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第7話 条文、殴ります


会見の当日、葵は朝から落ち着かなかった。


奥の小部屋で、被衣を被って、座って、本を膝の上に開いて、また閉じて、開いて。御成敗式目第四十八条、延応二年追加法、弘安七年追加法──頭の中で何度も繰り返した。条文の番号、年号、文言、罰則。全部、頭に入っている。入っているはず。たぶん。


(大丈夫、私は、できる)

(義は、こっちにある)


葵は、自分にそう言い聞かせた。


(三成様。私、行きます)


葵は、本を閉じた。手のひらが、汗で湿っていた。


借上の使いは、昼前にやってきた。

家忠と葵は、表の間に通された。御方様は奥の襖の向こうにいるはず、と侍女が小さく教えてくれた。聞いている、ということだ。葵は、それで少し、背筋が伸びた。

板敷の表の間。茣蓙が敷かれ、家忠と葵が並んで座った。葵は、家忠の少し後ろに控える形をとった。被衣は、顔の半分を隠したまま。

家忠が、低く言った。

「葵殿。御方様のお指図、覚えておられるな」

「は、はい。引き下がらせる、ところまで」

「うむ」

家忠は、それだけ言って、視線を前に戻した。葵は、被衣の下で、ぎゅっと拳を握った。


(引き下がらせる、ところまで)

(押せるところまでは、押す)


葵の中で、二つの声が、まだ並んでいた。



板戸が開いた。

入ってきたのは、四十がらみの男だった。直垂は綺麗に整っていて、無地ではあるが、生地は良い。腰には脇差。烏帽子の角度も、きちんとしている。ただ、武家の烏帽子とは、形が少し違っていた。商人風の、丸みのある形。


(あ、これが、借上の使い)


葵は、被衣の下から、観察した。男衾三郎絵巻の野蛮な武士でもないし、平岡家のような疲れた御家人でもない。落ち着いた、商売人の顔だった。


男は、入ってくると、丁寧に一礼した。

「平岡殿。本日は、お時間をいただき、かたじけのうござります。それがし、鎌倉の六兵衛が手の者、長九郎と申します」

声は、葵が以前廊下越しに聞いた、あの声だった。落ち着いて、抑え込んだような声。


家忠が、短く頷いた。

「うむ。座られよ」

長九郎は、家忠の正面に座った。葵を一度ちらりと見たが、すぐに視線を家忠に戻した。被衣の女、として処理されたようだった。葵は、被衣の効果に、内心で軽く感謝した。


長九郎が、口を開いた。

「先日のお話の、お返事を伺いに、参じました」

「うむ」

「先代様より、当家への所領沽却の件、売券の文言に基づき、現地のご支配は、今後、我ら借上の側にて、お引き受けいたしたく──」

葵は、被衣の下で、息を整えた。


(来た)

(条文、いきます)


葵は、被衣を少し持ち上げて、口を開いた。


「失礼いたします」


長九郎の言葉が、止まった。

長九郎が、初めて、葵をまっすぐ見た。被衣の女が、口を出す。それは、長九郎の想定にはなかった展開のようだった。

家忠が、葵を一度見て、それから長九郎に向き直った。


「これなるは、当家の客人、葵殿。御法に詳しき者にて、本日、それがしと共に話を聞かせていただく」


家忠の声は、低く、平静だった。

長九郎の眉が、わずかに動いた。それでも、商売人らしく、すぐに表情を整えた。


「左様にございますか。御法に詳しき御方とは、心強きことにございます」


口元は、笑っていた。値踏みする笑いだった。

(値踏み、してきた)

葵は、被衣の下で、内心で身構えた。

(三成様、見ててください)

葵は、できるだけ落ち着いた声で、切り出した。

「長九郎殿。売券の文言を、改めて、確認させていただきとう存じます」

「と、申されますと」

「売券には、こちらの所領が、『御恩の地』として記されておりまする。これに、相違ございませぬか」


長九郎の表情が、わずかに、固まった。

葵は、その固まりを、見逃さなかった。


(きた、これ、効いてる)


葵は、続けた。

「ご承知の通り、御成敗式目第四十八条、所領を売買する事。御恩の地は、これを売買すること、停止せらるるものにござります。違反すれば、売り手も、買い手も、共に罪科に処さるる、と」


葵は、息を継いだ。


「すなわち──この売券は、表に出せば、平岡家のみならず、借上殿の側もまた、罪に問わるるものにござります」


部屋が、静かになった。


長九郎は、しばらく沈黙していた。それから、ゆっくりと、息を吐いた。

「……御法、確かにそのように承っております」

長九郎の声は、まだ落ち着いていた。商売人だ、と葵は思った。簡単には崩れない。


「なれど、この沽却は、五年も前の話。今となっては、互いに利を得てきた取り決めにござります。今さら、これを御成敗式目に照らして表沙汰にする、と申されるのは──いかにも、いかがなものかと」


(うわ、すり替えてきた)

葵は、内心で警戒した。御方様にも事前に言った通り、相手は論点を逸らしてくる。「条文上違法か」ではなく、「今さら表沙汰にする利があるのか」という話に、すり替えようとしている。


(ここで、二の矢、いきます)


葵は、被衣の下で、息を整えた。

「長九郎殿。仮に、表沙汰にせずとも、別の論点がござります」

「……と、申されますと」

「延応二年六月十一日の鎌倉殿の御教書。覚えがおありでしょうか」

長九郎の眉が、ぴくり、と動いた。


葵は、頭の中で文言を引いた。


「『凡下の輩、私領を買うべからざる事』。御家人の私領は、たとえ私領であっても、凡下の輩──すなわち、御家人にあらざる者──に売り渡すことは、停止せらるる。違反した場合、その所領は公収せらるる、と。これは、御恩地に限らず、私領にまで及ぶ規制にござります」


葵は、長九郎の目を、まっすぐ見た。

「長九郎殿。借上殿は、御家人にあらず。すなわち、凡下にあたる。この沽却そのものが、御恩地であるか私領であるかを問わず、御教書に抵触いたしまする」

「……」

長九郎は、黙った。


(効いてる)


葵は、被衣の下で、頬が熱くなるのを感じた。


(これで、決まる)


葵の頭の中で、関ヶ原の三成が、すっと立ち上がった。義のために立ち上がった三成。打算を超えて戦った三成。


(私は、義のために、戦う)

(借上を、ここで、完全に──)


葵は、口を開きかけた。

「さらに、弘安七年五月廿日の御教書にもござります。関東御領について、非御家人の輩が、相伝・請所・沽券・質券を以て、領作するの由、其の聞こえあり──と。すなわち、幕府は、今まさに、このような事態を──」

「葵殿」


家忠の声が、静かに、葵の言葉を遮った。


葵は、ぴたりと、口を止めた。

家忠は、葵の方を見ていなかった。視線は、長九郎に向いていた。穏やかに、しかし、はっきりと。

「長九郎殿」

家忠が、低い声で続けた。

「葵殿の申されたこと、御法に照らして、ご理解いただけたかと存ずる」

長九郎は、家忠を見た。視線が、合った。

家忠は、続けた。

「なれど、これは、五年来の縁にござります。先代の代より、互いに頼み合うてきた間柄。ここで、御法を盾に、互いを追い詰めるのは、いかにも本意にあらず」


長九郎が、ゆっくりと、息を吐いた。


「……平岡殿」

「うむ」

「ご縁、と仰せられるか」

「左様。ご縁にござる」

家忠の声は、穏やかなままだった。

葵は、被衣の下で、自分の口が、半開きになっているのに気づいた。


(え)

(待って)

(今、決まりかけてたのに)


(弘安七年の御教書、まだ言ってない。あと一歩で──)


葵は、被衣の中で、ぐっと、自分を止めた。

家忠は、葵を一度見た。一瞬だけ、目が合った。葵は、その目に、何か言葉にできないものを、見た気がした。怒りではない。咎めでもない。何か、葵にはまだわからない、しかし家忠には見えているものがある目だった。

葵は、口を、閉じた。


長九郎は、しばらく、家忠を見ていた。それから、深く、息を吐いた。

「……承知いたしました。本日の件、持ち帰りまして、六兵衛殿に申し伝えまする」

「うむ」

「現地のご支配の件は、これまで通り、平岡殿の側にて、お続けくだされ。ただ──」

長九郎は、慎重に、言葉を選んだ。

「五年来の縁、というお言葉。確かに、頂戴いたしました。今後の年貢の取り分など、改めて、ご相談させていただく折もあろうかと存ずる。その節は、また、よしなに」

家忠は、頷いた。

「うむ。いずれ、改めて」

長九郎は、丁寧に一礼すると、立ち上がった。

板戸が閉まる音がした。

長九郎の足音が、廊下を遠ざかっていった。


葵は、しばらく、動けなかった。

被衣の下で、頬が、まだ熱かった。条文で殴った熱と、家忠に止められた戸惑いと、両方が混ざって、葵の中で、ぐるぐる回っていた。


(私、押せた)

(条文、効いた)

(長九郎、確かに引き下がった)


葵は、自分の手応えを、確かめた。確かに、効いた。第四十八条で揺さぶり、延応二年追加法で詰めた。長九郎は明らかに動揺していた。完全に、押し切れた。


(でも──)


葵は、被衣の下で、ぎゅっと拳を握った。


(あと一歩、あった)

(弘安七年の御教書まで出せば、完全に屈服させられた)


(なんで、家忠様、いえ、平岡殿、あそこで止めたの)


葵は、横の家忠を見た。家忠は、まっすぐ前を見ていた。長九郎が出ていった板戸を、じっと、見ていた。

家忠が、低い声で、言った。

「葵殿」

「は、はい」

「ご助力、かたじけのう存じた」

葵は、慌てて頭を下げた。

「いえ、わたくしこそ、出過ぎたことを──」

「出過ぎてはおらぬ」

家忠は、静かに、言った。

「条文で殴り、相手を引かせる。それは、葵殿の働きでござる。礼を申す」

葵は、被衣の下で、ぱちぱち、と瞬きをした。


(あれ、怒ってない)


葵は、思っていた。家忠は、葵の暴走を制止したのだから、怒っているか、呆れているか、少なくとも何か言ってくると思っていた。でも、家忠は、礼を言った。

家忠が、続けた。

「なれど──ここから先は、それがしの役目にござる」

葵は、家忠を見た。

家忠は、まだ、板戸の方を見ていた。

「条文で殴って勝つことと、ご縁を保つこと。これは、別の話にござる」

家忠の声は、静かだった。

「葵殿は、条文で勝ってくだされた。ご縁は、それがしが、保つ」

葵は、口をつぐんだ。

(別の、話)

葵の頭の中で、家忠の言葉が、ゆっくりと、巡った。

(条文で勝つこと、ご縁を保つこと、それは、別の話)

葵は、何かを言いかけて、止めた。御方様の「義のみで、家は保てぬ。家を保つのは、縁じゃ」が、家忠の言葉と、重なった。


(でも──)


葵の中で、まだ、納得していない部分が、燻っていた。


(完全に押せたのに)


(押し切れば、もう、借上は、二度と来なかったのに)


(縁、縁って、何)


葵は、その違和感を、被衣の下に、しまい込んだ。


奥の襖が、静かに、開く音がした。御方様が、出てこられたのだ。葵は、慌てて姿勢を正した。

御方様が、家忠の隣に座った。それから、葵を見た。


「葵殿。よう、やってくだされた」


御方様の声は、穏やかだった。

葵は、頭を下げた。

「いえ、わたくしは、ただ──」

「条文で借上を引かせる。これだけのことを、できる者は、当家にはおらなんだ。これは、葵殿でなければ、できぬことであった」

御方様は、頷いた。

「礼を申す」

葵は、何と返していいかわからなかった。被衣の下で、ただ、「ありがとうございます」と、小さく言った。

御方様は、ふっと、息を漏らした。それから、家忠を見た。

「太郎、よう、引き取ってくれた」

「は」

「あの場で、葵殿の二の矢、三の矢まで打たせれば、長九郎は、もう二度と、わが家には来ぬ。借上を一つ、失う。それは、わが家には、痛い」

御方様は、葵に向き直った。

「葵殿、わかってくれるか」

葵は、頭を下げた。

「は、はい」


(わかった、と言うしか、ない)

葵の中の何かが、まだ、納得していなかった。でも、御方様にも、家忠にも、これ以上、何かを言うことは、できなかった。


御方様は、葵の被衣の上から、軽く、手を置いた。

「葵殿。お前様の働き、見事であった。本日のところは、お疲れであろう。奥でお休みなされ」

葵は、頭を下げた。


「……ありがとうございます」



奥の小部屋に戻って、葵は、被衣を外した。頬が、まだ熱かった。

葵は、本を膝に引き寄せた。御成敗式目、追加法。さっき、確かに、効いた。


(私、勝った)

(条文で、借上を、引かせた)

(三成様、私、やりました)


葵は、本を、ぎゅっと抱きしめた。


でも、葵の中で、もう一つの声が、ずっと、囁いていた。

(完全には、勝ってない)

(あと一歩、押せたのに、押さなかった)

(それは、勝ったことに、なるのかな)


葵は、本を抱きしめたまま、板戸の隙間から差す光を、見ていた。光は、もう、少し、傾き始めていた。


(三成様だったら、たぶん、押し切った)


葵は、心の中で呟いた。


(押し切って、勝てなくても、押し切った)


葵の中で、関ヶ原の三成は、まだ、立っていた。義のために立ち上がった三成。打算を超えて戦った三成。司馬遼太郎の三成。


(私は、まだ、三成様の側に、いる)


葵は、自分にそう言い聞かせた。


(縁、なんて、私には、まだわからない)


葵は、本を、抱きしめ直した。


書物という鈍器が、確かに、武器になった。条文で借上を引かせた。

ハードカバーの『中世武家不動産訴訟法の研究』、A5判、分厚い。重い。新版なので史学科の本にしては真新しい。


「こっちもいつか役に立つ日が来るのかな……」


葵は、お世話になったばかりの『中世法制史料集』と一緒に『中世武家不動産訴訟法の研究』を撫でた。


それは、確かに、勝利だった。

ただ、葵が思い描いていた勝利とは、少し、違う形の勝利だった。



(第7話 了)

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