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第10話 地頭は、貧乏警察


僧の刃傷沙汰が片付いて、数日後。

葵は、御方様と家忠と一緒に、奥の間で、書状の作成に取り組んでいた。


借上の長九郎との、関係の整理だった。先日の会見で、長九郎は引き下がったが、口頭での約束だけだった。それを、文書にして、残しておく。「現地支配は、これまで通り、平岡家が行う」「年貢の一部は、これまで通り、借上に納める」──そういう、双方の確認を、書面にする。


(口約束を文書にする)


葵は、平岡家に来た頃に盗み聞きした会話を思い出していた。借上が「先代様のご了解は、文書に残っておりますか」と詰めてきて、平岡家が沈黙した、あの場面。あれが、平岡家の弱みだった。口約束しかなかったから、付け込まれた。


(同じ轍は、踏まない)


葵は書状の文面を家忠と一緒に慎重に詰めた。曖昧な言葉を避けて、誰が読んでも一通りにしか解釈できないように。現代の契約書を作る感覚で、葵は言葉を選んだ。


「平岡殿、ここの『これまで通り』は、もう少し、具体的にした方がよいかと。『年貢のうち、何分を、いつまでに』と、数を入れましょう」

「ふむ」


家忠は、葵の助言を素直に取り入れた。

最近家忠は、葵の文書の助言をよく聞くようになっていた。葵は、その変化が少し嬉しかった。



書状が一通仕上がった。葵は、それを改めて読み返した。


(これで、長九郎がまた何か言ってきても、この書状を出せばいい)


葵は満足した。

でもその満足の傍らで、葵の頭の片隅は、別のことを考えていた。


(でも、これ──数年後に徳政令が来たらどうなるんだろう)


葵は思った。


永仁の徳政令。


葵は、名前は当然知っている。御家人が、借金で手放した所領をただで取り戻せるようにするあの法令。たしか、永仁五年。いまは、永仁元年。あと、四年。


(あと四年で、徳政令)

葵の頭の中で教科書の知識がぼんやりと浮かんだ。

(借金、帳消し。御家人を救うため。──でも、たしか失敗して、幕府の衰退の原因になる)


葵の理解は、そこで、止まっていた。徳政令は御家人救済のために出されたけど、かえって混乱を招いて、失敗した。──そういう結論だけ覚えていた。どう失敗したのか、具体的には、思い出せなかった。でも、「やらかす」という印象だけは強かった。


(いま、長九郎との関係をこうやって文書で固めてるけど……数年後に徳政令が来たら、この関係ぜんぶひっくり返るかもしれない)


葵は、手元の書状を見た。さっきあんなに丁寧に作った書状。


(この紙、四年後には、意味がなくなってるかも)


葵は、少し虚しくなった。でも口には出さなかった。



葵は、書状を御方様に手渡した。

御方様は、それを丁寧に読んだ。

「ようできておる。これで長九郎も軽々しくは動けまい」

御方様は、満足そうに、頷いた。

葵頭を下げた。それから、ふと思い切って聞いてみた。

「あの、御方様。一つお伺いしてもよろしいですか」

「うむ」

「平岡家にとって、いちばん頼りになるのは、何でしょうか」

御方様は葵を少し意外そうに見た。

「と、申すと」

葵は、慎重に、言葉を選んだ。

「いえ、その──借上のような相手とは、こうして文書で関係を固めることができます。でも世の中、いつ、何が、変わるかわかりません。そういうとき、平岡家が最後に頼れるのは何なのかと」

御方様は、しばらく、葵を見ていた。それから、ゆっくりと、答えた。

「縁、じゃろうな」

葵は、その答えに、内心で、頷いた。

(やっぱり、縁)

御方様は、続けた。

「文書は大事じゃ。なれど、文書は、世が乱れれば、紙切れになる。乱世には、文書よりも、人と人との縁が、ものを言う。先祖代々の寺との縁。近隣の御家人との縁。そういう長く続く縁が、いざというとき家を支える」

葵は深く頷いた。


(御方様、わかってる)


葵は、思った。御方様は、未来を知らない。鎌倉幕府が滅びることも、徳政令が来ることも、知らない。でも、経験から、知っている。「文書は、世が乱れれば、紙切れになる」「縁が、家を支える」──それは葵が、未来の知識から辿り着いた結論と同じだった。


(私は、未来を知ってるから、「縁を大事に」って思う。御方様は、過去の経験から、「縁を大事に」って言う)

(辿る道は、違うのに、答えは、同じ)


葵は、少し不思議な気持ちになった。そしてなんだか安心した。自分が未来の知識でこっそり考えていたことが、御方様の生きた知恵と一致した。それは葵にとって心強かった。

(御方様の言う通りだ。縁を大事にした方がいい)

葵は内心で改めて決めた。


(鎌倉幕府は、滅びる。借上との文書も、徳政令でひっくり返るかもしれない。でも、寺との縁、人との縁は、残る。だから、縁を大事に)


葵はその方針に確信を持った。未来の知識と、御方様の知恵が同じ方を指していた。


書状の処理が終わってから、葵は家忠と一緒に屋敷の外回りを見て回った。家忠が所領の様子を確かめる、いつもの巡回に、葵もついていくことになったのだ。

歩きながら、葵は平岡家の置かれた状況を改めて考えていた。


(平岡家って、けっこうしんどい立場だな)


葵は思った。

借上のような、金貸しの商人がいる。寺社のような、武装した宗教勢力がいる。流れ者の、武装した僧がいる。近隣には、他の御家人がいて、所領を巡って、いつ揉めるかわからない。本家(平岡惣領家)からは、大番役を振られるかもしれない。

(そんな中で、平岡家は、地頭として、所領を守って、年貢を集めて、治安を維持して──)

葵は、家忠のつぎはぎの直垂の背中を見た。

(でも、ぜんぜん儲かってない)

葵は思った。平岡家の暮らしは、貧しい。屋敷はボロいし、家忠の直垂はつぎはぎだし、御方様の衣も、繕いだらけ。年貢は一部、借上に取られている。それでも、地頭として、果たさなきゃいけない役目は、山ほどある。


(これ、なんか──貧乏警察みたいだ)


葵は、ふと、思った。


(薄給で、激務で、武装した連中(寺社とか、流れ者とか)に囲まれてて、それでも、現場の治安を、維持しなきゃいけない)

(僧兵は、ヤクザみたいに、武装してる。借上は、グレーな金融業者。神社や寺は、巨大な権力。その中で、地頭は、ろくに儲からないのに、現場の揉め事を、全部、処理させられてる)


葵は家忠の背中を見ながら、なんだかしんみりした。


(御家人窮乏、ってこれ、こういうことだったんだ)


教科書では、「元寇の負担と、分割相続による所領の細分化で、御家人は窮乏した」と、一行で習った。でも、現場で見るともっと複雑だった。儲からないのに役目だけは重い。武装勢力に囲まれて、薄給で、治安維持。そりゃ、窮乏する。


家忠が歩きながらぽつりと言った。

「葵殿はこの家をどう見ておられる」

葵は少し驚いた。家忠が自分からこういうことを聞いてくるのは珍しかった。

葵は正直に答えた。

「あの、その──大変な、お立場だな……と」

「大変、か」

「はい。借上に、寺社に、流れ者に、本家に……いろんな相手に、囲まれていて。それでも、地頭として所領を守って皆をまとめて。──ぜんぜん儲からないのに役目だけは重くて」

葵は言ってから、失礼だったかな、と思った。「儲からない」は、言いすぎたかもしれない。

でも、家忠は怒らなかった。むしろ低く笑った。

「葵殿は、よう見ておられる」

家忠は足を止めて、所領を見渡した。痩せた田。まばらな家。遠くに筑波山。

「儲からぬ。役目は重い。それでも──この所領は、先祖が、守ってきたものじゃ。それがしの代で、失うわけには、いかぬ」

家忠の声は、静かだった。

「派手な手柄は立てられぬ。鎌倉に名を轟かせることも、あるまい。ただ、この痩せた所領を、次の代へ、繋ぐ。それがそれがしの役目じゃ」

葵は家忠の横顔を見た。


(あ──)


葵の中で、何かが、動いた。

家忠は英雄ではない。歴史に名を残す武将でもない。ただ、貧しい所領を必死に守っている、地味な御家人。でも、その地味さの中に、葵は何か確かなものを感じた。


(派手な手柄より、続けること)


葵の頭の中で、いつか誰かが言いそうな言葉が、ふと、形になりかけた。続けることは、勝つことよりも、難しい──。

葵は、その言葉を、まだ知らなかった。でも、家忠の横顔にその萌芽を見た気がした。



巡回から戻って、葵は奥の小部屋で二冊の本を膝の前に並べた。


(地頭は、貧乏警察)


葵は今日の発見を反芻した。


(寺社は、ヤクザみたいに、武装してる)

(借上は、グレーな金融)

(その中で、地頭は、薄給で、治安維持と、紛争処理を、やらされてる)


葵は戦国オタクとして、これまで御家人を「いざ鎌倉」の勇ましい武士だと思っていた。でも現実の御家人は、薄給の現場公務員みたいなものだった。武装勢力に囲まれて、儲からない仕事を必死にこなしている。


(そりゃあ徳政令も欲しくなるよな)


葵は思った。


(借金で所領を手放して、それでも役目だけは果たさなきゃいけない。そんな御家人を救うために、幕府は徳政令を出すんだ)

(でも、それが、やらかすんだよな……たしか)


葵はまた徳政令のことを考えた。でもやっぱり、具体的なことは思い出せなかった。「御家人を救うために出して、失敗した」という、結論だけ。


(まあ、いいや)


葵は思った。


(私にできることは、限られてる)

(幕府は、滅びる。徳政令は、来る。でも私が、それを止めることはできない)

(できるのは、御方様の言う通り縁を大事にすること。長く続くものと、縁を結ぶこと)


葵は本を膝の前で揃えた。


(今日、御方様も同じことを言ってた。文書は、紙切れになる。縁が家を支えるって)

(私の未来の知識と、御方様の経験の知恵が、同じ方を指してる)

(だったらそれは、たぶん正しい)


葵は、少し安心した。

未来を知っているということは、孤独なことだった。誰にも言えない。一人で抱えている。でも御方様の知恵が葵の知識一致したとき、葵は、一人ではない、と感じた。違う道を辿っても同じ結論に辿り着く人がここにいる。


(御方様、すごいな)


葵は思った。


(未来を知らないのに、未来を知ってる私と同じ結論に辿り着いてる)

(経験って、未来予知と、同じくらい、強いのかもしれない)


葵は本を抱きしめた。


ハードカバー、A5判、分厚い、重い。


その重さは相変わらず葵の手の中にあった。でも、今日は、その重さが少しだけ違って感じられた。

条文を振るうための武器。それだけじゃ、ない気がした。


この重さは、たぶん──葵が、この時代の人々と、本気で向き合っている、ということの重さでもあった。



(第10話 了)

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