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第6話 条文、探します(受験日本史、ありがとう)


会見の前日、葵は朝から、小部屋に籠もっていた。


膝の上に、『中世法制史料集』。

被衣は外して、髪は侍女に櫛で梳いてもらった一束を、肩に下ろしていた。窓のつっかえ棒は最大限に開けて、光を取り込んだ。それでも、本の細かい活字を読むのは、まだ苦しい。葵は何度も目を擦った。


(条文、もう一回、洗い直す)


葵は、自分にそう言い聞かせた。

さっき組んだ論理は、たぶん通る。御成敗式目第四十八条、御恩地の売買禁止。売券そのものが違法の証拠。借上は表沙汰にできない。これだけでも、たぶん、引き下がらせられる。


(でも、それだけ、で、本当に大丈夫?)


葵は、思った。


相手は、五年も平岡家と取引してきた借上の使いだ。論点をすり替えてくる可能性がある。御方様にもそう言ったし、葵自身、現代の交渉感覚として、そのくらいは見えていた。


(一の矢が躱されたら、二の矢が、要る)


葵は、本を膝の上で開き直した。

御成敗式目五十一箇条のあとに続く、追加法の頁。以前暇つぶしに開いたら「うわ、こんなにあるの」と圧倒されたあの頁。


葵は、覚悟を決めて、頁を繰り始めた。


最初の一刻ほどは、ほぼ、空振りだった。

御家人役のこと、訴訟手続きのこと、守護の権限のこと、地頭の濫妨のこと──関係しそうで関係しない条文が、延々と続いた。葵は、目次を頭の中で組み立てながら、関連しそうな見出しに付箋──ではなく、指の腹で印をつけて、頁を行き来した。

(あーこれ、一人でやるの、しんどい)

葵は、思わず本に向かって愚痴った。大学の演習だったら、TA(ティーチング・アシスタント)に「すいません、この条文と関係するのって、どこにありますか」と聞ける。聞いたら、たいてい、TAは「ここの追加法と、もう一つ、こっちの書状を見比べて」と教えてくれる。

(TA、神だったわ)

葵は、現代の研究環境の有り難みを、しみじみと感じた。

それでも、葵は頁を繰り続けた。


二刻ほどして、葵の指が、ある頁で止まった。


「凡下輩不可買領私領地事」


葵は、その見出しに、目を留めた。


(凡下)


葵の頭の中で、何かが、引っかかった。


(凡下、凡下、凡下……)


(あ)


葵は、息を止めた。


(これ、受験日本史で、出てきたやつ)


葵の頭の中で、高校時代の山川の教科書の頁が、ぱっと開いた。鎌倉中期、御家人の窮乏。「土地を質に入れた御家人の所領が、凡下や借上の手に渡り──」というあの段落。葵は、志望校A判定を取るために、その段落を何度も読んだ。「凡下」と「借上」が並んで出てくる場面。


(うわ、覚えてた。私、覚えてた)


葵は、内心で軽く拳を握った。


(受験日本史、頑張ったの、こんなところで役に立つの?)


葵は、思わず本に向かって笑いそうになった。山川出版社、ありがとう。河合塾の世界史日本史の先生、ありがとう。茨城県立高校の日本史の先生、ありがとう。受験日本史、ありがとう。


(三成様、私、受験日本史で9割取ったの、覚えててください)


葵は、本に向かって念じた。


葵は、条文の本文を、目で追った。

冒頭は、こうあった。


「右、以私領令沽却之事、為定習之由、先度雖被書載──」


葵は、頭の中で読み下した。


(右、私領をもって沽却せしむるの事、定習たるの由、先度書き載せらると雖も──)


葵は、現代語訳した。

(私領を売却することは、慣行となっている。これは前に書いた通り──)


葵は、続けた。


「自今以後者、縦雖為私領、於賣渡凡下之輩并借上等者、任近例可被収公彼所領也」

(自今以後は、縦え私領たりと雖も、凡下の輩、并びに借上等に売り渡すに於いては、近例に任せて彼の所領、公収せらるべきなり)


葵は、現代語訳を、頭の中で組み立てた。

(これからは、私領であっても、凡下の輩、そして借上らに売り渡した場合は、その所領は幕府が没収する)


葵は、頁を、ぎゅっと、握った。


(これ──完全に、効く)


葵の頭の中で、論理が、組み変わった。


以前論理を組んだ第四十八条は、御恩地に限られていた。借上が「これは私領を売却したものだ」と切り返してきたら、躱される可能性があった。

でも、この追加法は、私領にまで及ぶ。借上が「私領だ」と言っても、「私領だからこそ、凡下たる借上が買うこと自体が違法」と切り返せる。しかも罰則は、所領の公収。借上の側が、所領を失うリスクを負う。


(これ、本当に、効くやつ)


葵は、被衣を着けていない自分の頬が、紅潮していくのを感じた。


(三成様、私、見つけました)


ただ、一つ、問題があった。

葵は、条文の冒頭の日付を、見た。


「延応二年六月十一日」


(……延応?)

葵は、固まった。


(え、いつ? 延応って、何?)


葵の頭の中で、年号データベースを、必死に検索した。永仁元年は、いまだ。永仁の前は、正応。その前は、弘安。弘安は、弘安の役があるから、覚えてる。元寇の二度目。1281年。


(弘安より前)


葵は、それは、なんとなく感覚でわかった。

(でも、延応って、いつ?)

葵の頭の中で、空白が広がった。

戦国オタクの葵は、戦国期の年号は完璧だった。永禄、元亀、天正、文禄、慶長──全部、頭に入っている。鎌倉期も、主要なものはわかる。承久、貞永、文永、弘安、正応、永仁。でも、「延応」は、知らなかった。


(これ、いつの追加法なんだろう)


葵は、頁の前後を見比べた。延応二年の追加法は、葵が今いる永仁元年から見て、どのくらい前のものなのか。あまり古すぎると、現在も有効かどうか、わからない。


(頁的に、たぶん、結構昔、かも)


葵は、追加法の頁が、年代順に並んでいることを思い出した。延応の追加法は、頁の比較的、前の方にあった。葵が知っている弘安七年の追加法は、もう少し後の頁にある。


(つまり、延応は、弘安より、前)

(でも、何年前かは、わからない)


葵は、本を膝の上に置いて、頭を抱えた。


(三成様、これ、どうしよう。『中世法制史料集』、年号の解説ついてないんですか)


葵は、本の冒頭の解題に戻った。年表的なものがあったような気もしたが、活字が細かすぎて、暗い小部屋では、判読が難しい。


(誰かに聞くしかない)


葵は、本を抱えて、立ち上がった。


板戸を、葵は控えめに叩いた。

「あの、すみません──」

廊下に控えていた若い侍女が、振り向いた。

「葵様、いかがなさいました」

「あの、平岡殿は、おられますか。お忙しければ、よろしいのですが──」

侍女は、頷いて、家忠を呼びに行った。

しばらくして、家忠が、葵の小部屋の前に来た。以前葵が諱で呼んで以来、家忠は葵に対して、まだ少し硬かった。それでも、葵が呼んだら、来てくれた。

「葵殿、何用にござる」

「あの、平岡殿、ひとつ、お教えいただきたいのですが」

「うむ」

葵は、本を、家忠の前に差し出した。

「この、延応、というのは、何年前のことにございましょうか」

家忠は、葵の差し出した本を、覗き込んだ。

葵は、慌てて補足した。

「いえ、その、私、年号の数え方が、不得手で。延応二年というのが、いつのことか──」

家忠は、葵を一度見て、それから本に視線を戻した。

「延応、か」

家忠は、しばらく考えた。

「……父上の代より、さらに前のこと、と聞いておる。それがしが生まれる、はるかに前」

家忠は、慎重に、言った。

「五十余年は、経っておろう」


(五十年)


葵は、頭の中で、計算した。


(今は永仁元年だから1290年くらいで、五十年前は──だいたいだけど、1247年の宝治合戦あたり……?)


また受験日本史の知識が役に立った。

家忠の言うとおり五十年以上前なら、たぶん宝治合戦より前だろう。執権で言うと、北条泰時の末期か、その次の初期くらいだろうか。


葵の中で、少し、不安が、頭をもたげた。

(五十年も前の追加法、いま、本当に効くの?)


葵は、家忠を見た。

「あの、平岡殿。五十年以上前の御教書って、いま、効くものなのですか」

家忠は、葵を見た。意外な質問、というような顔だった。


「鎌倉殿の御教書は、廃せらるるまでは皆よく聞く。延応の御教書が、その後、廃せられたという話は、聞かぬ」


家忠は、続けた。


「いや、むしろ──近年、似たような御教書が、重ねて出されておる。凡下の御家人領取得を停止すべし、と」


葵は、目を見開いた。


(あ、これだ)


葵の頭の中で、引っかかっていたものが、繋がった。


(弘安七年の御教書も、たぶん、同じ系統だ)


葵は、頁を繰った。記憶している「弘安七年五月廿日(二十日)」のあたり。


あった。


「関東御領事、非御家人輩之仁、或称相伝号請所、或帯沽券質券等、多以領作之由、有其聞──」


葵は、それを、目で追った。冒頭しか読まなくても、わかった。これは、延応二年の追加法と、明らかに同じ問題意識で出されている。非御家人(=凡下)が、御家人領を、沽券などを盾に支配している、という事態を、幕府が警戒している。


(これ、二段構え、いける)


葵の頭の中で、新しい論理が、組み上がった。

延応二年の追加法。これは、私領であっても凡下に売ること自体が違法、罰則は公収。

弘安七年の御教書。これは、まさに、非御家人が沽券を盾に御家人領を支配している事態を、幕府が問題視しているという、いまの動向。


(一の矢、第四十八条。二の矢、延応二年。三の矢、弘安七年)


葵は、本を膝の上で、ぐっと、抱え直した。


(これで、三段、ある)


葵は、家忠を見上げた。

「平岡殿、ありがとうございます。年号、教えていただき、助かりました」

家忠は、しばらく葵を見ていた。それから、低い声で、言った。


「葵殿は、本当に、御法を、よく見ておられる」


家忠の声に、警戒は、まだあった。でも、敵意は、もうなかった。


葵は、頭を下げた。

「いえ、わたくしは、ただ、書いてあるものを、追っているだけにて……」

(嘘です。私、見つけたんです。受験日本史の知識で。山川出版社のおかげで)

葵は内心で、付け加えた。


家忠は、何かを言いかけて、止めた。それから、低く言った。

「明日、ご助力、頼み申す」

家忠は、立ち上がって、廊下を去っていった。


家忠の足音が遠ざかってから、葵は、本を膝に引き寄せた。


(三段、ある)


葵は、自分に確認した。

『御成敗式目』第48条、延応二年追加法、弘安七年御教書。一段目で揺さぶり、二段目で詰める。それでも引かなければ、三段目を出す。


(でも──)


葵は、考えた。


三段目の弘安七年御教書は、ちょっと、強すぎる気がした。これは、「幕府が今まさにこういう事態を調査している」という話だ。借上にとっては、自分自身の事業の根幹を否定される話。これを出されたら、借上は、完全に詰む。


(三段目は、切り札にしておこう)


葵は、決めた。


(二段目で引いてくれたら、三段目は、出さない)


(出さなくて済めば、それが、一番、いい)


葵は、自分でも、ちょっと、驚いた。


(あれ、私、なんで、こんな大人っぽいこと、また考えてるんだろう)


(三成様だったら、たぶん、最初から三段全部、出す)


葵は、被衣を着けていない自分の髪を、指で梳いた。


(まあ、いいや。切り札は、切り札で。出さずに済めば、出さない)


葵は、本を、ぎゅっと、抱きしめた。

『中世法制史料集』。ハードカバー、A5判、分厚い。地震の日、頭に降ってきた、あの本。


(三成様、私、明日、行きます)


葵は、心の中で、念じた。


(義のために、行きます)

(でも、切り札は、たぶん、出さない)


葵は、その矛盾に、自分でも気づいていなかった。



(第6話 了)

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