9 人類、AIと歩む
ちょっとようやく創作論というか、今話題になっているAIを使った創作についてお話をしましょう。
昨今、小説新人賞の応募が盛況すぎて下読みさんの手が回らないという、文芸界きっての大フィーバーが起きているそうな。
長引く不況、上がらない給料、先の見えない未来にもはや希望を持つ事をやめ一念発起した人々が、小説原作で一発当てて、メディアミックスでウハウハになるしかねぇ、このビッグウェーブに乗り損ねるなと、そんな新たな市場が開拓されている。
ってことはなくて。
その実、時代が時代でお察しなんですが、AIにまるっぽ書かせた作品を応募してくるような奴がそれだけいたというだけの話。
実際、AIってのは、人間の頭脳は遙かに超えてるし、語彙力も文章構成力も、情報量もずば抜けている。だから人間が敵うわけがないし、人間より面白いものが書けたとしても何ら不思議ではありません。事実、使った事がある人ならわかると思いますが、「自分よりバカだ」と感じた事はないでしょう(GPT4はなんだかアレなところがありましたが)。
ではだからといって、AI任せにして作品を作ってもいいのか、もしくは人間がAI執筆だという事を偽り新人賞に応募、受賞してしまってもよいのか、という作家としての矜持みたいな青臭いものにぶち当たるのが、今回の話。
要はこの現象、ほぼゴーストライターなんですが、それが悪い事なのかというとそれほどでもないよなぁ、という気はしています。それは、だから使うとか、使った方がいいとか言う事ではなく、冷静に考えた時に、芸能人が本を出したりする事あるじゃないですか、あれ、本人が執筆していると思っている人はいないですよね。または歌を歌ったりする事があっても、本人が作詞作曲をしているわけでもない、タダ表に出て言われたとおりに歌っているだけ。それについての能力をどうこうと言う事はない(下手ならやめとけといわれるだろうけど)公然とゴーストライターを使い、公然とゴーストクリエイターを使っている。
無論、全員が全員そうであるとは言わない。文才のあるタレントもいるだろうし、作詞作曲能力のある俳優だっているでしょう。ですが彼らは、我々アマチュアとよーいドンで、それをしたわけではなく、おそらくその時点での最適なメンバーのバックアップがあって、最低限の指示や意向が伝えられ、はっきり言うとクソみたいに面倒な部分は丸投げしているでしょう。
そこまで言えるのは、そうでもなけりゃ、ああは出来ないってことを我々はよく知っているからです。
創作というのはものすごい労力がかかる。時間もかかる。一朝一夕で世に出せるレベルの作品が出せる人などまず居ない。
今まで学校の作文くらいしか長文を書いたことのない、せいぜい原稿用紙三枚でヒィヒィいってた様な人が、何かのきっかけで有名になって急に文章が書けるはずがない。そもそも私の身の回りでもそうですが、趣味はと聞かれ「恥ずかしながら小説などを書いており」などというと、大抵は「へぇすごい」と感心されます。ですがその後は「どんな話を書くんですか」と続くのみで、けして「読ませて欲しい」とはならない。それだけ読書する習慣というのが普通の人にはないと思う。なんなら電車に乗って電子書籍も含めて本を読んでいる人がどのくらいいるのか観察してみればいい。ほぼ皆無です。
だから人々は本を読んでないと言い切るのは乱暴かも知れませんが、自分の生活に鑑みても、本を読む時間なんてのは電車やバスに乗っている間くらいしかないと考えてます。あとは風呂に入っている時くらいか。それ以外の時間は別の用事をしている。
はっきり言うと、現代人は本を読むことに集中できるような豊かな時間を有していない。
私は、電車やバスの中で一生懸命スマホでゲームやってる姿を見る限り、こいつらは本なんて読まないだろうなと思うのです。もちろん本を読んでる奴がエラいとかすごいとかではない。本を読むなんてのは、文字が読めて文章が理解できて、そこから情景が想像できて、勝手な妄想で気持ちよくなることが出来るような自慢も出来ない変態な能力なのだから、あからさまにスマホを凝視している人に向かって「お前らゲームなんて非生産的なことしてないで本を読めよ」などとエラそうなことをいってはいけない。非生産的なのはお互い様だ。
そんな読書界隈です。
この先もさらに、本を書けるような人は減ってゆくし、読む人も減ってゆくでしょう。無論メディアミックス前提で、原作として本が書かれることはこれまでと同じで、「種」としての存在はあり続けます。書店はさながら種苗の展示場といったところでしょうか。
有名無名の作家が、書架を埋めている光景は書店ならではですが、その作家達の名を、顔を、私達は殆ど、おそらく99パーセント知らない。知る時は、メディアに取り上げられてからです。
少なくとも、日本で最も有名な文学賞である芥川賞、直木賞の受賞者ですら、記憶には残ってはいませんし、その作品がいかなる者なのかは殆どの人が知りません。
それら賞には授賞式が稀に放映されたりするものだから、作家の顔を見たり声を聞いたりはする事はあるとしても、小説作家が動いて喋っている姿など見たい人は少ない上に、顔をさらしたいという作家も極々限られた人達ばかりでしょう。
だったら、AIが小説書いたところで「誰も気付かない」といえるでしょう。いや、「誰も気付けない」という方が正しい。
おそらく今のAIに、有名作家の作品を学習させたモデルを搭載すれば、その作家のコピーのようなAIは作る事が出来るでしょう。少し前にも、話題作りだろうけど「手塚治虫モデル」のAIに漫画を描かせた、みたいな話があり、やはりそこでも侃々諤々の議論が交わされ、やや炎上気味であったと記憶はしているが、世間に受け止められるという風には至らなかった。
何十年にも渡り、生涯を小説家として食ってゆける人は極々限られた人々だけです。それは作品のストーリーやテーマが魅力的であることももちろんですが、なによりその作家の文体や言い回し、レトリックを好むファンがいるから、作家は作家として生きてゆける。
故人の作家を模倣するAIは、作家に対する冒涜だとする反面、また新作、あるいは続編が読める、とする声もある。だが、本質的に人はそれをやはりどこかで本人とは認識しないでおこうとする。
それはなぜか?
「人が生みだしたものではないからだ」、と人は言うでしょう。
だけれども、誰が生み出したかわからない、あらゆる作品を我々は日々目にしている。
街をあるいていて、その目の前のビルの設計者は? ガードレールのデザインをしたのは? 看板のロゴデザインは? そのキャッチコピーは誰が書いたのか? そんなことを業界人でもなければいちいち考えはしないでしょう。
それと同じで、AIが書いても誰も気付かないし、気付く意味がない。
だけどAIが書いたと知れば、「なあんだ、AIか」と冷笑する。
なぜでしょう?
という感じで、また次に続きます。




