18
そこは、まるで一枚の絵画のような草原だった。
直前まで低く分厚く立ち込めてた雲が、不思議なことにその草原の上には存在しなかった。
淡い月と星の光が、草原の中央に見事に花開いた一本の桜の木を照らしていた。
それは南が想像していたのとは違って、とても穏やかななピンク色の花びらだった。
「これは初めのうたの暴走の後、俺がその枝を植えたものです。本体だった桜はすべて村人に燃やされました。・・・血のような桜は、彼女が目覚める度に色を失っていきました。まるで血を流すみたいに。きれいでしょ?これが、うたが本当に大好きだった桜の色なんです」
促されて、南は桜の木に近づき、そっとその幹に触れた。
あの地蔵尊でみえた白日夢、その最後の記憶が、南の脳裏によみがえる。
桜の木に取り込まれた自分の手足が、桜の枝が村中を這い回る。
家々を、木々をなぎ倒し、田畑の作物を根こそぎ巻き上げる。
ああ、憎い、憎い、にくい。
この憎しみを、誰か止めて。
その時、うた、と聞こえた気がした。
信じられない速度で伸び続ける桜の枝に、いつの間にか並走するように駆ける、銀色の獣がいた。
逃げ遅れた村人に襲い掛かる枝に食らいつく。
何度桜に打たれても繰り返し、繰り返し、村を守るように。
それは桜と化したうたが力尽き、その動きが完全に止まるまでるまで続いた。
-うた。聞こえるか―
意識を手放す瞬間、目の前の獣から、愛しい声が聞こえた。
-俺が必ず村を守る。お前の憎しみも、苦しみも、悲しみも、俺が全部受け止める。だから、全部吐き出して、うたは人に戻れ。咎はすべて俺が負うから-
桜の幹から手を放して振り返った南は、目前に控える銀の毛並みの狼を見つめた。
一瞬大型の犬のようだが、その凛とした佇まいは、人の世とは相いれない不思議な霊気を感じさせた。
「・・・やっと会えたね、桜狼。もう俺を殺すのか?」
南の言葉に、桜狼の口から白い息とともに唸り声が放たれた。
「悪いけど、俺はまだ死ねないよ。皆から、君のことを頼まれているからね」
うたや吉嗣だけではない。
この村には、結城を案ずる人がたくさんいる。
彼の性格が村の人々の心を開いたのだ。
もう、幸せになってもいいだろう、優しい彼も、可哀想なうたも。
「君ももう分かってるんだろう?・・・うたの憎しみは、もうほとんど薄れてしまった。彼女はようやく憎しみから解放される。そして、君はもう既に彼女を越える強さを持ってる」
吉嗣の時代、宗次郎はまだ、本当にうたを倒せるだけの強さを有していなかった。
片や彼女の憎しみは以前残ったまま。
彼女の暴走はこの先も続き、止められるのは桜狼となった宗次郎だけ。
だからこそまだ誰にも知られるわけにはいかなかったのだ、二人だけの秘密を。
吉嗣の死は決して無駄ではない。
宗次郎は孤独を生き抜き、そしてとうとう幸せになるため力を手に入れた。
「やっと分かった。うたは俺に伝えて欲しかったんだよ」
宗次郎に自分を殺してもらいたい。
そして犯した罪が許されるならば、今度こそ一緒に幸せになりたい、と。
その想いに、吉嗣や将吾郎の死してなお残る想いが呼応したのではないか。
しかし、南の言葉を聞いてもなお、桜狼の鋭い眼光は緩まない。
「何で分かってやらないんだ?・・・君にしかできないんだよ。」
ふと、背中を後ろから誰かに押された気がした。
同時に桜狼がその体を震わせる。
振り返ると、はっきりとうたの姿が見えた。
桜の木の下で、どこかでみた羽織をかけて。
少し考えて思い出す。
ああ、あれはお度参りの時に宗次郎が渡した羽織だ、と。
うたは小さく笑みを浮かべると、まずは南に、次に桜狼に深々とお辞儀をした。
そして南の前に進み出ると、ゆっくりと目を閉じて、その細い顎を上向けた。
白い首元が露わになるように。
それは祈りを捧げる姿のようにも見えた。
桜狼は、考え込むように目を伏せた。
そして長く遠吠えをし、それを合図にしたかのように全力で駆け出す。
南の目の前で、一瞬がスローモーションのように見えた。
駆け抜ける桜狼の姿、うたの頬を伝った一筋の涙、飛び掛かった桜狼の鋭い牙。
その瞬間、辺り一面が眩い光と突風に包まれた。
そして残ったのは長い長い静寂。




