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洞窟を快適にしていただけなのに、なぜか魔王のダンジョン扱いされています 〜クモ女子高生の巣作り生活〜  作者: 湿度管理係


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第35話:迷宮の快適さに屈する

「……はぁあ~……。……こんなに良く眠れたのは、いつ以来だ……」


ギルドマスターは、ゆっくりと瞼を押し上げた。視界に真っ先に飛び込んできたのは、見たこともないほど白く、繊細な刺繍が施されたシルクの天蓋だ。


寝返りを打つ。頬に触れるシーツは、信じられないほど滑らかで、まるで液体の絹に包まれているかのような錯覚を覚えた。体を起こすと、節々の軋みが消え、骨の一本一本が「完璧に休まった」と快哉を叫んでいるような軽やかさがある。


「……ありえん」


思わず独り言が漏れた。

彼は長年、積み上がる書類の山と、血生臭い戦場の最前線に挟まれて生きてきた。慢性的な肩こり、腰に居座る鈍痛、いくら寝ても目の裏にへばりついて離れない重い疲労。それらが——まるで前世の記憶だったかのように、跡形もなく消え去っていたのだ。


窓の外からは、柔らかな朝の光が差し込んでいた。

ここは洞窟の奥深く、地下迷宮のはずだ。それなのに、確かにそこには「朝の気配」があった。しかもその光は、地上で浴びる刺すような日光とは違う。ほんのり温かく、目に優しく、心の内側をそっと撫でていくような慈愛に満ちた輝きだ。


「……魔法か。いや、こんな規模の術式、維持できるはずが……」


言葉が続かない。常識が足元から崩れていく感覚に眩暈を覚え、ふと視線を枕元へ落とした。

小さなサイドテーブルの上に、何かがきらきらと反射している。


「……これは……」


コインだ。だが、おかしい。昨日、この宿の主に「お試し」としてもらった枚数より、明らかに増えている。

全部で十枚。

一枚一枚が、まるで朝露の滴をそのまま硬貨に加工したかのように、透き通った輝きを放っていた。その横には、小さなカードが添えられている。そこには、どこか幼さの残る、たどたどしい文字が躍っていた。


『ぐっすり、ねむれましたか?

 これは、あなたへの、プレゼント……です。

 きょうも、たのしんでね』


「……な、なんだと……?」


ギルドマスターは弾かれたように飛び起きた。

「ふざけるな……! こんな、こんなことがあってたまるか……!」


昨日の記憶を反芻する。

出された料理を貪り食った。迷宮とは思えない景色の中で遊んだ。温泉に浸かって心底癒やされた。

それなのに、一銭も払っていない。それどころか——。


「……増えている……? 泊まっただけで、金が増えるだと……?」


そんな宿が、この世に存在していいはずがない。経済の理を、等価交換の原則を真っ向から踏みにじる暴挙だ。

困惑する彼の耳に、隣の客室から弾んだ声が届いた。


「パパ見てー! コイン増えてるよー!」

「まあ……! それに見て、この肌……昨日よりずっとしっとりしてるわ。鏡を見るのが怖くないなんて、いつ以来かしら……!」


壁越しに伝わってくる家族の声は、純粋な幸福そのものだった。

毒気を抜かれたギルドマスターは、ふらりと引き寄せられるように立ち上がり、バルコニーへ出た。


眼下に広がるのは、目も眩むような美しい庭園だった。

朝露をまとって宝石のように輝く植物たち。その間を、小さな子蜘蛛たちが甲斐甲斐しく、かつ丁寧に手入れして回っている。遠くを見やれば、ゆらゆらと立ち上る温泉の湯気が、桃源郷のような情緒を醸し出していた。


「……洗脳だ」


ぽつりと、自分に言い聞かせるように呟く。

「完璧な……精神操作による洗脳だ……」


だが、その言葉にはひとかけらの力もこもっていなかった。

「……だが……これほどまでに“快適な洗脳”が、人類の歴史上、かつて存在したか……?」


頬を撫でる風が、あまりにも心地よい。

その時、隣のバルコニーに人影が現れた。寝癖をつけたアルドが、朝日を浴びて爽やかに手を振っている。


「おはようございます、ギルドマスター! 最高の朝ですね!」

「……貴様は、なぜそんな、締まりのない顔をしているんだ」

「幸せだからですよ」


即答だった。あまりに迷いのない答えに、ギルドマスターは言葉を詰まらせる。

「さて、どうします? 朝風呂にさっと浸かって、その後はビュッフェでも行きませんか」

「……ビュッフェ?」

アルドが、獲物を誘う悪魔のような笑みを浮かべた。

「朝食限定の特別メニューらしいですよ。“黄金卵のオムレツ”と“焼きたてクロワッサン”。なんと、食べ放題です」

「……っ!」

「もちろん、その手元にあるコインで、ね」


ギルドマスターは、握りしめたコインを凝視した。次に、隣の部屋で笑い合う家族の気配を感じた。そして、ゆっくりと、敗北を認めるように頷いた。


「……アルド」

「はい」

「……朝食の後は、四階層の露天風呂、だったな?」

「ええ、よく覚えてらっしゃいますね」

「……よし」

深く、深く息を吸い込み、彼は決然と言い放った。

「全力で、この迷宮を調査(堪能)してやる……!!」


数分後、ホテルのレストランエリア。

「……いいか、アルド。勘違いするな」

ギルドマスターは、眉間に深い皺を刻んだまま、眼前の光景を睨みつけていた。

「俺は決して騙されんぞ。これは高度な精神操作、あるいは感覚中枢を狂わせる未知の魔術だ」


目の前には、じゅわりと香ばしい湯気を立てる厚切りベーコン。

「……この肉に毒が盛られていない、あるいは依存性の薬物が仕込まれていないという証拠が、一体どこにあるというのだ」


そう言いながらも、彼の手は勝手に動いていた。フォークを肉に突き刺し、無造作に口の中へ放り込む。


「……っ!!」


咀嚼の途中で、動きが止まった。

次の瞬間、彼の肩が、そして声が激しく震え出した。


「……う、美味すぎる……!!」


芳醇な脂が舌の上で雪のように溶け、肉の甘みが脳髄をダイレクトに突き抜ける。噛むほどに溢れ出す旨味の奔流。飲み込むのが惜しくなり、喉を通る一瞬の感触すら愛おしい。


「おのれ……!」

彼は、震える拳でテーブルを叩いた。

「味覚から攻めてくるとは……なんと卑劣な、恐るべき戦術だ……!!」

そう言いながら、彼は空になった皿をスタッフの子蜘蛛に突き出した。

「おかわりだ!! 敵の戦術を徹底的に解析するために、あと三皿は必要だ!!」


それから、一日はあっという間に過ぎ、また次の一日が始まった。


四階層にある温泉施設。

「……この温泉……」

ギルドマスターは、湯船の縁に頭を預け、虚空を見つめながら呟いた。

「温度、水質、周囲の景観……そしてこの絶妙な風の通り道。完璧すぎる……」


心地よい風が湯気を揺らし、身体の芯まで熱が染み渡る。

四肢の先から力が抜け、自分が肉体という檻から解放されていくような感覚。

「これは……戦意を完全に剥奪するための、広域弱体化魔法に違いない……。……凄まじい威力だ……抗えん……」


「ギルド長、もう二時間浸かってますけど。そろそろ茹で上がりますよ」

「黙れ」


彼は薄目を開け、厳しい口調で制した。

「……まだ、この湯の成分解析という名の調査は終わっていない……」

だが数秒後には、その厳格な顔はだらしなく弛緩していた。


「……ふぅ……極楽だ……」


♦♦♦


さらに翌日。二階層のヒーリング・サロン。

「……あのマッサージ……」

うつ伏せに寝転びながら、ギルドマスターは掠れた声で呟く。

「関節の急所を、これほど的確に、かつ執拗に突いてくるとは……」

「凝ってますねぇ」

スタッフの手が、ぐに、と深部に食い込む。

「……ッ!! そこだ……! 貴様、そこが弱点だと見抜いているのか……!」

「っく!一歩間違えれば、一撃必殺の暗殺術……だろぉ」


ぐぐ、と血流が改善される感覚。


「……身体が、羽のように軽い……! 重力魔法でもかかっているのか……!?」

「ただの、気持ちいいマッサージですよ」

「黙れアルド!!」


そして、一週間が経過した。


♦♦♦


迷宮の入口、地上へと続く門の前。

ギルドマスターは門の柱を、爪が剥がれんばかりの勢いで握りしめていた。

「……ぐぬぬ……ぬぬぬ……!!」

その顔は、義務感と欲望の間で引き裂かれ、もはや「帰りたくない」という本音を隠すことすら放棄した子供のようだった。


「マスター、いい加減にしてください。ギルド本部には書類が山積み、揉め事の裁定も溜まっていると連絡が来ていますよ」


「……わかっている。そんなことは、百も承知だ」

「じゃあ、行きましょう」


「……わかっているが……! だが……!!」

彼は血を吐くような思いで、背後の迷宮を振り返った。

「足が……! 俺の足が、どうしても帰ろうとしないんだ!! 呪いだ、これは強力な帰宅拒否の呪いに違いない!!」


その時、頭上から明るい声が降り注いだ。

「あなたー! お仕事頑張ってきてねー!」


見上げれば、空中ホテルの最高級スイートのバルコニー。

そこには、この一週間で信じられないほど美しくなった妻と、元気に走り回る子供の姿があった。二人とも、つやつやとした満面の笑顔で手を振っている。


「パパー! 帰りに売店のクッキー買うの忘れないでねー!」

「……おい……」

ギルドマスターの喉がヒュッと鳴った。

「……なぜ、お前たちはそんなに……普通なんだ……。これから現世シャバに戻るというのに……」

「ああ、奥様方はあと一ヶ月くらい滞在するって言ってましたよ」

アルドが隣で、事もなげに言った。


「……な…んだと?」

「本人たち曰く、『本格的な療養と美容のフルコースを受けたい』だそうです。ギルドマスター、一ヶ月分の宿泊費……あ、いや、コインは十分足りるんですよね?」


「……療養……一ヶ月……」

ギルドマスターの膝が、生まれたての小鹿のようにがくがくと震え出す。

「俺は……今から……たった一人で……」

遠く、灰色の空が広がる地上を見つめる。

「あの地獄(職場)へ……戻らなければならないのか……?」

「はい」

「……」


深い沈黙が、門の前に流れた。

そして——。


「……行くぞ」

彼は血の涙を呑み込んで、一歩、外の世界へと踏み出した。

「今夜……いや、夕方には必ず戻る……!! 事務作業を音速で終わらせて、必ずだ!!」


拳を血が滲むほど固く握りしめ、彼は猛烈な勢いで走り出した。

「まだ、この迷宮の全容解明という名の調査は、これっぽっちも終わっていないからなぁぁぁ!!」


猛然と去っていくギルドマスターの背中を見送りながら、私はサロンのソファでコーヒーをゆっくりとかき混ぜていた。


「……ねぇ、ピップ」

「なんだ」

「あの人、絶対に戻ってくるわよね。しかも、前よりもっと必死な顔をして」

カウンターでグラスを磨いていたピップは、鼻で短く笑った。

「当然だ。あの男の中で、もう“帰るべき場所”の優先順位が完全に逆転してやがる」

「よねぇ」


私は満足げに、にやりと笑みを深める。

「いいわぁ……理想的なリピーター第一号ね。彼がギルドでここの良さを宣伝してくれれば、次から次へとお客様がやってくるわねぇ~」


ピップは呆れたように肩をすくめた。

「そのうち、宣伝どころか町ごと、この迷宮に引っ越してくるんじゃねぇか?」


その言葉を聞いた瞬間、私の思考が跳ねた。

「町ごと……?」


思考の渦が急速に回転し、頭の中で新しい迷宮の図面が次々と書き換えられていく。

「町ごとダンジョンに引っ越し……何それ、最高にワクワクするじゃない! 絶対に面白いわ!」


私は高くカップを掲げ、朝日(魔法の光)に透かした。

「いいわね、受けて立とうじゃない! ギルドの出張所どころか、商店街も住宅区も全部飲み込んで、“迷宮都市”を築いてみせるわ。」

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