第37話:崩壊はあまりにも優しく
街は、静かに壊れていた。
破壊衝動に駆られた暴徒が暴れたわけでも、飢えた魔獣の群れが城壁を乗り越えたわけでもない。ただ、日常を支えていた歯車が、ひとつ、またひとつと、どこかへ遊びに出かけたまま戻ってこなくなった。そんな、ひどく間の抜けた、それでいて取り返しのつかない壊れ方だった。
最初は、ほんの数人だった。
冒険者崩れの荒くれ者や、一攫千金を夢見る若者たちが、「ちょっと様子を見てくる」と軽口を叩いて、街外れに突如として現れた「新築の迷宮」へと向かった。ギルドの面々も、いつものことだと鼻で笑っていた。未知の領域だ、探索に手間取っているのだろう。あるいは、手痛い洗礼を受けてどこかの階層で野垂れ死んでいるか。いずれにせよ、数日もすれば泣き言を言いながら戻ってくる――誰もがそう踏んでいた。
だが、数日たったあたりから街の空気が、湿り気を帯びた奇妙なものに変質し始めた。
戻ってきた数少ない者たちの様子が、明らかに“おかしい”のだ。
「……なぁ、聞いてくれよ。あそこは、あそこはマジで天国だ……」
帰還した冒険者は、血に汚れた鎧を脱ぎ捨て、見たこともないほど上質な絹のローブを羽織っていた。戦場帰りの殺気など微塵もない。
「風呂が……風呂があるんだ……。それも、王族が使うような金銀をあしらったやつじゃねえ。もっとこう、木の香りがして、湯気が全身を包み込むような……。あんなもん、一度入っちまえば、戦いなんて馬鹿らしくてやってられねえよ」
「寝るだけで金が増えるんだ。意味がわからないだろう? 俺もわからねえ。だが、あそこのベッドに転がって、流れてくる音楽に耳を傾けてるだけで、翌朝には枕元に金貨が置いてある。労働? 命のやり取り? 冗談はやめてくれ」
彼らの頬は赤子のように艶やかで、目は夢の続きを反芻するようにとろんと蕩け、声は毒を含んだ蜜のように甘い。そして、彼らはまるで幸福の伝道師にでもなったかのような顔をして、隣人に、あるいは友人に、決定的な一言を投げかける。
「お前の家族も、連れていった方がいいぞ」
その一言が、堰を切った。
それからは、早かった。
理性ある冒険者たちが、まず武器を捨てた。次に、それを見た商人が「商機があるかもしれない」と店を畳んだ。主婦は「晩ごはんの材料を買うより安いわ」と子供の手を引き、頑固な鍛冶屋も「腰痛に効く湯治場があるなら」と槌を置いた。
「一度だけ試してみるだけだ」
「家族サービスだよ」
「敵の情勢を内側から探る必要があるからな」
誰もがもっともらしい言い訳を懐に抱え、吸い込まれるように迷宮の入り口へと消えていく。
結果――わずか十日後。
街の人口の三分の二が、文字通り消滅した。
「……終わったな、この街も」
副ギルドマスター、ガインは、人気のなくなった中央広場でぽつりと呟いた。
賑やかだった露店は無残に閉じられ、風に煽られた布が寂しくはためいている。朝から晩まで響いていた鍛冶場の鎚音は絶え、パン屋の窯は冷え切り、漂ってくるのは焼きたての香ばしい匂いではなく、無機質な埃の気配だけだ。
子供の笑い声すらない。ただ、乾いた風が吹き抜ける音だけが、副マスター、ガインの鼓膜を虚しく叩いた。
「これは侵略だ……。血の一滴も流さず、鋼のぶつかり合う音も立てない。静かで、甘く、抗えないほど暴力的な、善意という名の侵略だ……」
ガインが感じていたのは、机を叩き割るような激しい怒りではなかった。
むしろ、脊髄を冷たい指でなぞられるような、骨の奥から這い上がってくる得体の知れない恐怖だ。もし自分が、この街を守るという義務感を持たない市井の徒であったなら、今頃自分もあの中へ消えていたのではないか。その予感が、何よりも恐ろしかった。
「……総員、招集」
ガインは振り返り、背後に控える数少ない人員を見渡した。残ったのは、職務に忠実すぎるがゆえに融通の利かない若手や、極度の人間嫌いで「天国」という言葉を疑ってかかる偏屈者ばかりだ。
「これより、迷宮殲滅作戦を開始する。目的は、行方不明となった市民の救出、および迷宮主の排除だ」
数時間後。
重厚なフルプレートを纏い、対魔獣用の大剣を背負ったガインを先頭に、武装した一団が迷宮の前に立った。
だが、彼らを迎えたのは、禍々しい髑髏の装飾でもなければ、おぞましい魔力の奔流でもなかった。
そこにあったのは、純白の石材で組まれた、清廉なまでの白亜の門。
細部には繊細なレースのような彫刻が施され、周囲には色鮮やかな花々が咲き乱れている。そして、門の最上部には、魔導具による眩いばかりの発光文字が躍っていた。
『ようこそ! 家族で楽しむ、光と癒やしのワンダーランドへ! ――心ゆくまで、自分を甘やかしてください』
「……ふざけているのか」
ガインの眉間に、深い溝が刻まれる。彼にとって、ダンジョンとは命を削り、泥にまみれ、死の淵を歩く場所であった。この看板は、そんな自分たちの生き様を根本から否定している。
「いいか。中にいる連中は、既に精神操作の類を受けている可能性が高い。どれほど平和に見えても、ここは敵地だ。躊躇するな。救出を最優先とし、抵抗する場合は……力ずくで拘束しろ」
部下たちが短く、緊張の入り混じった返事をする。
ここから先は戦場だ。罠と血肉に彩られた、地獄の探索が始まるはずだった。
――はず、だった。
一歩、門をくぐった瞬間。
ガインの五感を、暴力的なまでの「心地よさ」が襲った。
まず、空気が違う。地下特有のカビ臭さや湿っぽさは微塵もなく、陽だまりのような暖かさと、高級な茶葉のような華やかな香りが鼻腔をくすぐる。
足元を見れば、鋭い岩場どころか、最高級の絨毯を凌ぐほどフカフカがどこまでも広がっていた。
「……っ」
背後の兵士の誰かが、思わずといった風に息を呑むのが聞こえた。
その直後だった。
「パパーー!」
前方から、無邪気な叫び声を上げて駆け寄ってくる小さな影があった。
ガインたちが反射的に剣の柄に手をかけたが、その手は空を切った。
駆け寄ってきたのは、十日前に街から消えたパン屋の末息子だ。身に纏っているのは汚れた麻布ではなく、仕立ての良い上質な綿の服。その後ろから、頬を薔薇色に染めた母親が、満面の笑みで続いてくる。
「あなた! やっと来たのね! 見てちょうだい、ここのエステ。十歳は若返った気分よ!」
「……お前、生きていたのか……!」
ガインのすぐ隣にいたベテラン兵士が、膝から崩れ落ちた。
行方不明になっていた妻を、彼は最悪の形で再会することを覚悟していたのだ。だが、目の前の妻は死体でも、奴隷にされているわけでもない。ただ、人生で最高に幸せそうな顔をして、そこに立っている。
「無事だったのか……本当によかった……!!」
泣きながら抱き合う家族。
その再会を皮切りに、周囲のあちこちで同じような光景が展開されていった。
「兄貴ー! こっちのステーキ、マジで美味いぞ!」
「母さん、足腰が痛いって言ってたのは嘘みたいだな!」
「なんだ、お前らも結局来たのか。水臭いなあ!」
再会の大合唱。そこにあるのは敵意でも恐怖でもなく、ただ圧倒的なまでの幸福感だった。
ガインは、握りしめた剣の柄から嫌な汗が伝うのを感じた。
「静まれッ!! 貴様ら、何をしている!!」
ガインの怒声が、静かなホールに響き渡った。
だが、その声はひどく場違いで、滑稽ですらあった。
「ここは敵地だぞ! 迷宮主による洗脳だとは思わないのか! 街を捨て、仕事を放り出し、こんなところで腑抜けているとは何事だ!」
「え? 敵地?」
近くで冷えた果実水を飲んでいた男が、不思議そうに振り返った。
その男は、街で一番の腕利きだった元冒険者だ。かつての鋭い眼光はどこへやら、今はただの、休日の父親のような顔をしている。
「いや、副ギルド長。ここ、普通に楽園ですよ。飯は美味いし、風呂は最高。モンスター? ああ、あいつらならあそこのキッズスペースで子供たちの遊び相手をしてくれてますよ」
「ふざけるな!!」
ガインのこめかみに青筋が浮かぶ。
「十日だぞ! 十日間も街を機能不全に陥らせておいて、楽園だと!? 社会が崩壊しかかっているのがわからんのか!」
「え?」
今度は、別の場所から声が上がった。
「……十日? まだ三日くらいじゃないの?」
「「「え?」」」
周囲の人間たちが、一斉に顔を見合わせた。
時間の感覚が、完全に狂っている。この迷宮の「居心地の良さ」は、精神だけでなく、時間の流れという認識すらも溶かしてしまったのだ。
「……奥だ。この異常な空間を維持している黒幕は、必ず最深部にいる」
ガインは歯を食いしばり、もはや隊列の体をなしていない部下たちを叱咤して奥へと進んだ。
奥へ進むほど、空気はより甘く、より柔らかくなっていく。
どこからか聞こえてくる弦楽器の調べ。
楽しげな水音。
そして、重なり合う笑い声。
三階層、最奥部。
そこには、巨大な温水プールが広がっていた。水面はエメラルドグリーンに輝き、周囲には真っ白なパラソルが並んでいる。
その一角、最も日当たりの良い場所に設置された豪華なデッキチェアに、その男はいた。
「……ん?なんでココに居るんだ?」
ガインの視界に入ったのは、街の治安と秩序の象徴であるはずの人物。
「……ギルドマスター」
ガインの声が、地底から響くような低い唸りとなった。
ギルドマスターは、高級なサングラスを少しずらし、南国のフルーツが飾られた色鮮やかなカクテルを片手に、ゆったりと足を組んでいた。その肌は驚くほど艶やかで、完全に「仕上がった」顔をしている。
「……何をしているんですか、貴方は」
ガインの問いに、ギルドマスターはゆっくりとグラスをテーブルに置き、至極真面目な顔で答えた。
「…ちょ…調査だ。この迷宮が、いかにして人々の心を掌握しているのか。そのメカニズムを解明するためには、自らが被検体となるのが最も効率的だからな」
「ふざけるなあああああああああああ!!!!」
ガインの理性が、ついに限界を迎えて弾け飛んだ。
「街が、ギルドが、完全に崩壊しているんですよ! 貴方がそんなところでトロピカルな気分に浸っている間に!」
「おち、落ち着け、ガイン。声を荒らげるのは美容に良くないぞ?な?」
「落ち着けるか! そのカクテルは何だ!」
「……敵の食文化、および嗜好品が精神に与える影響の調査報告書(予定)だ」
「その、ふざけた水着は!」
「水中における隠密行動、および環境への擬態を目的とした最新装備だ。通気性が実にいい」
「その、腹立たしいほどの顔のツヤは!」
「……高濃度魔力による細胞活性化の副産物だ。……お前も、一度ここの泥パックを試してみろ。世界が変わるぞ?」
沈黙。
ガインの全身が、小刻みに震え始める。
「……一発。一発、全力で殴らせてください。それで、私の職務は終わりです」
「やめろ!いやホントやめて!!暴力はこの平和な空間に相応しくないから!」
だが、その殺伐とした空気を切り裂いたのは、一人の少女だった。
「パパだーー! 見て、お花摘んできたの!」
副団長――ガインの娘だった。
彼女は、満面の笑みでガインに駆け寄り、その逞しい腕に抱きついた。その後ろでは、ガインの妻が、穏やかな日差しを浴びながら微笑んでいる。
「あなた、やっと来たの?そんなに怖い顔をして。……少しだけ、お休みしたら? ちょうど隣のデッキチェアが空いているわよ」
「……っ」
ガインの言葉が、喉の奥でつかえた。
鉄の規律を誇った副団長の武装が、内側から、決定的に崩れていく。
娘の柔らかい手の感触。妻の優しい眼差し。そして、背後で「調査」を続ける上司の、あまりにも楽しげなグラスの氷の音。
その頃。
迷宮の管理室、通称「サロン」では。
モニターに映し出されるガインの苦悶の表情を見ながら、マオが優雅に紅茶を傾けていた。
「ふふ……いい感じに、みんな混ざってきたわね。外の世界の『常識』なんて、この心地よさの前では砂の城も同然だわ」
「……副団長、落ちるな」
隣で魔導モニタを操作していたピップが、短く呟く。その目はどこか同情的だった。
「落ちるわよ。絶対にね」
マオは確信に満ちた声で笑った。
モニターの向こうでは。
世界で最も堅物と言われた「鉄の男」ガインが、娘に手を引かれ、ゆっくりと、しかし確実に、ふかふかのデッキチェアへと腰を下ろそうとしていた。
街を救うための剣は、既に芝生の上に、忘れ去られたように転がっていた。
そしてこの後。
街の人間は、ほぼ全員が迷宮へ移住する。
次に始まるのは――
「住む」という選択。
ホテルか、マイホームか。
そして人々は気づかされる。
「……あれ? 家購入するのにコイン、全然足りなくない?」
楽園は、甘いだけでは終わらない。
次の地獄は――
“楽しいからこそ貯まらない”という、最高に幸せな苦悩だった。




