第8話 鎌倉殿の御法、なぜ強い
本の内容はフィクションです。
借上の使いである長九郎が帰ってから、三日が経った。
平岡の屋敷は、表面的には何も変わっていなかった。家忠は変わらず武芸の稽古に出かけ、御方様は奥で家中の差配をして、侍女たちは普段通りに立ち働いていた。
葵だけが、まだ、あの会見の熱を、引きずっていた。
(押せたのに、押さなかった)
(あれは、勝ちだったのか、勝ちじゃなかったのか)
葵は、小部屋の中で、本を膝に置いて、ぼうっと、考えていた。考えてもしようがない、と頭では分かっているのに、頭が、勝手に、その問いに戻る。
(三成様だったら、押し切った)
(でも、御方様は、押すな、と言った)
(家忠様、いえ、平岡殿は、止めた)
(私の判断は、間違っていたのか?)
葵は、頭を振った。
(やめよう)
葵は、もう一冊の本を、膝に引き寄せた。
石井良助『新版 中世武家不動産訴訟法の研究』高志書院、二〇一八年。
葵の腕の中で何度も振り回されてきた、もう一つの鈍器。
(こっちは、まだ、ちゃんと読んでないんだよな)
葵は、頁を、適当なところから、開いた。
開いた頁の見出しが、葵の目に飛び込んできた。
「第二章 訴訟手続き──第一節 訴の提起」
(訴状の提起)
葵は、首を傾げた。
(……え、それで、一節?)
葵は、頁を捲った。
訴状の受理。受理にあたっての書式の確認。訴人の身分の照会。所領の所在の確認。御家人籍の照会。訴訟物の確認。被告との関係の確認。──そして、ここまでが「訴状受理」のフェーズ。
(……長くない?)
葵は、次の章を見た。
「第二節 訴の繫属、第三節 訴の審理」
(またあるの?)
葵は、頁を繰り続けた。
賦。問状の発給、被告への送達、被告による陳状の提出。陳状の書式、提出期限、追加陳状の扱い、陳状の写しの訴人への送付。──ここまでが、二節目。
(これで、まだ、対決すらしてない)
葵は、もう一度、頁を戻して、目次を確認した。
第三節 訴の審理
第一款 総説
第二款 書面審理
第三款 召喚
第四款 口頭弁論
第五款 訴訟手続きの中断、中止および分離
ここまでで約二百頁。判決はまだこの先だ。
葵は、目次を見ながら、口が、半開きになった。
(これ、こんなに、細かいの)
葵の頭の中で、受験勉強で習った「鎌倉幕府の裁判制度」が、ぐらりと、書き換わっていった。
葵が大学で習ったのは、「三問三答」というキーワードだった。原告と被告が、訴状と陳状を三回ずつやり取りする。それが、鎌倉幕府裁判の基本。──そう、たしか、習った。
でも、この本によると、三問三答は、対決前の一段階に過ぎなかった。それ以前に、訴状受理、問状発給、陳状提出という、何段階もの前手続きがある。三問三答の後にも、対決、評議、判決、執行、上訴、再審、和解、救済──と、まだ続く。
(なにこれ、現代の民事訴訟並み)
葵は、思わず、内心で叫んだ。
(鎌倉幕府、こんなに、細かい制度、作ってたの?)
(教科書、嘘じゃないけど、簡略化しすぎ!)
葵の頭の中で、山川教科書の「鎌倉幕府は武家初の裁判制度を整備した」みたいな一行が、ぺらり、と剥がれ落ちた。一行で書くな、という気持ちと、一行で書くしかなかったよな、という気持ちが、同時にあった。
葵は、頁を繰りながら、もう一つの感想を、抱いていた。
(これ、運用してた人、大変じゃない?)
葵は、思った。
裁許状を発給するまでに、これだけの手続きを踏む。一件あたり、相当な時間と労力がかかるはずだ。そして、平岡家のような中規模御家人の所領争いが、全国にどれだけあるか。鎌倉幕府の問注所と引付方が、それを全部、捌いていた。
(これ、絶対、詰まってる)
葵は、思った。
訴訟が一件入ったら、書類の処理だけで何日もかかる。それが、何百件、何千件と積み重なっていたら──。
(現代の家庭裁判所だって、調停は半年待ちとか、よく聞くもん)
葵は、現代の司法の感覚を、引っ張ってきた。
(鎌倉幕府の裁判、絶対、何年待ちとかの世界じゃない?)
葵は、もう一つ、気になることがあった。
頁を繰っていくと、判決の効力、執行の方法、上訴の手続き、再審の条件──と、判決後の話が、これまた細かく書かれていた。
(でも、これって──)
葵は、考えた。
(借上の長九郎、こんな細かい制度の存在を、知ってたから、引いたの?)
葵は、その仮説に、自分で、軽く驚いた。
第48条の文言と、延応二年の追加法。葵がそれを長九郎に突きつけたとき、長九郎が引いたのは、条文そのものが怖かったから、ではない。「これを表沙汰にする」と葵が言ったから、引いた。
つまり、長九郎が怖がっていたのは、「鎌倉殿の裁判の場に出されること」だった。表に出れば、こんなに細かい手続きで、自分の所領が「公収」されるかもしれない。だから、引いた。
(条文が強かったんじゃなくて、裁判の場が強かった)
葵は、頭の中で、論理を組み直した。
(条文は、裁判の場の存在によって、効いている)
(裁判の場が、強くなければ、条文も、ただの紙)
葵は、本を、膝の上で、抱え直した。
(でも──なんで、鎌倉殿の裁判が、そんなに、強いんだろう)
葵は、その問いに、自分では、答えられなかった。
御家人が、鎌倉殿の裁判に出る義務がある──そういう仕組みなのは、わかる。でも、借上のような凡下も、鎌倉殿の御法を、恐れている。なぜ、凡下までが、鎌倉殿を恐れるのか。
(鎌倉殿の御法は、誰が、なんで、従ってるんだろう)
葵は、本を抱えて、廊下に出た。
奥の間の方から、御方様の声が聞こえていた。家中の者と、何か話している様子。葵は、少し待ってから、侍女に声をかけた。
「あの、御方様、お話を伺ってもよろしいでしょうか。お手すきの折で構いません」
侍女は、頷いて、奥の間に伝えてくれた。
しばらくして、葵は、御方様の前に通された。家忠は、稽古に出ているとのことで、奥の間にいなかった。御方様と、葵だけだった。
「葵殿、何用じゃ」
御方様は、穏やかに言った。
葵は、本を、御方様の前に置いた。
「あの、御方様、教えていただきたいことが、ありまして」
「申してみよ」
葵は、頭の中の問いを、整理しながら、口に出した。
「先日の借上のこと、わたくし、条文を盾に押したのですが、長九郎殿は、引きました」
「うむ」
「あれは、なぜ、引いたのでしょうか」
御方様は、葵を、しばらく見ていた。
「鎌倉殿の御法に、逆らえぬからじゃ」
御方様は、静かに、答えた。
「はい、それは、わたくしも、わかります。でも──なぜ、長九郎殿は、鎌倉殿の御法を、恐れるのでしょうか」
葵は、続けた。
「長九郎殿は、御家人ではござりませぬ。凡下の側です。鎌倉殿の御家人ではない者まで、なぜ、鎌倉殿の御法に、従うのでしょうか」
御方様は、葵の問いに、少し、考えるような顔をした。
「みなが、従うから、じゃろうな」
御方様は、ゆっくりと、答えた。
葵は、首を傾げた。
「みなが従うから、ですか」
「左様」
「ええと──それは、循環論法のような気が──」
葵は、言いかけて、止めた。循環論法、は、たぶん、通じない。
御方様は、しばらく、葵を見ていた。それから、こう続けた。
「鎌倉殿の御法は、御家人の間で、長く、用いられてきた。誰かが訴えれば、鎌倉殿の御沙汰がある。誰かが裁許状を得れば、それは効力を持つ。みなが、そう信じておるから、みなが従う。誰も、その仕組みから外れることが、できぬ」
葵は、頭の中で、御方様の言葉を、反芻した。
(みなが信じてるから、効く)
(現代の貨幣みたい、これ)
葵は、思った。お金が価値を持つのは、みなが価値を信じているから。誰かが信じなくなった瞬間に、お金は、ただの紙切れになる。そんな話を聞いたことがある。鎌倉殿の御法も、同じなのかもしれない。
「裁判は──」
葵は、もう一つ聞いてみることにした。
「いま、鎌倉では、訴訟が、たくさん、起きていますか」
御方様は、軽く、息を漏らした。
「たくさん、というても、足りぬほど。雲霞の如しとも言われておる」
御方様の声に、わずかな、苦さが混じった。
(雲霞って、人が雲のように押し寄せてるってこと……?)
葵は思わずコミケの行列を思い出した。え、じゃあ、万単位の人が訴訟のために鎌倉を訪れてるの?
「鎌倉殿の御沙汰を願う者は、年々、増えておる。引付方ができてからは、いくらか速うはなったが、それでも、訴状を出してから、御沙汰が下るまで、数年は、ざらにかかる」
「数年……」
葵は、頭の中で、それを反芻した。
(訴状出して、判決まで、数年)
(現代より遅いじゃん)
(いや、家裁の調停も似たようなもんかも)
葵は、現代と中世の感覚を、行き来した。
「葵殿が、長九郎殿に申されたことが、効いたのは、まさにそれゆえじゃ」
御方様は、続けた。
「鎌倉殿の御沙汰の場に持ち出されれば、長九郎殿は、何年もの間、所領を抑えられ、商いも止まる。たとえ、最後に勝ったとしても、その間の損は、計り知れぬ。負ければ、所領は公収される。──だから、引いた」
葵は、深く、頷いた。
(あ、そういうことだ。条文そのものより、条文を持って鎌倉に行かれることが怖い……裁判の制度そのものが、武器なんだ)
葵の頭の中で、第6話で発見した条文と、今日読んだ訴訟手続きの細密さが、ようやく、繋がった。
御方様は、葵を見て、少し、首を傾げた。
「葵殿は、なぜ、そのようなことを聞かれる」
葵は、慎重に、答えた。
「あの、わたくしも、まだ、御法を、よく、わかっておりませんで……。なぜ、御法が、効くのか。なぜ、人は、御法に従うのか。それを、知っておきたいと──」
御方様は、しばらく、葵を見ていた。
「葵殿の問い方は、書物の中の問い方じゃ」
御方様は、低く、言った。
葵は、ぴくり、と、固まった。
「われらは、御法は、ある、と思うておる。それが、なぜあるのか、を、問わぬ。あるものに、従う。それだけじゃ」
御方様は、静かに、続けた。
「お前様は、それを、なぜ、と問う。それは、われらの中には、ない問い方じゃ」
葵は、被衣を着けていない自分の頬に、汗が滲むのを感じた。
(やばい、また、変だと思われてる)
葵は、慌てて、頭を下げた。
「申し訳ありません。出過ぎたことを──」
「いや」
御方様は、ゆっくりと、首を振った。
「責めておるのではない。ただ、葵殿の問い方は、われらとは、違う、と申しただけじゃ」
御方様は、少し、間を置いた。
「お前様のような問い方も、あってよいのかもしれぬ。問うてみねば、わからぬこともある」
葵は、頭を上げた。
御方様は、葵を見て、わずかに、笑っていた。
葵は、何と言っていいかわからなかった。被衣の下、ではなく、剥き出しの顔のままで、御方様の笑顔を、受け止めた。
奥の間を退出して、葵は、自分の小部屋に戻った。
板間に座って、二冊の本を、膝の前に並べた。
『中世法制史料集』。条文の集積。
『新版 中世武家不動産訴訟法の研究』。制度の解明。
葵は、二冊を、しばらく、見つめた。
(条文と、制度)
(片方だけじゃ、効かない)
(条文があって、それを動かす制度の場があって、両方あって、初めて、効く)
葵は、本に向かって、内心で頷いた。
(石井良助先生、ありがとうございます)
葵は、本の著者に、深く、感謝した。鎌倉幕府の裁判制度を、これだけ細かく、解明してくれた研究者がいるから、自分は、それを読んで、長九郎を引かせることができた。条文があるだけでは、できなかった。
(でも──)
葵は、思った。
(御方様の「みなが従うから」というのは、たぶん、答えになってない)
葵の中で、まだ、引っかかっていた。
御方様も、家忠も、長九郎も、平岡家の家中の者も、みんな、鎌倉殿の御法が「ある」ものとして、生きている。問わない。
葵は、それを、問えてしまう。問う、ということは、その外側に立てる、ということ。
(でも、私、その外側に立つことで、何か見落としてないかな)
葵は、少し、不安になった。
御方様は、「われらの中には、ない問い方じゃ」と言った。怒っているのではなかった。でも、何か、葵が「われら」の中にはいない、ということを、御方様が、はっきり、見てしまったような気がした。
(私、よそ者なんだ)
葵は、改めて、思った。
時代も、社会も、感覚も、違う。条文を読めて、制度を分析できて、長九郎を引かせられる。でも、御方様の「みなが従うから」が腑に落ちる側には、いない。
葵は、ふと、思った。
(三成様は、御法のある世界の、中の人だった)
(私は、外の人として、御法を、使ってる)
葵の中で、関ヶ原の三成の像が、また、少し、揺らいだ。
葵は、二冊の本を、膝の前で、揃えた。
ハードカバー、A5判、分厚い、重い。
鈍器が、武器になった。それは、間違いない。
ただ、葵の中で、その武器を振るう自分が、誰なのか、少しずつ、わからなくなり始めていた。
(第8話 了)




