第28話 聖女として
「……もう、戻れないんだな」
玉座の前に立ち尽くしたまま、リオネルはつぶやいた。
床に敷かれた赤絨毯の先、無人の玉座が、まるで責めるようにそこにある。
しんと静まり返った謁見の間。
外ではまだ雨が続いているのか、窓を濡らす音がその気配を伝えている。
「……殿下」
どれほどの間があっただろうか、背後に控えていたミラが、リオネルに声をかけた。
リオネルは力なく振り返ると、ゆっくりと玉座に腰を下ろす。
顔を上げると、ミラがまっすぐにこちらを見つめていた。
「……リオネル様」
言葉は穏やかだが、彼女のその視線はリオネルの瞳を捕らえて離そうとしない。
リオネルは無意識のうちに、その視線から逃れるように目を逸らす。
「……やはり、見て下さらないのですか……」
はっとするリオネル。
「いや、そういうわけでは……」
ミラは、小さく笑った。
「……それでは……ミラは、リオネル様を、あまり見ないようにいたします」
ミラは悪戯っぽくそう言うと、僅かに斜め下に顎をやった。
雨の湿気を帯びてか、うなじにまとめられた髪が妙に艶っぽい。
リオネルは、どことなく居心地の悪さを感じ、玉座から立ち上がるとミラに背を向けた。
「ミラよ、用がないのであれば……」
言いかけたリオネルを、遮るようにミラは切り出した。
「殿下──本日参りましたのは他でもございません。神託の件で、少々お話ししたきことがございます」
リオネルが視線を戻す。
「神託?」
視線の陰で、ミラの目元が微かに緩む。
「実はひとつ……どうしても、気になることがあったのです」
「”闇を孕みし者”であったクラリスはすでに追放した。まだ何かあったというのか?」
ミラは両手を胸元に重ね、祈るように目を伏せたまま続けた。
「神託の予言ですが、リオネル様もご存じのように、最後には、”闇と光交わるとき、……すべてを流さんとす”とございます」
「うん」
「……この一節だけが、ずっと胸に残って離れないのです」
ミラの声が、わずかに震える。
リオネルは、じっと彼女を見つめていた。
「これは、”闇と光”、二つの秩序が手を取り合うこと、長らくそう解されてきました」
「……それが?」
「二つの秩序が何を指すのか、誰も深くは問わなかったのです」
「必要が無かったのだろうな」
リオネルが小さく頷く。
「ですが、”聖の座を汚す者”が現れた今──」
ミラは一つ息を吐くと続けた。
「二つの秩序とは、この国を治める二つの秩序、つまり”王家”と”教会”を指しているのではないのかと……」
彼女の声は、決して大きくはなかった。
だがそこには、迷いと、決意と、聖女としての戒めが複雑に絡んでいた。
「そして、それは──神は、”私たち”に国を清めよと、命じていらっしゃるのではないかと──思えてならないのです」
「……何が言いたい」
リオネルの声には、怒りも驚きもなかった。ただ、静かな確認だった。
ミラはわずかに唇を噛み、ふるふると首を振った。
「──リオネル殿下と、わたくし……ミラ・セレスタが、手を取り、交われと──」
ミラの声だけが静かに謁見の間に広がる。
「私は、神の言葉を都合よく解釈するような者にはなりたくありません。けれど……けれど、聖女である私が、“王太子妃になれ”などという神託を信じたとき……それは──聖女であることを、自ら捨てることになります……」
その震えながら祈るような声に、リオネルは動けなかった。
──聖女は神に仕え、捧げられた身。王家に嫁ぐなど前例がない。いくら神託とはいえそんなことが──
「可能なのか?」
「そうなのです……そんなことが、許されることなのでしょうか? 誰かのために生きることが、”聖女”なのだと信じてきました。しかし、神は”聖女”でありたいと思うのであれば、”聖女”であることを辞めよとおっしゃる──私はいったいどうすれば──」
ミラの声はそこで途切れた。小さな嗚咽が吐息に混じる。
リオネルは、気づけばその手を伸ばしていた。
「──君は、間違っていない」
ミラがはっと顔を上げる。
その目には、涙が滲んでいた。
「君が王太子妃になれば、誰かがそれを咎めるだろう。でもそれが、神の言葉なのであれば、僕は君を否定しない。聖女としての君も、そうでない君も──僕は、君を必要としているのだから」
──神の言葉。
リオネルはその言葉をもう一度反芻していた。
国の王たるもの、神の言葉の一つや二つ、飲み込めなくてどうする。
それに、口に合わなければ吐き出せばよい──
リオネルが優しく微笑み、ミラの手を取る。
ミラの目から、ひとしずく、涙が零れた。
「先ほどの、神託の解釈については、まだ、誰にも話していないのだろう? 教会にも確認してもらおう。一度叔父上に相談するといい。大司教ならきっと良い答えを見つけてくれるはずだ」
リオネルは安心させるようにそう言った。
「確かに。おっしゃる通りですわ、殿下。一人で考えすぎてしまっていたようでした……大司教猊下ならば、わたくしを導いて下さるに違いありませんわ」
ミラはリオネルの手を握り微笑んだ。
その瞳は、どこまでも深く澄んでいた。




