にしていただけなのに、なぜか魔王のダンジョン扱いされています 〜クモ女子高生の巣作り生活〜  作者: 湿度管理係


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第36話:聖域を守るため潜入調査

門をくぐった瞬間、肌を刺す空気が変わった。


一週間前、この世の終わりみたいな顔で出陣していったはずの男が、どういうわけか「剥きたてのゆで卵」みたいなツヤッツヤのツラで帰還したのだ。足取りは羽毛のように軽く、革靴の音までが「らんららん」と浮かれている。


「……ま、マスター!? ご無事で……って、え?、ちょっと待ってください。その肌、何事ですか!? 発光してますよ! 夜道のランタン代わりになれるレベルですよ!」


後ずさる門番をよそに、ギルドマスターは不思議そうに首を傾げた。


「光っている? 気が付かなかった。……それより、この騒ぎは何だ。まさか帰ってきた私のために祝杯の準備でも?」


「祝杯!? どちらかと言えばお葬式の空気でしたけどね!」


嫌な予感が、胃のあたりを冷たく撫でる。案の定、ギルド本部の重い扉を開けた瞬間、その予感は最悪の形で的中した。


広場には、武装した冒険者たちがぎっしり。剣も槍も弓も、「今から敵の首を獲る」という殺気で溢れている。壇上では副ギルドマスターが、今にも決壊しそうな涙目で拳を握りしめていた。


「――皆、聞け! 我らがマスター、そしてその家族を含む多数の市民が『蜘蛛の迷宮』に囚われて一週間! 今ごろは精神まで侵され、帰還不能の状態に陥っているに違いない!!」


「おおおおお!!」

「マスターを返せぇぇ!!」

「俺の娘もいるんだぞぉぉ!!」

「奥さん救出だぁぁぁ!!」


怒号。熱気。殺気。

(ひぃぇえええ!!やめろぉぉぉぉ!!)

ギルドマスターの心臓が、氷水でもぶっかけられたように縮み上がる。


(違う! 全然違うぞ! あいつら今ごろ、ふかふかのソファに沈んで、高級ソルベをぺろぺろ舐め回してるだけだ! そのテンションで突っ込んだら、あの天国に『本日休業・出禁』の札が立つだろうがぁぁ!!)


「マ!マスター!!」


副ギルドマスターが壇上から飛び降り、がっしりと肩を掴んできた。その瞳は完全に「手遅れになる前にトドメを刺してやろう」という慈愛に満ちた殺意に燃えている。


「ご無事で……! ですが、その顔、その肌……っ。やはり……やはり邪悪な魔力による汚染が……!」


「いや違うよ?、これは単に羽毛布団の質と適温の風呂の――」


「言わされているのですね!? なんと無慈悲な……! もはや自分を自分だと認識することすら禁じられているとは……!」


「ちょ、いいから聞け!! むしろ自分が全開すぎて困ってるくらいだから!!」


「マスター、しっかりしてください! 今、聖水を――」


「かけるな! 冷たいし、保湿クリームおちるだろ!!高いんだぞコレ!!」


ばしゃっと一滴飛んできた水飛沫に、マスターは本気で肩をすくめた。周囲がざわつく。


「やはり反応があったぞ!」

「聖水を嫌がった! 効いてる、効いてるぞ!」

「やれやれ! 浄化の雨だ!ぶっかけろ!!」


「やめ!効いてない! 単に冷たくて不快なだけだ!!やめろぉおおお!!」


会話が通じない。

すべてが“絶望フィルター”を通して翻訳されている。


副官は低い声で告げた。


「いいですかマスター。あそこには我々の家族がいます。もはや一刻の猶予もありません」


その言葉に、場の空気が一段階重くなる。


(……あ、そうか。こいつら“家族が中にいる前提”で動いてるのか)


完全に一致している。事実と。


副ギルドマスターはさらに距離を詰め、骨が軋むほど顔を寄せた。


「いいですかマスター、蜘蛛の迷宮は『精神を食う魔境』です。一刻の猶予もありません!」


副ギルドマスターの叫びが、本部の執務室に響き渡る。机の上には、物騒な重火器や大規模魔法陣の設計図がこれでもかと広げられていた。


「まずは東門から火炎魔法で焼き払い、一気に中枢へ突入します。マスターを洗脳した忌々しい蜘蛛どもを、一匹残らず燻り出してやりましょう!」


(やめて! あの子蜘蛛たちは、マッサージがめちゃくちゃ上手いんだぞ!)


ギルドマスターは内心で絶叫しながらも、表面上は「深淵を知る者」の冷徹な顔を保った。


「落ち着け、副官。火炎魔法など、あの場所では蚊に刺された程度にもならん。むしろ……逆効果だ」


「逆効果!?」


「ああ。あの迷宮の空気は、高濃度の魔力で満たされている。火を放てば引火し、救出対象ごと消し飛ぶぞ。……家族ごとな」


「なんと……! では、酸の散布、あるいは毒ガスによる無力化は!?」


(勘弁してくれ! シェフが命を懸けて仕込んだ特製スープが台無しになるだろうが!)


「……毒か。フッ、甘いな。あの迷宮の主は毒を好む。散布した瞬間に吸収・強化され、こちらが汚染されるのが関の山だ。リスクが高すぎる」


マスターはわざとらしく溜息をつき、遠くを見る目をした。


「いいか、あそこは『物理的な暴力』がもっとも通用しない場所なのだ。現に、私のこの肌を見ろ。傷ひとつないだろう?」


「ええ、恐ろしいほどに。毛穴すら見当たりません。……やはり、生命力を根こそぎ吸い取られ、代わりに別の『何か』を流し込まれているのですね!?」


「……まあ、あながち間違いではない(※高機能美容液とマイナスイオンのこと)」


副官がガタッと椅子を蹴って立ち上がった。その瞳には、狂気にも似た決意が宿っている。


「ならば、聖騎士団を動員しての『物理結界・封鎖作戦』しかありません! 二度と誰も出られないよう、入り口を岩石で埋め立てます!」


「待て、それはならん!!ならんぞ!!」


思わず身を乗り出したマスターに、副官の鋭い視線が突き刺さる。


「……なぜですか? あれほど危険な場所なら、封印するのが筋ではありませんか」


(やばい、論理で詰められ始めた。)


マスターの脳裏に、あの至高の露天風呂の風景が浮かぶ。せせらぎ、鳥のさえずり、そしてキンキンに冷えたフルーツ牛乳。あの入り口が埋め立てられたら、俺の人生のQOLクオリティ・オブ・ライフは死ぬ。


「……封印すれば、中で囚われている市民の命が絶たれるからだ。……中にいるのは、我々の家族だ」


空気が変わる。


「封鎖すれば、彼らは戻れない」


「……では、どうするのですか」


(よし、ここだ)


マスターの脳が全力回転する。


「……攻略には手順がある。“等価交換による精神融解作戦”だ」

マスターは机を叩き、もっともらしい「嘘」を並べ立てた。


「あの迷宮の攻略には、特殊な儀式が必要なのだ。名付けて『等価交換による精神融解作戦』。……いいか、大量の甘味と最高級の酒、そして清潔な衣類を運び込み、敵の警戒心を『弛緩』させる。その隙に、内部から精神を書き換えるのだ」


「……おとり捜査のようなもの、ですか?」


「そうだ。しかも、これは高度な訓練を受けた私にしか耐えられない。一般の兵が踏み込めば、一分と持たずに幸福感……いや、絶望的な多幸感の波に呑まれて廃人になるぞ」


副官は震える手で眼鏡を直した。


「なんと過酷な……。マスター、お一人でその地獄を背負うおつもりですか」


「ああ。これは私の義務だ。……いいか、今すぐ荷車を用意しろ。中身は『調査用サンプル』としての高級食材と、敵を油断させるためのリネン類だ。……あと、私の替えのパンツも三日分追加しておけ」


「……潜入、ですね?」


「ああ、潜入だ。……極めて、極めて密度の濃いな」


数時間後。


街の門で見送る副官の敬礼は、かつてないほど重々しかった。


「マスター。どうか……どうか、ご無事で。もし三日経っても連絡がなければ、私は全戦力をもって迷宮を更地にします」


「……三日は短いだろ。せめて一週間、いや、十日は待て。敵の懐に入るには時間がかかるんだ」


マスターは必死にポーカーフェイスを維持しながら、馬車を急がせた。


荷台に揺れる高級ワインを見つめ、彼は静かに決意を新たにする。


(さらば、殺伐とした日常。待っていろ、俺のサンクチュアリ。……今度こそ、あの看板娘の蜘蛛っ子に『おかえりなさい』と言わせてみせる)


馬車は夕闇の向こうへ。

世界を救うためではなく、自分の「平穏とフルコース」を守るための、絶対に負けられない戦いがいま始まった。



その頃――



迷宮の空中ホテルのバルコニーでは。


「ねぇママ、パパまだー?」

「ふふ、きっとお仕事頑張ってるのよ」


子供がクッキーをかじり、奥様は艶やかな髪を揺らして微笑む。


その頭上では、子蜘蛛たちが洗濯物をふわふわと干していた。


完全に生活拠点になっている。


そして、街では。


「マスターの退路を確保するため、いつでも支援爆撃を――」


副官の声が静かに響く。


こうして始まったのは――


家族を“救う”ための総力戦と、

家族が“帰りたくない”楽園との戦い。


そしてその中心で揺れる一人の男。


彼の目的はただ一つ。


世界平和などではない。


――家族と風呂と飯と安眠を、守り抜くこと。


その戦いは、静かに、そして確実に泥沼へと沈み始めていた。

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