第5話 売券、読みます(なお、くずし字)
借上の使いが再訪するまで、五日あった。
その間、葵は奥の小部屋に住まわされた。最初の二日は、ひたすら本を読んだ。御成敗式目第48条、第8条、関連する追加法、それから解説部分。全部、頭に叩き込んだ。
(やってやる)
葵は本を抱きしめた。
平岡家は、いま、明らかに困っている。借上に脅されている。家中の苦渋の声を、葵は廊下越しに聞いた。文書の証拠がない、と言われて沈黙した、あの声。あれが、葵の中で何かに火をつけた。
(義は、こっちにある)
葵は思った。借上は、口約束を反故にして、文書を盾に取って、平岡家を脅している。やってることは、要するに、卑怯だ。借金取りの常套手段だ。
(平岡家を、守る)
葵の頭の中で、関ヶ原の前夜の三成の姿が、すっと重なった。司馬遼太郎の『関ヶ原』の、あの三成。「義」のために、勝てないとわかっていても、立ち上がった三成。打算ではなく、理のために動いた三成。
葵は、自分が、その三成と、いまの自分が、重なるような気がしていた。
(私は、義のために、戦う)
(三成様、見ててください)
葵は内心で拳を握った。本を抱える腕に、力がこもった。
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三日目、御方様から「お前様の出で立ちは、人目を引きすぎる」と言われて、衣装替えをすることになった。
(出で立ち、まあ、そうですよね)
葵は自分の格好を見下ろした。グレーのスウェットパーカーに、デニムのワイドパンツ。図書館で勉強するために選んだ、なるべく楽な、なるべく目立たない格好だったはずだ。地震の日のために。
それが今、永仁元年の常陸では、宇宙人レベルで目立っていた。
侍女が運んできたのは、無地の小袖と、薄い色目の袴のようなもの。葵の知る平安貴族の十二単とも、戦国期の小袖とも違う、中間のような何か。色は褪せていて、所々に繕いの跡があった。
「これは、亡き先の御方様のものにございます」
侍女がそう言った。先の御方様、つまり家忠の実母のものらしい。葵は両手で受け取った。死者の衣を譲られるのは、現代の感覚だと少し重い。でも、ここではたぶん普通のことなのだろう。
着付けてもらいながら、葵は内心で唸っていた。下着の概念が違う。ブラジャーがない。着物の下に何を着るのか、よくわからない。とりあえず侍女に言われた通りにする。
「髪は、いかがいたしましょう」
侍女が、葵の後ろに回って言った。葵の髪は、肩より少し下ぐらいで切り揃えてあった。現代の、ごく普通のミディアム。
「あ、これ、結べないですよね」
葵は頭を触った。中世女性の髪型は、長い垂髪のはず。葵の髪では、束ねるのも難しい。
侍女は少し考えてから、「被衣をお召しいただきましょう」と言った。御方様が馬上で被っていたあの布のことだ。屋内では外していたが、来客の前では被ったままでよい、と侍女は説明した。
(あ、被衣で誤魔化すんだ)
葵は妙に感心した。これも一種の生活の知恵だ。
しばらく鏡──いや、鏡なんてない。代わりに、磨いた銅板のようなものを侍女が差し出した。葵は自分の姿を覗き込んだ。ぼんやりと、薄汚れた中世女性らしき影が映っていた。
(うわ、コスプレ感)
葵は内心で呟いた。でも、嫌な感じではなかった。むしろ、ちょっと、覚悟が決まる感じがあった。装束を変えることは、戦支度を整えることだ。
(三成様も、関ヶ原で具足を着けたとき、こんな感じだったのかも)
葵は、ちょっと、酔っていた。
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衣装替えが終わってから、葵は奥の間で御方様と家忠に会った。家忠が、葵をちらりと見て、すぐに目を逸らした。
(あれ、何)
葵は首を傾げた。家忠は、何か言いかけて、口を引き結んだ。
御方様が、横で小さく笑った。
「太郎、見苦しいぞ」
「……母上、それがしは何も」
「葵殿の衣が、亡き母の遺品と気づいたのであろう」
家忠は答えなかった。葵は、その沈黙の意味を、半呼吸遅れて理解した。
(あ……そうか、お母さんの服、なんだ)
葵は、被衣の端を握り直した。何と言っていいかわからなかった。「すみません」も「ありがとうございます」も、たぶん違う気がした。
御方様が、空気を切り替えるように、本題に入った。
「葵殿。借上との会見の前に、売券を一度、確かめておきたい」
御方様の手元に、紙の束があった。墨で書かれた、薄茶色に変色した紙。葵は身を乗り出した。
「これが、五年前の売券じゃ」
御方様が、葵に差し出した。
葵は、被衣を少し持ち上げて、紙を受け取った。和紙の手触り、墨の匂い。葵は大学の演習の癖で、まず文書全体の体裁を眺めた。
──そして、固まった。
(読めない)
葵は、もう一度、目を凝らした。
(え、嘘、本当に読めない)
くずし字。それも、容赦のないくずし字だった。
葵が大学の演習で扱ったのは、主に江戸時代の写本だった。公家の記録とか、商家の証文とか、村方文書とか、ある程度整ったやつ。教科書的な「くずし字練習帳」もそういう例題で組まれていた。中世の文書は、活字化されたものしか読んでいない。
『中世法制史料集』も活字。『吾妻鏡』も活字。
(まずい。中世のくずし、こんなに崩してるの……?)
葵の頭の中で、現代の研究の実情が走馬灯になった。古文書ワークショップ、毎年夏に開かれてる、行きたかったけど予算がなくて行けなかったやつ。あれに行っておけばよかった。あるいは、せめて『くずし字解読辞典』を、図書館で借りた日に、もうちょっと真面目に開いておけばよかった。
(三成の発給文書は活字で全部読んだのに……)
葵は、視線を上げた。御方様と家忠が、葵を見ていた。
葵は、被衣の下で、必死に頭を働かせた。「読めません」と言うのは、まずい。前に「漢文も読めます」と言ったばかりだ。でも、本当に読めない。
「あの……御方様」
「うむ」
「これ、その、わたくし、字の崩しに、慣れておりませんで……活字……いえ、整った字なら読めるのですが」
葵は、消え入りそうな声で言った。
御方様の眉が、わずかに、動いた。
(やばい、絶対変だと思われてる)
葵は被衣の中で内心の悲鳴を抑えた。
御方様は、しばらく葵を見ていたが、追及はしなかった。代わりに、横の家忠に向かって、短く言った。
「太郎、読みなさい」
家忠は、頷いて、売券を葵から受け取った。それから、少し抑揚をつけて、読み上げ始めた。
「沽却 ○○郡□□郷在家壱処田畑──」
葵は、被衣の下で、聞いていた。家忠の声は、低くて、聞き取りやすかった。漢字の音と訓を、慣れた手つきで読み分けていく。
(家忠様……いえ、平岡殿、文書、ちゃんと読めるんだ)
葵は、内心で軽く驚いた。直垂はつぎはぎだらけで、武芸者っぽく見えていたけど、実務もちゃんとできる人だった。中規模御家人の当主、というのは、こういう実務能力が当たり前なんだろう。
家忠の読み上げは、面積、四至(東西南北の境界)を経て、所領の由来──のところに、差し掛かった。
「右件田畑者、亡父より相伝の地、先祖代々、御恩の地として──」
(あ)
葵は、ぴたりと、姿勢を正した。
家忠も、その言葉のところで、少し声を落とした。
「──御恩の地として、伝え来たれり」
部屋が、一瞬、静かになった。
葵は、家忠を見た。家忠は、視線を売券に落としたままだった。
葵の頭の中で、御成敗式目第48条が、勢いよく立ち上がった。御恩地は売っちゃダメ。売っても買っても罰。
(これ、御恩地、って書いてある)
葵は、御方様を見た。御方様は、葵の表情を読んでいた。
「気づいたか」
御方様の声は、低かった。
「これは、御恩地、なんですね」
「左様」
「あの、これって、売っちゃ、いけない、はずですよね」
葵は、慎重に言葉を選んで、聞いた。
「左様」
御方様は、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、なんで……」
葵は言いかけて、口をつぐんだ。聞いてはいけないことを聞きかけた気がした。
御方様は、葵を見て、それから家忠を見た。家忠は、視線を下げていた。膝の上の拳が、固く握られていた。
御方様が、低く言った。
「亡き殿の代、不作と凶事が重なってな。米が尽きた。御家人役の費用も用意できぬ。そこで、便宜のために、形式上、借上に売り渡したことにした。証文だけ作って、実際の支配は平岡が続ける──そういう約定じゃ」
(あ、それで「先代の代より了解してきた」って、廊下越しに家中の人が言ってたんだ)
葵は、ようやく状況が繋がった。
平岡家にも、後ろめたいところはあった。御恩地を売ってはいけないとわかっていて、それでも、家を保つために、売券を作った。違法を承知で。
それでも、と葵は内心で思った。
(借上の方が、悪い)
葵は、心の中で線を引いた。平岡家は、追い詰められて、やむを得ず、形式上の証文を作った。借上は、その証文を悪用して、現地支配権まで取りに来ている。最初の取引の趣旨を、逸脱している。
(これ、絶対、許せない)
(義は、こっちにある)
葵の中で、関ヶ原の三成が、また、立ち上がった。義のために、立ち上がった三成。打算を超えたところで戦った三成。
(平岡家を、守る)
葵は、被衣の下で、深く息を吸った。それから、できるだけ落ち着いた声で、口を開いた。
「御方様」
「うむ」
「条文上、こちらの主張は通ります」
葵は、内心の高揚を、声からは抑えた。
「借上の使いは、売券の文言を根拠に、現地支配権を主張してきました。ですが、この売券そのものが、御成敗式目第48条に抵触します。借上がこれを表に出せば、借上自身が罰される。借上は、この売券を、公的な場には持ち出せません」
葵は、息を継いだ。
「ですから、借上の使いに対しては、こう言えばよいかと存じます。『売券の文言を、よくお改めくだされ。そなたが今、主張しておられることは、文言には書かれておらぬ。なお現地支配権を申されるならば、この売券を、しかるべき場に持ち出して、判じてもらおうではないか』──と」
葵は、自分の声が、思ったより冷静に響いているのに、自分で驚いた。被衣の下で、頬は紅潮していたのに。
「借上は、しかるべき場には、絶対に持ち出せません。引き下がるしか、ないかと」
葵は、言い切った。
(本当は、もっと押せる)
(借上が違法を承知で取引していたこと、これを逆に表沙汰にすると脅すこともできる)
(完全に、屈服させられる)
(義は、平岡家にある)
葵の内心は、そう叫んでいた。でも、口には出さなかった。よそ者の客人の分際で、当家の方針にまで踏み込むのは、出過ぎだ、というぐらいの分別は、葵にもあった。
(まずは、引き下がらせるところまでだ。御方様の判断を、まず仰がないと)
葵は、被衣の下で、慎重に、自分にそう言い聞かせた。
部屋が、静かになった。
御方様は、しばらく葵を見ていた。
それから、ゆっくりと、息を吐いた。
「葵殿」
「は、はい」
「お前様の申すこと、筋は通っておる」
御方様の声は、穏やかだった。
「借上を、引き下がらせる。それでよろしい」
葵は、頭を下げた。
「ありがとうございます」
御方様は、続けた。
「ただし、葵殿。一つ、心得ておいてほしい」
「はい」
「借上を、追い詰めすぎてはならぬ」
葵の頭が、わずかに、止まった。
(え)
「縁を、切らぬが、肝要じゃ」
御方様は、葵の顔を、まっすぐ見ていた。
「借上は、五年もの間、わが家と取引してきた。今後も、米の不作や、御家人役の費用に困った折、頼ることになるかもしれぬ。あるいは──別の借上が、同じように、わが家を狙うかもしれぬ。そのとき、最初の借上を完全に潰してしまえば、平岡は、孤立する」
葵は、口をつぐんだ。
御方様は、静かに、言った。
「義のみで、家は保てぬ。家を保つのは、縁じゃ」
葵は、何かを言いかけて、止めた。
(縁、って、なんですか)
葵の頭の中で、何かが、ぐらりと揺れた。
(完全に義が通る場面で、なんで、緩めるの)
(三成様だったら、たぶん、押し切った)
(押し切って、勝てなくても、押し切った)
葵は、その違和感を、被衣の下に、しまい込んだ。御方様の言葉には、葵にはまだ届かない、何かがあった。経験の重さ、というやつかもしれない。
葵は、頭を下げた。
「……承知いたしました。借上を、引き下がらせる、ところまで、にいたします」
御方様は、頷いた。
「よろしい」
家忠が、ここで、低い声で言った。
「……母上、それがし、ひとつ問うてもよろしいか」
「申してみよ」
家忠は、葵を見た。
「葵殿は、なぜ、それほど鎌倉殿の御法に詳しい」
葵は、ぴたりと固まった。
(あ、来た、これ)
葵は、必死に頭を回転させた。「未来から来ました」は、まだ言えない。「現代の大学で習いました」も、当然言えない。
葵は、咄嗟に、こう答えた。
「ええと、その……家の伝で、御法を学んでおりました。父も、祖父も、御法に詳しゅうて……」
(嘘、いま、思い切りついた)
葵は内心で謝った。お父さん、お母さん、ごめんなさい。お父さん、たしか製薬メーカーの営業職だった。御成敗式目とは縁もゆかりもない。
家忠は、葵をじっと見ていた。納得していない目だった。
御方様が、横から穏やかに言った。
「太郎、素性のことは、後でよかろう。今は、借上のことが先じゃ」
「……承知いたしました」
家忠は、視線を下げた。葵は、内心で御方様に手を合わせた。御方様、ありがとうございます。
御方様は、葵に向き直った。
「葵殿、太郎と二人で、借上の使いに会うてもらう。わたくしは、奥に控えておる」
「え、御方様は、ご同席されないんですか」
「後家の出る場ではない。これは、当主と、その客人の話じゃ」
御方様は、葵を「客人」と呼んだ。葵は、その言葉を反芻した。客人。素性不明の、よそ者の、衣の異様な娘が、いま、平岡家の「客人」として、借上の使いに会う。
(うわ、責任重大)
葵は、被衣の下で、深く息を吸った。
家忠が、少し躊躇ってから、葵に向かって、短く一礼した。
「……平岡太郎にござる。葵殿、よしなに頼み申す」
葵は、慌てて頭を下げ返した。
「葵にございます。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
家忠の顔は、まだ硬かった。警戒は解けていない。それでも、以前会ったときに脇差に手を伸ばしかけた人とは、もう違う目だった。
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部屋を出て、奥の小部屋に戻る廊下を歩きながら、葵は、ずっと、御方様の言葉を反芻していた。
「義のみで、家は保てぬ。家を保つのは、縁じゃ」
葵は、納得していなかった。
(義がなければ、何のために戦うんですか)
(縁、縁って、それって、結局、損得勘定じゃないですか)
(三成様は、損得を超えたところで、立ち上がった人なのに)
葵の頭の中で、関ヶ原の三成が、まだ、立っていた。義のために、勝てないとわかっていても、立ち上がった三成。
(私は、義のために、戦う)
葵は、自分にそう言い聞かせた。
(借上は、引き下がらせるところまで、と御方様は言った。でも──)
(押せるところまでは、押す)
(完全な決着、つかなくても、義は、貫く)
葵は、被衣の下で、ぎゅっと拳を握った。
腕の中に、本はなかった。被衣の重さがあった。中世の女物の衣の重さ。亡き先の御方様の遺品の重さ。
それが、いまの葵の、装備だった。
(借上の使いとの会見、明後日)
葵は、廊下の薄暗い天井を見上げた。
(私、本当に、やるんだ)
(義のために)
(三成様、見ててください)
(第5話 了)




