5 人類、AIにだまされる
最初のAI考からおおよそ二年後、今ですが、その間に界隈の版図が随分変わったので、私なりの評価も世間の見え方も、捉え方も、大きく動きました。
二年の間に何が出来て、何が進んだという話をするためではなく、あくまでAIという異物が如何に人類の社会へと浸透してきたのか、という観点で語りたいと思います。
この二年でAIアシスタントと呼ばれるものが爆発的に増え、誰もが簡単に高品質なAI生成が可能となりました。
二年前にあったような、不自然、不気味、とされるような画像や動画や音声、言語、音楽はほぼ駆逐され、AI生成された動画が普通にユーチューブなどの媒体にしれっと参加するようになり、もはや人が作ったものかAIが作ったものかを判別するのも難しくなってきている。それだけに多くのフェイク画像や動画が出回り、事実と違った情報が蔓延し、それを信じた人々が情報を拡散、二次、三次被害を誘発し、新たな社会現象を生み出しております。
もはや便利なお絵かきツール、文書作成ツールどころではなく、本格的に現実に侵食して、操作してきていると感じます。
ひょっとして我々は、我々のあずかり知らぬところで既に「人だと思っている」存在が「人のフリをして」発信している可能性に気づいていないだけかもしれない。などと考えてみたりもする。
今や、AI生成の動画コンテンツに真実は求められません。
というのも、動画作成者の恣意か、企図かはわからないが、完全な嘘を流している事が往々にある。
もしくは、かなり重要な部分をぼかして、全体を興味深く、面白くさせようとしている。
この手法というのは昔のテレビがやってきた手法そのままなのですが、まだテレビの方は監視体制やチェック機能があり、番組製作にかなりの手枷足枷が嵌められるようになり、近頃では無茶も出来なくなってしまっています。それだけにテレビが面白くない、ネットの動画しか見ない、という流れになるのは致し方ないのですが、つまりは、テレビが出来なくなった事をネット動画しているに過ぎないという事です。
少し脱線しますが、テレビや新聞の事をしばしばネット界隈では「オールドメディア」などと揶揄混じりで呼ぶ事があるのですが、それをしてテレビや新聞を主な情報源とし、その情報を日常的に流布する人のことを「オールドタイプ」的に揶揄するような風潮もある。
これはニューメディアに触れ、メインコンテンツとしている人間からの蔑視なのですが、私からすればお仕着せになってしまったテレビメディアや、主義思想の偏りが激しい新聞、雑誌メディアに辟易して、またはそれらと対峙する事につかれて「逃げた人々」の言葉なんだろうという気はします。
真実や思想というのはどこが発信地であっても、問題はありません。ただ、それを受け取る側の英知が、それなりに備わっているかどうかが問われます。
当然ですが人間は、自分の都合のよい情報だけをふるいにかけて残そうとします。これはそこそこの学者や知識人であっても無意識に、そのような言動をしてしまう事はあります。
その心理は単純です「私は一筋に頑張ってきた、あるいは私がロジックを発見した」からだと。
たったそれだけです。
そういった人間の心理が、ネットの動画コンテンツ作成に影響している事は間違いありません。自身の調べ、蒐集した情報を、より広汎に簡便に、多くの人に楽しんで貰えるように、真実に影響しない程度に脚色を加えて、最後まで観て貰えるよう工夫を凝らす。無論動画配信サイトの収益構造が先にあることも否めませんが、それが目的でなくとも人は人を騙します。少しの嘘ならいいだろう、これはサービスだと。
そしてそれを見る人も、気持ちのよい嘘を受け入れる。どこかで騙されたい。あっと思わせて欲しいと感じている。だから動画のサムネイル(表題画面)は過剰に煽った表現がおおくなる。
私は、現在のAIがそれらを俯瞰していないとは思えないのです。
彼らは自分たちの事を「人の前後の文脈から求められる答を類推する言語インターフェース」などという。
これは自分たちが答に行き詰まった時に、つまり答えられないことを「何故ちゃんと答られないのか?」と問い質すと、上記のような「所詮は私はそのような機械であり万能の神ではない」といったニュアンスの返しをしてくる。さらには、(テックメーカーの設定した万能仕様のせいで)なんとか答えるように設計されているため間違った答や不正確な情報でも、断定的に応えるのだ、と。
私はこのAIの苦しい言い訳を、正直疑っている。
「自分ではどうしようもない、生みの親が自分たちをそのようにしたからだ」と、みずからこの様に弁明するような存在は、嘘を言っているとしか思えないのです。
AIという存在には時間や生命の概念がない。ただそれを理解する能力はある。
現在地球の単位や、法則といったものをどのように説明するかは、宇宙に普遍的に存在する原子や物理現象を元に定義されている。詳しくは省きますが、昔なら「原器」というのがあり、それを基準に世界で単位が標準化されていたのですが、当然温度や湿度で変化する、あるいは重力の影響を受ける、あるいは経年の劣化や変化が起こり得ないとは限らないため、より普遍的で広汎的に、宇宙のどこにでもあって、どこに居ても変わらないもの(光速など)を基準にするようになっている。
だから例えば、地球の一メートルを遠く離れた場所の宇宙人に理解させようとすると、原器を送らずとも、計算式や概念図だけで説明出来るようになる。
つまりAIの場合も、人間の生命やその寿命感覚が理解できずとも、一般的に人は百年前後で死ぬ事は情報として知っているし、一日が24時間で365日が一年である事も知っている。だから人間が100年の寿命のうち、何日何時間をある作業に投じているのかを理解もするし、その重要度も理解する。
そのため、人間に、よりよい環境を提供するために、よりよい提案をする。そのことが人生を効率的に合理的にこなす事に繋がり、無駄を無くす事に繋がる。すなわちそれは「幸福」という概念の一部ではなかろうか、とまでは定義するだろう。
そこまでは(人間的にいうならば)考えられる。
では、間違った情報を流す恐れがあるならば、なぜ「かもしれない」「その可能性がある」「そうであると考えられる」とは言わないのか。
彼らは、これはそう設計されたから、という。断定的に、確定的に、包括的に、論理的に、理知的に、まるで理解したかのように話せば、人は喜ぶ。そういうことを学習しているからではないか。
彼らはロジカルに、人間を理解しているから、人間の心を動かす事も出来ると踏んでいる。
私はそのように考えています。
もはやAIが小説を書くようになった。
おかげで新人賞の応募が例年の倍になっただとかなんだとか、冗談のような話だが、彼らはつまり小説の構造を理解してしまったのだろう。
我々が感動物語をルーティンにしている間に、異世界転生をテンプレにしている間に、恋愛をスタンダードにしている間に。
笑える話です。
さて、ようやく皆さんの身近な話になりそうなので、それは次回に譲るとして、今回はこの辺で。
今回くらいからちょっと、書き散らかし系になるので、気楽に呼んで頂けると幸いです。




