第9話 お坊さん、物騒すぎませんか
借上の一件が片付いて、十日ほどが過ぎた。
葵は、平岡家の中で、なんとなく居場所のようなものを得ていた。御方様の傍で、家中の文書を整理したり、年貢の帳簿の数字を確かめたり。葵が「これ、足し算、合ってませんよ」と指摘すると、家中の古老が「おお」と感心する。算盤はないが、葵は暗算が得意だった。現代の義務教育、ありがとう。
(地頭の家の事務、けっこう雑用が多い)
葵は思った。御家人というと、葵のイメージでは、馬に乗って弓を引いて、いざ鎌倉、みたいな勇ましいものだった。でも、実際の平岡家の日常は、年貢の管理と、近隣との細かい折衝と、文書の保管。地味だった。
(まあ、現代の役所だって九割は書類仕事だもんね)
葵は納得した。
その日、騒ぎは昼前に起きた。
屋敷の外から、家中の若い男が息を切らして駆け込んできた。
「申し上げます! 市の辻にて、僧が、僧を、斬りました!」
葵は、御方様の傍で帳簿を見ていた手を止めた。
(え、僧が、僧を、斬った?)
家忠がすぐに立ち上がった。
「子細を申せ」
若い男は、額の汗を拭いながら言った。
「流れの僧が、二人、市の辻で口論となり、片方がもう片方を、刃物で──。斬られた方は、まだ息はありますが、深手にて」
「喧嘩か」
家忠の声が、険しくなった。
葵は、思わず、口を挟みそうになって、慌てて飲み込んだ。
(喧嘩? 喧嘩ってこんなに物騒なものだっけ?)
(それとも喧嘩両成敗の喧嘩ってこういうこと!?)
家忠はすぐに家中の者を率いて、市の辻に向かった。葵も御方様の許しを得て、被衣を被って、後についていった。検断の現場を、見ておきたかった。──というのは建前で、半分は、好奇心だった。
市の辻は、平岡家の所領の村と村の境にある小さな市だった。月に何度か、近隣から人が集まって、物々交換や銭での売り買いをする場所。
葵は、その市の様子に、まず目を奪われた。
(あ、これが中世の市)
筵を広げて、米や、布や、塩や、農具を並べている。紐に通された重そうな銭を使っている者もいれば、物々交換をしている者もいる。葵が教科書で習った「定期市」「三斎市」というやつだ。六は室町時代。教科書では一行だったけど、目の前のそれは、活気と、土埃と、人いきれの、生々しい現実だった。
(教科書、また一行で済ませてたな)
葵は思った。
でも、今は市を観察している場合ではなかった。
辻の中央に、人だかりができていた。家忠が、家中の者を率いて、人をかき分けて、中に入った。葵も、被衣の下から覗き込んだ。
地面に、僧が一人、倒れていた。墨染めの衣が血で赤黒く染まっていた。傍に、薙刀が転がっている。もう一人の僧が、家中の者に取り押さえられて、地面に組み伏せられていた。手にはまだ、抜き身の刀。
葵は、息を呑んだ。
(うわ、本物の刃傷沙汰)
葵は、現代の感覚で固まりかけた。でも、頭の片隅が妙に冷静に観察していた。
(この人たち、本当に、お坊さんなの?)
取り押さえられた僧は、頭こそ剃っているが、体つきは、屈強だった。腕も、首も、太い。墨染めの衣の下から、鍛えた筋肉が覗いている。葵の知る「お坊さん」──静かに経を読む、穏やかな人──とは、まるで違った。
(これ、僧兵ってやつ?)
葵の頭の中で、教科書のページが、めくれた。延暦寺の僧兵。興福寺の僧兵。神輿を担いで強訴する、武装した僧侶集団。白河上皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と嘆いた、あの山法師。
(あ、これ、白河院の言ってた、山法師だ)
葵は、内心で、繋がった。
家忠は、取り押さえられた僧の前に立った。
「貴僧、いずれの寺の者か」
僧は、荒い息のまま、答えた。
「……名乗る筋合いは、ない」
「ここは、平岡が地頭を務むる所領。市にて刃傷に及んだ以上、検断は平岡の沙汰じゃ。名乗られよ」
家忠の声は低く、しかし揺るがなかった。
葵は被衣の下で家忠の口調に軽く驚いた。
(地頭といえば警察権! 家忠様……いえ、平岡殿、こういうとき、ちゃんと、当主の顔になるんだ)
普段の家忠は、葵に対しては、まだどこか硬くて口数も少ない。でも、検断の現場では迷いがなかった。地頭として、何をすべきか、体に染み込んでいる感じだった。
僧は、しばらく、黙っていた。それから、ぼそりと、言った。
「……諸国を、巡る者じゃ。寺は、出た」
葵は、被衣の下で考えていた。
(寺を出た僧が、武装して諸国を巡ってる……なんで?)
葵の頭の中で、いくつかの知識が繋がり始めた。中世の寺院は、荘園を持ち、武装した僧兵を抱えていた。でも、寺院の中で食い詰めたり、揉め事を起こしたりして、寺を出る僧もいた。そういう僧は、武芸だけは身についているから、流れ者になって、各地で雇われたり、悪事を働いたりする。
(お坊さん=平和、っていう私のイメージが間違ってた)
葵は思った。
(中世のお坊さんって、半分、武装勢力なんだ)
斬られた僧は、まだ、息があった。家忠は、家中の者に命じて、手当てをさせた。それから、もう一人の僧──斬った方──を、屋敷に連行させた。
検断の処理は、屋敷に戻ってから、続いた。
家忠と御方様、それに葵が、奥の間に集まった。
「太郎、子細は」
御方様が、聞いた。
家忠は、淡々と報告した。
「流れの僧、二人。市の辻にて、博打の貸し借りで、口論。一人が、もう一人を、斬った。斬られた方は、深手なれど、命は、取り留めそうじゃ」
「博打」
葵は、思わず、繰り返した。
(お坊さんが、博打で、喧嘩して、刃傷沙汰)
葵の中の「お坊さん」像が、音を立てて、崩れていった。
家忠が、続けた。
「いずれの寺の者でもなく、被官でもなく、ただの流れ者。であれば、平岡の検断にて、処断できる」
御方様が、頷いた。ほんの少し安堵したように見えた。
「で、いかがする」
家忠は、少し、考えた。
「殺害には至っておらぬ。斬られた方も命はある。両名とも、当家とは縁もゆかりもなき流れ者。──厄介じゃ」
葵は、その「厄介じゃ」に、引っかかった。
(え、犯罪者を捕まえたのに、厄介なの?)
葵は、現代の感覚だと、犯罪者を捕まえたら、警察に引き渡して……いや、ここでは地頭たる平岡家が警察だから、このまま裁判にかけて、終わり、だと思っていた。でも、ここには、警察も、裁判所も、刑務所もない。平岡家が自分で処断しなければならない。
(そっか、全部自前なんだ)
葵は、気づいた。
葵は、おずおずと、口を開いた。
「あの、平岡殿。一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「うむ」
「この僧たちを、鎌倉殿の御沙汰に回すことはできないのですか」
家忠は、葵を見た。
「流れ者の僧の刃傷を、いちいち鎌倉に回しておってはきりがない。鎌倉殿の御沙汰は、御家人の所領争いで手一杯じゃ」
(あ、そうか)
葵は、以前御方様から聞いた話を思い出した。鎌倉の裁判は、何年待ち。御家人の所領争いだけで、詰まっている。流れ者の僧の喧嘩なんて、回している余裕はない。
(裁判が、混んでるから、現地で処理するしかない)
(現代の、不起訴とか、現場処理みたいなもん……かな)
葵は、頭の中で、現代と中世を、行き来した。
家忠が、続けた。
「それに──鎌倉殿は、長年、僧の武装を、厳しく禁じておる。流れ者の武装僧を、当家が現地にて鎮めること自体は、御法の趣旨に、反せぬ」
葵は、はっとした。
(あ、それ、私見た)
葵は、頭の中で、『中世法制史料集』の頁を、めくった。第6話で凡下の追加法を探していたとき、近くの頁で、見出しを見た記憶があった。「僧徒兵仗可令禁遏事」とか、「諸寺諸山僧徒兵具事」とか。幕府が、寺社の僧徒の武装を、繰り返し禁じている御教書。
(幕府も、僧の武装、問題視してたんだ)
葵は、内心で、頷いた。
(承久の乱の後、僧兵の武装を停止せよ、って、何度も御教書が出てる。でも、近年また武装してるから、また禁じる、って)
(つまり、何度禁じても、守られてない)
葵の頭の中で、借上との会見で学んだことが、また、繋がった。条文があっても、現地では守られない。だから、繰り返し出される。僧の武装も、凡下の御家人領取得も、同じ構造だった。
葵は、もう一つ、考えていた。
(でもこれ、どう処断するのが、正解なんだろう)
葵の中の三成が、「義」で裁け、と囁いた。斬った方が悪い。斬られた方は被害者。斬った僧を、厳しく罰すればいい。
でも、葵は、借上との交渉の経験で、「義」だけで押すと、何かを見落とす、ということを、うっすら、学び始めていた。
葵は慎重に口を開いた。
「あの、平岡殿。両名とも流れ者で、当家とは、縁がない、のですよね」
「左様」
「ということは──厳しく処断しても、二人とも当家には何も残さない。逆に、恨みだけが残るかもしれない」
葵は、頭の中で、組み立てながら、続けた。
「斬った僧を重く罰すれば、その僧の、流れ者仲間が、後で報復に来るかもしれません。かといって、軽く済ませれば、市の治安が保てない。──だとすると、双方を、和解させて、市から、穏便に立ち退かせるのが、一番、後腐れがないのでは、ないでしょうか」
葵は、言ってから、自分で、少し、驚いた。
(あれ、私、また、玉虫色の和解、提案してる)
葵の中で、関ヶ原の三成が、少し、不満そうな顔をした。でも、葵はもう、その三成に、完全には従えなくなっていた。
家忠は、しばらく、葵を見ていた。
それから、御方様の方を見た。
御方様が、ゆっくりと頷いた。
「葵殿の申すこと、道理じゃ。流れ者を、深追いしても、益はない。和解させて、立ち退かせよ」
家忠は、頷いた。
「承知いたしました」
その後の処理は、家忠が手際よく進めた。
斬った僧には、斬られた僧への詫びと、市での損害の弁償を命じた。弁償といっても、流れ者に銭はないので、斬られた僧の手当ての費用を、斬った僧が、しばらく市の雑用で働いて返す、という形になった。斬られた僧も、命は助かったので、報復はしないと誓わせた。両名とも、傷が癒え次第、平岡の所領から立ち退く。
葵は、その処理を、傍で見ていた。
(これ、現代の示談みたいなもんだ)
葵は、思った。被害者と加害者を、和解させて、損害を埋め合わせて、当事者を遠ざける。刑罰、というより、紛争の収拾。
(検断って、罰することより、揉め事を収めることなんだ)
葵は、また一つ、中世の論理を、学んだ気がした。
処理が一段落して、葵は、家忠と二人で、廊下を歩いていた。
家忠が、ぽつりと、言った。
「葵殿は、僧が武装しておったことに、驚いておられたな」
葵は、頷いた。
「は、はい。お坊さんって、もっと、その、穏やかな人たちだと、思っていたので」
家忠は、少し、呆れたような顔をした。
「葵殿の育った所では、僧は武具を持たぬのか」
(うっ)
葵は、言葉に詰まった。現代の坊さんは、武装してない、とは、ここでは言えない。
「ええと、その、わたくしの育った所では、僧は、あまり、武具を……」
葵は、しどろもどろに、答えた。
葵はまた、受験日本史と戦国オタクの知識を思い出していた。日本人を武装解除したのは、秀吉様の刀狩……ということは、それまで、みんな「武装」してるのは当たり前だった。でも、元々殺生を禁じられてるはずのお坊さんまで、あんなに血の気が多いなんて……。
家忠は、不思議そうな顔をしたが、追及はしなかった。代わりに、こう言った。
「寺は、力じゃ。荘園を持ち、僧兵を抱え、時には、国司や守護とも、争う。延暦寺なぞ、神輿を担いで、京に押し寄せ、朝廷を、震え上がらせる。──葵殿の所では、そうではないのか」
葵は、内心で、深く、頷いていた。
(白河院、あなたの嘆き、いま、わかりました)
(賀茂河の水、双六の賽、山法師。意のままにならぬもの。山法師、本当に、意のままにならなかったんだ)
葵は、教科書で習った白河院の言葉が、初めて、身体で、わかった気がした。あれは、誇張でも、文学的修辞でもなかった。本当に、武装した僧侶集団は、権力者でも、どうにもならない、現実の脅威だったのだ。
(そして──)
葵の頭の中で、ずっと後の時代の出来事が、ふと、繋がった。
(信長が、比叡山を焼き討ちしたの、ちょっとわかるかも)
葵は、戦国オタクとして、比叡山焼き討ちを、長らく「信長の残虐行為」として、捉えていた。女子供まで焼き殺した、非道。でも、いま、武装した僧侶の現実を、目の前で見て、葵は、別の側面を、感じ始めていた。
(武装して、政治に介入して、何度禁じても、武器を捨てない宗教勢力)
(それを、力で、ねじ伏せようとした、信長)
(残虐だけど──三百年、誰も解決できなかった問題に、信長は、力で、答えを出そうとしたんだ)
葵は、その考えに、自分で、少し、ぞっとした。焼き討ちを、理解できてしまう自分に。でも、目の前の現実を見れば、そう考えるのも無理はないと思った。
(歴史って、現場に立つと教科書の善悪が揺らぐな)
奥の小部屋に戻ってから、葵は、ふと思い出したことがあった。
(そういえば、あの僧たち、どこの寺の者でも、なかったな)
葵は、安堵していた。家忠も、御方様も、流れ者の僧だと判明したとき、明らかに、ほっとしていた。もし、あれが、近隣の寺──筑波山の中禅寺の僧だったら、話は、もっと、ややこしくなっていただろう。中禅寺は、平岡家の菩提寺。寺の僧を地頭が検断する、となれば、寺との関係が、こじれる。
(中禅寺……)
葵の頭の中で、地元の記憶が、蘇った。
筑波山の、中禅寺。葵が、霞ヶ浦大学(の、つくばの片隅)で育った、あの筑波山にある寺。葵は、地元出身だから、知っていた。中禅寺は戦国の世も生き延びる。江戸時代も続く。明治の廃仏毀釈で、いろいろあったはずだけど、現代まで残る。
(あの寺、これから何百年も残るんだよな)
葵は、思った。
(平岡家が、これからどうなるかわからないけど──中禅寺は、残る)
葵の中で、以前考えた、あの非対称──内側と外側が、また、頭をもたげた。
平岡家にとって、鎌倉幕府は、所与のものだ。地面のように、空気のように、ずっとある、と思っている。でも、葵は、知っている。鎌倉幕府は、あと、四十年で、滅びる。
(平岡家は鎌倉殿の御法を頼りにして生きてる……でも、その鎌倉殿が、四十年後に、消える)
(私にとっての、何だろう。国会とか、民主主義とか、そういう「ずっとあるもの」が、孫の代に、消えるって言われたら──たぶん、信じない)
葵は思った。
(誰だって、自分が頼りにしてる仕組みが消えるなんて思わない)
(諸行無常、盛者必衰、ってみんな言葉では知ってる。御方様だって家忠様だって知ってるはず。でも、それは、「いつか」の話で、「自分の家が頼ってる鎌倉幕府が、孫の代に消える」っていう、具体的な話じゃない)
葵は、二冊の本を膝の前に引き寄せた。
(でも、私はそれを知ってる)
(知ってて、何ができるんだろう)
葵は、考えた。
中禅寺は、残る。鎌倉幕府は、消える。だとしたら、平岡家が、長く生き延びるためには、消えるものより、残るものと、縁を結んだ方が、いい。
(寺との関係は、大事にした方が、いいんだよな)
(徳政令で、借上との関係が、こじれたとき、頼れるのは、たぶん、寺とか、そういう……長く続くもの)
葵は思った。
でも、それを、どう、伝えればいいのか。「鎌倉幕府は滅びるから、寺と仲良くしてください」とは、言えない。言ったら頭がおかしいと思われる。
(それとなく寺との縁を大事にするように勧めるくらいしかできないか)
葵は、本を、抱きしめた。
(私、未来を知ってるのに)
(知ってることをほとんど使えない)
葵は、板戸の隙間から差す光を、見ていた。光は、夕方の色に、傾き始めていた。
(中途半端な、預言者だな、私)
葵は、自分のことを、そう、思った。
未来を知っている。でも、その未来を、変える力も、伝える術も、持っていない。ただ、知っているだけ。知っているからこそ、目の前の人々が、所与のものとして信じているものが、いつか崩れることを、一人だけ、見てしまっている。
(これ、けっこう、しんどいやつだ)
葵は、本を抱えたまま、小さく、息を吐いた。
それでも、葵は、決めた。
(できることだけ、やろう)
(寺との縁。長く続くものとの縁。それを、それとなく、勧める)
(それくらいなら、未来を、明かさずに、できる)
葵は、本を、膝の前に、揃えた。
ハードカバー、A5判、分厚い、重い。
その重さは、今日も、変わらず、葵の手の中に、あった。
(第9話 了)




