第4話 諱(いみな)、それはNGワード
葵は本を抱えたまま、侍女に従って廊下を歩いた。
板敷の廊下は、ところどころ軋む。屋敷の作りは葵の想像よりずっと簡素で、廊下の幅も狭く、天井も低い。お屋敷というより、ちょっと大きな農家、という感じだった。
(やっぱり、ボロい)
葵は内心で繰り返した。御家人ってもっと立派な暮らしをしてると思ってた。鉢の木の世界、リアルだった。
侍女が、奥の間の前で立ち止まった。
「御方様、葵殿をお連れいたしました」
板戸の向こうから、低い声で「入れ」と返事があった。
侍女が板戸を開けた。葵はおずおずと一礼してから、中に入った。
奥の間も、葵の想像する「奥座敷」とは違った。板間で畳はない。茣蓙が敷かれた一段高い場所に、御方様──羽鳥の北の方が座っていた。被衣は外しており、髪を後ろで束ねていた。馬上で見たときよりも、年齢がはっきりわかる気がした。三十代半ば、目元に少し疲れの色がある。
そして、御方様の隣に──
葵は、思わず動きを止めた。
(誰、この人)
若い男が、御方様の少し後ろに、片膝を立てて座っていた。直垂を着て、烏帽子を被り、腰に脇差を差している。歳の頃は、葵と同じくらい、あるいはもう少し若く見える。二十歳前後だろうか。
葵は、その男を一瞬、観察した。そして、内心で首を傾げた。
(あれ……?)
葵の想像する「鎌倉武士」とは、何かが違った。
男衾三郎絵巻。日本史の授業で習った、有名な絵巻物。葵は記憶を辿った。東国の武士・男衾三郎が、狩猟と武芸に明け暮れて、通行人の首を屋敷に飾って、京風の優美な兄(吉見二郎)とは対照的に描かれていた、あのやつ。教科書に図版が載っていた。鎌倉武士=野蛮で荒々しい、ワイルドな存在、というイメージは、あの絵巻から葵の頭に刷り込まれていた。
でも、目の前の若い男は──
地味だった。
直垂は無地で、色も褪せていて、袖口がほつれている。つぎはぎさえある。腰の脇差は飾り気がなく、鞘の塗りも剥げている。狩猟の獲物を屋敷に飾ってるとかもない。そもそも、飾るものがなにもない。
表情は、抑えていて読めない。眉は薄く、目元はやや疲れていて、口は引き結ばれている。荒々しさは、どこにもない。
(え、これが鎌倉武士? 男衾三郎は誇張だったの?)
(それとも、男衾三郎みたいなのは一部の有力武士だけで、こういう中小御家人は普通にこんな感じだったの?)
葵の脳内で、教科書のイメージが、現実によって書き換えられていく。史料って、すべてが平均的な現実を映してるわけじゃないんだ。目立つもの、特殊なものが、絵巻になりやすい。
(やばい、史学科の授業より、現場の方が学びがある)
葵がそんなことを内心でぐるぐる考えていると、御方様が口を開いた。
「葵殿、こちらに」
葵は慌てて、御方様の前に進み出て座った。正座でいいのか、胡坐でいいのか、咄嗟に判断つかなくて、とりあえず正座した。膝が痛い。
「この者は、わが継子、平岡太郎にござる」
御方様が、隣の若い男を紹介した。
(あ、平岡太郎、って、さっき侍女さんが言ってた家忠だ)
葵は記憶を引き出した。平岡太郎家忠。この家の主。
葵は若い武士──平岡太郎──に、深く頭を下げた。
「家忠様、葵と申します。よろしくお願いいたします」
部屋が、しんとなった。
葵は、頭を下げたまま、しばらく待った。何の返事もない。
(あれ?)
葵は顔を上げた。
御方様の眉が、ゆっくりと上がっていた。背後に控えていた侍女の手が、止まっていた。そして平岡太郎──家忠──の顔が、見る見る朱に染まっていく。
「……お前」
家忠の声は、低かった。怒りを抑えた声。
「俺の諱を、なぜ知っている」
葵は、何のことかわからなかった。
「え? あの、いま、御方様が……」
「母上が、それがしの名乗りとして仰せられたのは、お前が名を申し述べた礼に応じてのことじゃ。だからといって、お前がそれがしの諱を口にしてよいわけではない」
家忠の手が、無意識に脇差の柄に伸びかけた。御方様が即座に「太郎、控えなさい」と制した。
葵は、本気で混乱していた。
「え、だって、お名前って、呼ぶためのものですよね……?」
葵の素直な疑問が、部屋の空気をさらに凍らせた。家忠の頬が、さらに紅潮する。
御方様が、深く息をついた。それから、葵に向かって、ゆっくりと言った。
「葵殿。武家の諱というは、親や主君が、または己が自らの忌み名として用いるもの。他者が、軽々しく口にしてよいものではないのじゃ」
「忌み名……?」
葵はおうむ返しに繰り返した。
御方様は頷いた。
「真の名は、霊と通ずると言われておる。みだりに呼べば、災いを招くと。それゆえに、人を呼ぶ折は、通称を用いるのじゃ。太郎、次郎、新左衛門、左近、というように」
葵は、頭の中で、何かが繋がる音を聞いた。
(あ……)
(あ、これ、『吾妻鏡』だ)
葵の頭の中で、一年間苦しんだ吾妻鏡の演習が、いま、急に意味を持って蘇った。
「○月△日、□□、政所執事に補せらる」みたいな記述で、□□が誰なのか、特定するのに死ぬほど苦労した。なぜなら、史料には通称しか書かれていないことが多かった。「相模守」「武蔵守」「左衛門尉」「太郎」「次郎」──こんな呼称ばかりで、諱が出てこない。葵は人名索引と尊卑分脈とジャパンナレッジの全文検索を使い倒して、ようやく「あ、これは○○家の□□さんね」と特定する作業を、毎週やっていた。
(そういえば『吾妻鏡』でも、人名の特定、大変だったわ)
(あれ、そういうことだったのか。諱で呼ばないのが当たり前だから、史料にも通称で書かれてる)
(私、逆だった。「諱を書かないなんて不便」って、現代人の発想で読んでた)
(大部分を人名比定してくれてた『現代語訳 吾妻鏡』は、やっぱり神だったわ……)
葵の頭の中で、現代の苦労と中世の常識が、ようやく繋がった。
葵は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。わたくし、無作法でございました。家忠様、いえ、平岡殿……あ、太郎殿?」
葵は混乱して、呼び方を三回ぐらい言い換えた。家忠の顔は、まだ赤い。怒りより、もう恥ずかしさに近い表情だった。
御方様が、初めて小さく笑った。
「葵殿、平岡殿、あるいは太郎、でよろしい。殿、じゃ。様ではない。様は、将軍家や守護家にお使い申す敬称じゃ」
「は、はい……平岡殿、と呼ばせていただきます」
葵は、頭を下げ続けた。
家忠は、しばらく沈黙してから、低く言った。
「……母上、なぜこの娘を奥に通された」
御方様は、家忠を見て、穏やかに答えた。
「この娘の素性、まだ確たることはわからぬ。なれど、ただの娘ではない」
葵は顔を上げた。御方様が、葵を見ていた。
「葵殿、お前様、書物を読めるか」
「は、はい」
「漢文も、読めるか」
「はい、『吾妻鏡』の演習を一年やりましたので……あ、いや、ええと、読むのは多少」
葵は反射的に答えてから、「演習」が中世で通じないことに気づいて、慌てて言い換えた。演習はやばい、たぶん通じない。
御方様は、葵の言い直しに気づいた様子だったが、追及しなかった。代わりに、こう続けた。
「お前様が抱えておる書物、見せていただけるか」
葵は、本を御方様の前に差し出した。
御方様は、『中世法制史料集』の方を手に取った。表紙を眺め、頁を開く。漢文と漢字仮名交じり文の入り混じった本を、ゆっくりと、確かめるように読んでいく。
しばらく沈黙が続いた。
御方様の表情が、わずかに、変わっ。
「……これは」
御方様は顔を上げて、葵を見た。
「御成敗式目じゃ。……それも、追加法まで、揃うておる」
「は、はい。御成敗式目と、追加法と、評定文と……ええと、たぶん全部です」
葵の口から、例の「たぶん」が出た。
御方様の手が、止まった。
「たぶん、とは」
「いえ、その、多分は保険でして……ええと、たぶん全部です、ほぼ確実に」
葵は、必死に弁解した。家忠が、横で眉をひそめている。
御方様は、しばらく葵を見つめてから、もう一度、本に視線を戻した。
「鎌倉殿の法令が、ここに、ほぼ全て……神宮様でも不可能であろうに」
御方様は、一人で呟くように言った。
そして、葵に向き直った。
「葵殿」
「は、はい」
「先ほどの、借上の使いの話、お前様、聞いておったか」
葵は、心臓が跳ねた。やっぱりバレてた。
「あの、その、聞こうと思って聞いたわけでは……その、廊下越しに……」
「よい」御方様は遮った。「聞いておったのなら、ちょうどよい。お前様、その法令の中に、我らの助けになるものは、あるか」
葵は、息を呑んだ。
問われている。いま、まさに、問われている。
葵は、本を御方様の前に置き直した。それから、深呼吸して、答えた。
「……あります」
「まことか」
「はい。御成敗式目、第四十八条。所領を売買する事。それから、第八条、当知行の年紀の事。さらに、追加法に、凡下……たぶん御家人じゃない人ですよね。そういう輩との取引を規制するものが、いくつか」
葵は、頭の中で整理した論点を、できるだけ落ち着いて、口にした。
「借上の使いが現地支配権を主張してきているようですが、売券の文言を改めて確認すれば、その主張は、条文と矛盾します。さらに、当知行の年紀から見ても、平岡家のお立場は有利です」
御方様の眉が、わずかに上がった。
家忠が、初めて葵をまともに見た。
葵は、勢いで、続けた。
「つまり、鎌倉殿の法令は、この本で全部網羅してます。……たぶん。まだ全部読んでないですけど」
部屋が、また、しんとなった。
御方様は、しばらく葵を見つめてから、ふっと、息を漏らした。笑いだった。
「多分、か」
「はい、多分です」
「葵殿、お前様、面白いお方じゃのう」
御方様は本当に笑った。馬上で見たときの厳しい顔が、柔らかく崩れた。葵は、初めて御方様の笑顔を見た気がした。
家忠は、まだ眉をひそめていたが、先ほどまでの怒気は消えていた。代わりに、警戒と興味の混じった目で葵を見ていた。
御方様は、葵の二冊の本を、自分の傍に引き寄せた。
「葵殿。お前様の素性は、まだ問わぬ。なれど、これだけは聞いておきたい」
「は、はい」
「お前様、この家の力になる気は、あるか」
葵の心臓が、また跳ねた。
頭の中で、いろいろなものがぐるぐる回った。現代の家、弟、石田三成、司馬遼太郎、筑波山、御成敗式目、男衾三郎絵巻、鉢の木伝説、借上、徳政令──。
葵は、深く頭を下げた。
「……できる限りのことを、いたします」
御方様は、ゆっくりと頷いた。
「よろしい」
そして、家忠の方を向いて、言った。
「太郎、聞いた通りじゃ。借上との次の会見、葵殿に同席いただこう」
家忠は、短く、何かを言いかけて、止めた。それから、深く一礼した。
「……承知いたしました、母上」
葵は、本を抱え直して、自分の心臓の音を聞いていた。
(私、いま、何か、引き受けた)
(借上、やるってこと?)
(まじで?)
葵の腕の中で、『中世武家不動産訴訟法の研究 新版』と『中世法制史料集』が、ずしりと重かった。
鈍器が、いま、本当に、武器になろうとしていた。
(第4話 了)




