6 人類、AIに惑わされる
さて、前回AIが小説書く、みたいな話をしましたが、少しその辺、私の現状認識の確認も踏まえて、ざっと商業メディアにどう変化をもたらしてきているのか、から語っていきます。
数年前、画像生成AIによるAIグラビアモデルの写真集というのが一時話題になりました。
日本初のAIによる非人アイドルのグラビア写真集が2023年6月に刊行されました。
AI生成モデルの名は「さつきあい」。五月生まれ(らしい)のAIってことだな。
まだ三年前ですから、画像生成も黎明期といったところで、さほどのクオリティではなかったようには思います。ただ、だからだったのか、薄気味悪いといった感想がよく聞かれた。
とりあえずその“界隈”の意見はあとにして、まず現実的な批判として、
実在のモデルや女優に似ている、学習モデルとしてパクった可能性、もしくはかなりの割合を参照させた、といった疑いが持たれた。実際に似ている女優さんもおり、このあたりでまずAIのパクリ問題に目が向く。
そして次に出版社(集英社)としてはどうなのか、という話。AI生成に対しての権利関係の法整備もままならないまま、大手出版社がそれをやると、今まで著作権を楯に付き合いをしていたビジネスパートナー(文筆家、イラストレーター、漫画家、写真家、などなど)を裏切る、もしくは職域を侵害する事になるのではないかという社会的使命、および立場への批判、非難が殺到した。
実際この頃は、そういうことが予見されていただけに業界はピリピリしていた。
結果として、こういった著作権やパブリシティ権に焦点が当てられ、違法ではないが問題があるとして一週間で販売中止となり、歴史的なグラビアとなったかどうかは知りませんが、ました。この手の話で最新の話題は声優の津田健次郎氏のあの独特な「だるい声」をAIで生成され動画拡散された件がありましたが、根っこはまぁ同じですね。
昔々でしたら、実際のグラビア写真集をカラーコピーしたり、写真で複写したものに、写植で名前を変えたり、ほくろつけたりして「別人です」などと言い訳をした海賊版写真集などがあったものですが、そういうのでも安けりゃ買うぜ、みたいな風潮はあったわけです。しかし買う側にはあくまで元ネタへのリスペクトがあったという点は少なからず救われるところはあります。
「パクリなのかオマージュなのか論争」というのは昔からずっと続いていますが、このいまAIが行っている学習モデルから生成するという方法は主に、インターネット上に転がっているフリーな素材、あるいはフリーではないかもしれないが、ユーザーが違法でアゲた画像なども含まれ、それらを元にしたり参照したりすることで、既存のイラストや写真画像に酷似したものが生成される可能性がある。
当然ですが、AIにはパクりの罪悪感もなければオマージュの概念もない。
ではパクリとオマージュ何が違うのか?
例えば、漫画なんかは非常にわかりやすい喩えだけど、画の描ける人は自分の好きな作家のタッチなんかはやはり真似をするようになる。仮にそのうちメジャーデビューなんかしたとしても、そこからがらりと変わることはなくて、テイストは残しながら個性を煮詰めていくという感じになる。稀に「空挺ドラゴンズ」みたいに、画質にリスペクトとオマージュが過ぎる作品もありますが、もちろん作家(桑原太矩)はわかっていて似せているだろうし、おそらくあの(ナウシカの)世界観や空気感が大好きなのでしょう。
ああいった質感の作品は、生成AIが「宮崎駿モデル」を使って別の作品を書いたみたいなものだと思うとわかりやすいかもしれない。
いずれにしても似たものが量産されてゆくというのは、線の少ない画で、少年誌などに掲載するという枠組みがあるなら、尚更表現範囲は限られてくるので、どこかでコンフリクトしてしまう場合がある。
ただ、それを一概にパクりだとしてしまわないのは、画の好き嫌いだけで選択される場合が往々にしてあることで、ワンチャン化ける可能性をみいだす漫画業界の寛容さもあるでしょう。
しかし週刊連載は所詮競争社会であり、ネタの切れ目が打ち切りの危機なのであって、パクるしか出来ないような作家は所詮生きてはゆけないわけです。
そして作家は人間である限り、パクリと言われるのをやはり嫌います。だからそこからオリジナリティを生み出そうと必死になります。おそらくこれを読む皆さんも同じでしょう。いくら売れているからって、トラックにひかれて異世界転生するってのは、さすがにやらんでしょう。ねぇ?
もし仮に導入でそんなパクりをやったとしても、なんか主人公が生まれながらにチート能力持っていたとしても、それがきっかけでモテモテになったとしても、どこかで、自分オリジナルの要素を入れ込むわけです。細部の設定を変えたり、小道具を用意したり。
そのバリエーションの多彩さはまさに「なろう=異世界転生」と言わしめるほどの作品数をほこる事になりました。その中で実際にアニメ化し、人気作になったものも多数あるのだけど、昔から私言ってますが、殆どの作品はストーリー上、「転生や転移する必要ないんじゃないのか」という印象です。大体の主人公は元の不甲斐ない自分の事なんて異世界では忘れて、エンジョイしている。じゃあ、最初のトラックにひかれて女神様にであう件とかいらねぇよなぁ、って思うわけです。
だけど、あるんだわ。
なんでか? これね、読者が自分で導入できないからです。いきなり異世界に生まれたところから話を始められると、自分(読者)と(作品世界)の接続が出来ないからなんです。
だから異世界転生ものってのは、読みやすい、読まれやすい作品のテンプレートとして認識されました。
別に他にもテンプレ作品はあるので、異世界転生だけをあげつらうつもりはありませんし、批判するつもりもありません。だけど、そのパターンはAIによって読まれるし、コピーされます。これだけ学習モデルがあり、ソースがあり、しかも人気があるとなれば、AIは容易に我々の描く「テンプレ作品」を模倣してくるでしょう。しかも、場合によっては我々が書くよりもよいものを書いてくる可能性もある。
だが、我々はそれを頑として認めない、と言う。
前出の「さつきあい」にしても、おそらくAIに学習させた人間の好みもあるだろうけども、プロンプトの書き方が、テンプレ化しているから、大体の男連中が「ヨシ」とする画像に仕上がっているはずです。おそらく何も知らなければ、かわいいモデルさんだなと思うだけでしょう(そのくらいの違和感はない)。だからAIに書かせたり、描かせたりすると、必ず我々に媚びてくる。
「かわいい女の子を描いて」と指示を出せば、アルゴリズムと学習モデルの産物として、一般的にかわいい女の子を出す。
それを見た人は「確かに、かわいい」とはおもう。でも違うと思うのです。なぜなら、「自分のかわいい」はこうじゃないと心が叫ぶのです。
AIの差し出す「かわいいの具象」を突きつけられた時に、人は初めて「かわいい」の感覚が人それぞれであるということを、自分の感覚はズレているのだと、いやもっと目が離れてるのが好きだとか、唇が厚いのがいいとか、幸薄そうなのがいいとか、鼻が上向いてるくらいでいいとか、そんなことを思う。
しかし、だからこそ、AIのかわいいに反駁したくなるのではないでしょうか。
そんなのSFじゃねぇ! そんなのファンタジーじゃねぇ! そんなの小説じゃねぇ!
一般の感覚に受け入れられる“それ”を否定し、嫌悪したくなるのは、私もあなたも作家だからです。
まだ続きます。




