第3話 御成敗式目、読みます(暇なので)
『中世武家不動産訴訟法の研究』『中世法制史料集』。
葵は窓をつっかえ棒で少し開けただけの薄暗い板間の中で本を読んでいた。というか、暇すぎてそれくらいしかやることがなかった。
そうか、この時代には畳も障子も襖もないんだ……こんな暗い中で生活してたのか。窓から差し込むわずかな光に葵は本をかざした。光源が窓の隙間しかない家の中の光量では葵が持つ本の小さな活字の文字を読むのは苦難の技だった。
幸い『吾妻鏡』の演習を完走していたから和風漢文はなんとか読めた。ただ、辞書がないのが心許なかった。
へぇ、鎌倉幕府ってこんなにたくさん法令を出してたのねえ。仕事してるじゃん。
御成敗式目五十一箇条。これは大学一年の通史で習った。北条泰時、貞永元年(1232年)、武家初の成文法。式目があって、葵はちょっと安心した。知ってる法令だ。
問題はその後だった。追加法、と呼ばれる、式目の後に積み重ねられた法令群。これが、想像以上に多い。
「うわ、こんなにあるの」
葵は思わず声を出した。式目五十一箇条の後に、何百もの追加法が続いている。年代順に並んでいるが、寛元、宝治、建長、康元、正嘉、正元、文応、弘長、文永、建治、弘安、正応──年号を追っていくだけで、葵の知らない年号がいくつもある。
「これ、全部覚えなきゃいけないやつ、御家人……?」
葵は無理だ、と思った。法学部の学生でも無理じゃない、これ。
でも、と、葵はもう一度本を見た。
私には、ここに、全部書いてある。
葵はぱらぱらと頁をめくった。条文の見出しが目に飛び込んでくる。所領安堵、譲与、悔返、年紀、和与、押領、悪党、守護、地頭、御家人役──
(なんかわかんないけど、めちゃくちゃ揉めてる感じはする)
葵は本を読みながら、ぼんやり思った。法令って、揉め事が起きないと作られないんだよな。これだけ法令があるってことは、これだけ揉めてたってこと。
そんなことを考えていると、廊下の方から、男の声が聞こえてきた。
「──ですから、それがしは、何度も申しております。先代の代より、この所領は平岡が知行し、年貢も平岡が収めてきたのでございます」
葵は思わず本から顔を上げた。
別の男の声が応じる。こちらは葵が聞いたことのない声。落ち着いた、しかしどこか抑え込んだような声だった。
「承知しております。なれど、売券の文言を改めてご覧くだされ。これによれば、所領の支配は、御家人より我らに移されている、と読み取れますな」
「そのような読み方は──」
「ですので、これより以後は、年貢の半分を我らへ直接、納めていただきたく」
葵は息を呑んだ。
(あ、これ、借上……ってか借金取りの使いだ)
葵は本を抱えて、板戸の方に少しにじり寄った。盗み聞きをするつもりはない。ないけど、状況がわからないと不安だ。情報収集である。断じて盗み聞きではない。
家中の声が続く。先ほどの男──おそらく平岡家側──の声。
「売券に記されたるは、所領の知行を移すという意ではない。あれは、利銭の便宜のための形式上のものに過ぎぬ。先代の代より、双方そのように了解してきた──」
「先代様のご了解は、文書に残っておりますか」
「……」
家中が沈黙した。葵にも、状況の深刻さが伝わってきた。
(文書に残ってない、んだ……)
口約束で済ませてきたことが、いま、文書を盾に取られている。証拠がない、というのは、現代でも中世でも、訴訟では致命的だ。
葵は本に視線を戻した。御成敗式目第48条。所領を売買する事。
葵はもう一度、その条文を読み直した。
「右、相伝の私領は、要用の時、沽却せしむるは定法なり。而るに或は勲功を募り、或は勤労に依り、別の御恩に依るの輩、恣に売買の条、所行の旨、其の科無きにあらざる。自今以後慥かに停止せらるべし。若し制符に背き、沽却せしむれば、売人といい、買人といい、共に以て罪科に処すべし。」
葵は頭の中で整理した。
私領は売っていい(売却が現実に行われていることを式目も認めている)。御恩地は売っちゃダメ(売却そのものが無効で、売っても買っても罰則あり)。
(売っても買っても罰、ってことは……借上の側にもリスクがあるってこと?)
葵は思わず姿勢を正した。条文が、想像以上に強い。
そして葵は、もう一つの条文を思い出した。式目第8条。
「右、当知行の後、廿ヶ年を過ぎらば、大将家の例に任せて、理非を論ぜず改替に能はず。」
20年知行すれば、もとの権利関係を問わず、知行が確定する。
葵の頭の中で、論点が整理され始めた。
(売却したのは何年前って言ってたっけ。最近っぽい話だったよね。20年は経ってない)
(現地支配は平岡家がやってる。つまり当知行は平岡家)
(借上が「これからは年貢を半分よこせ」って言ってるのは、現地支配権の主張)
(でも、売券にどこまで書いてあるかで、話が変わる)
葵は本を抱きしめながら、視線を宙に泳がせた。
(売券に「現地支配権も借上に移る」って書いてあったら、借上の主張は通る。書いてなかったら、売却したのは年貢収取権の一部だけで、現地支配は平岡家に残ってる、って解釈できる)
(口約束で済ませてきた、ってことは、売券にはたぶん、最小限のことしか書かれてない)
(つまり、売券の文言に書かれていないことは、借上の権利として認められない、はず)
(さらに──)
葵は式目第48条をもう一度頭の中で反芻した。
(もし、この所領が御恩地だったら、売却そのものが違法で、借上にも罰則がかかる)
(平岡家の所領、相伝の私領なのか、御恩地なのか。売券にはどう書いてあるんだろう)
(私領なら売却は合法。御恩地なら、借上の側も身を危うくする取引をしている)
(どっちにしても、借上に圧をかける材料はある)
葵は息を吐いた。
(あれ、これ、いけるんじゃ……?)
(売券の現物を確認して、借上が現地支配権を主張する根拠が書かれていないことを示せれば、借上の今回の主張は通らない)
(さらに、平岡家が20年未満の当知行者であることを主張すれば、年紀法の射程外で、もとの権利関係に基づいた議論ができる)
(つまり、条文と売券の文言だけで、借上の主張を弾ける)
葵の心臓が、少し速く打ち始めた。
(私、これ、解ける問題かも)
葵は本を抱きしめた。ハードカバーの新版、A5判、分厚い。重い。でも、いま、この重さが頼もしい。
廊下の方から、家中の苦渋に満ちた声が、また聞こえてきた。
「ご検討くだされ。次の月の朔日までに、ご返答を」
借上の使いが、帰っていく気配がした。
(あ、お引き取りになる)
家中──平岡家側の人物──が、深いため息をついた。それから、誰かを呼ぶ声。
「御方様に、お伝えを」
葵は身を縮めた。今、この瞬間に、私が口出しするのは、まずい。よそ者で、素性不明で、衣の異様な娘が、家中の重大事に首を突っ込んだら、普通に追い出される。
こんな異世界(?)でこの家からも追い出されたら、もうどうしていいかわからない。
葵は静かに本を閉じて、元の場所に座り直した。何も聞いていない顔を作る。
しばらくして、廊下の足音が近づいてきた。侍女の足音だ。先ほどの、年配の侍女。葵を最初に部屋に通した人。
板戸が開いた。
「葵殿」
葵は顔を上げた。侍女の表情は、穏やかだが、油断していない。
「御方様がお呼びにございます」
葵は本を抱えたまま、立ち上がった。
(え、何の用? まさか追い出される? それとも、素性を改めて問われる?)
葵の心臓が、また別の速さで打ち始めた。
「こちらへ」
侍女に従って、葵は奥の間へと向かった。廊下を歩きながら、葵は本を抱える腕に、思わず力を込めた。
(第3話 了)




