第2話 御家人の家、ボロすぎ問題
本は架空の万能本なので何でも載ってます。
葵は答えられなかった。
何を答えればいいのか、わからなかった。
「私は……私は……」
喉が渇いていた。頭が痛い。背中の地面が冷たい。現実感がない。
数人の武士の中で、先頭の中年武士が苛立たしげに刀の柄に手をかけた。葵は思わず身を縮めた。
そのとき、武士たちの背後から、女の声がした。
「何事じゃ」
武士たちが一斉に振り向く。葵も顔を上げた。
馬の上に、女性が一人いた。
葵の感覚で言えば、三十代半ばくらい。袿を重ねた略装、頭は白い被衣で覆い、馬上から葵を見下ろしていた。目力の強い顔。
(あ、これ、絶対偉い人だ)
葵は反射的に背筋を伸ばした。先頭の武士が女性に向かって頭を下げた。
「御方様。この娘、地震の後にこの草地に倒れておりまして。素性が知れませぬ」
御方様、と呼ばれた女性は、葵をしげしげと観察した。
「……変わった衣じゃの」
葵は自分の格好を見下ろした。ジーンズとパーカー、スニーカー。図書館に行くだけの普段着。確かに、この場では完全に不審者だ。
「お前様、いずこから参られた」
女性の声は穏やかだが、目は油断していなかった。葵は必死に頭を働かせた。
(え、なんて答えれば。茨城県つくば市、って言っても通じない。霞ヶ浦大学、も多分ダメ。京? 鎌倉? 私、どこから来たことにすればいい?)
混乱の極みで、葵の口から出たのは予想外の言葉だった。
「常陸の……国府の方から……参りました」
(常陸国府? いつの? っていうかどこ? 石岡? あれは奈良時代の話じゃなかったっけ? いや待って、中世も国府ってあったよね、確か……)
葵の脳内で、史学科一年で習った日本史概説と、地元の歴史展示で見た断片的な情報がぐるぐる回る。完全にデタラメな答えだったが、女性は意外にも納得したような顔をした。
「国府の者か。地震で道を失うたか」
「は、はい、たぶん、そんな感じです……」
「『たぶん』とは何じゃ。妙な物言いをする娘じゃのう」
女性は馬上で首を傾げた。葵は冷や汗をかいた。「たぶん」が中世で通じないことに、いま気づいた。
中年武士が口を挟んだ。
「御方様、この者は怪しゅうございます。打ち捨てるが──」
「待て」
女性は片手を挙げて武士を制した。葵が抱えている二冊の本に、視線が止まっている。
「その書物は、何じゃ」
葵は反射的に本を抱え直した。『中世武家不動産訴訟法の研究 新版』と『中世法制史料集』。中世の人にこの背表紙を見せたら、どう映るんだろう。
女性は馬から降りた。意外に身軽だった。被衣を直しながら葵に近づき、本を覗き込む。
「……読めぬ字が混じっておるが、漢字も見えるな。『中世』とは、何のことか」
(うわっ、本の名前に「中世」って書いてあるの、ヤバ。中世って言葉、中世の人は使わないよね?)
葵は必死に取り繕った。
「これは、その、法の書です。裁判の手引きみたいな」
「裁判の手引き」
女性の眉が、わずかに上がった。
「お前様、これが読めるのか」
「は、はい、たぶん……いえ、読めます」
女性はしばらく葵を見つめた。表情を読ませない、深い視線だった。やがて、ゆっくりと言った。
「連れて参れ」
中年武士が驚いた顔をした。「御方様、しかしこの者は素性が──」
「素性は知れぬ。じゃが、書物を抱えて倒れておった娘を、地震の中で見捨てるは仏罰が当たろう。屋敷で休ませて、改めて素性を問えばよい」
(あ、助かった……かも)
葵はホッとしたが、同時に「屋敷で改めて問い詰められる」という恐怖も湧いてきた。取り調べだ、これ。
「立てるか」と女性が葵に手を差し伸べた。葵は本を抱えたまま、よろよろと立ち上がった。立ち眩みがして、ふらつく。
「馬に乗せてやれ」
武士の一人が困った顔をした。「御方様、しかし替えの馬は……」
「私の馬じゃ。前に乗せる」
女性──御方様は、自分の馬に葵を乗せ、自分も後ろに乗った。葵は馬の鞍の前に、本を抱えたまま座らせられた。
(え、これ、距離近い。っていうか馬って初めて乗った)
馬が動き出すと、葵は思わず鞍にしがみついた。御方様の腕が後ろから葵の腰を支えた。しっかりとした、力のある腕。
「振り落とされぬよう、しがみつくがよい」
「は、はい……」
葵は本を片手で抱えながら、もう片方の手で必死に鞍を掴んだ。
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馬上から見える風景は、葵の知るつくば市とは、まるで別世界だった。
学園都市の白い建物群がない。広い直線道路がない。研究所の塀がない。
代わりに広がっているのは、湿地と、低い茅葺きの集落と、馬と人が通る細い道。
道沿いに、いくつか倒壊した家が見えた。永仁の地震、ここまで揺れたんだ、と葵は思った。村人らしき人々が、瓦礫の片付けをしている。子供を抱いた女性が、呆然と座り込んでいる。
(これ、本当に過去なんだ)
葵は実感した。ここは博物館の再現コーナーじゃない。現に、人が死んでいる。現に、家が壊れている。
そして、視線を上げると──
筑波山。
男体山と女体山の双耳峰。葵が知っているのと、寸分違わぬ形。
葵の喉が、勝手に詰まった。
(筑波山だけが、私の知ってる筑波山だ)
涙が出そうになったが、葵は堪えた。ここで泣くわけにはいかない。
御方様は、葵の様子に気づいたのか、静かに言った。
「筑波の山を見ておるのか」
「……はい」
「常陸の者なら、見慣れた山であろう」
(常陸の者、ってさっきの嘘を信じてくれてる)
葵は曖昧に頷いた。御方様はそれ以上問わなかった。
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馬は山麓の小道を進み、やがて一つの集落に入った。御方様が手綱を引いた先に、一軒の屋敷が見えた。
葵は屋敷を見て、絶句した。
(……え、ここ?)
茅葺きの寄棟造り。屋根の端が、少し欠けている。地震の被害だろうか、あるいは元からだろうか。塀は板塀で、ところどころ朽ちている。門は簡素な木戸で、門番もいない。庭らしき空間には、鶏が放し飼いになっていた。
(え、御家人の家ってこんなにボロいの……?)
葵は思わず内心で叫んだ。教科書や大河ドラマで見た武家屋敷とは似ても似つかない。鎌倉武士=武威ある誇り高き武門という葵のイメージが、ガラガラと崩れていく。
そのとき、葵の脳裏にある記憶がよぎった。
(あ、鉢の木)
日本史の授業で習った、北条時頼の廻国伝説。雪の夜、時頼が貧しい御家人・佐野源左衛門の家に泊まる。薪がなく、源左衛門は大切にしていた梅・松・桜の鉢植えを燃やしてもてなす。後に時頼が源左衛門を取り立てる──という話。
葵はずっと、あれをフィクションだと思っていた。教科書にも「謡曲の題材」として載っていた気がする。
(あれ、リアルだったんだ)
葵は思わず庭を見回した。鉢植えの木が、ないか。
ない。そもそも鉢植えを置く余裕もないらしい。
(マジで、鉢の木すら、ない)
葵が呆然としていると、屋敷の中から、年配の女性が小走りに出てきた。
「御方様、お戻りでございますか。それが、その、また──」
「あとで聞く」と御方様は遮った。「先にこの娘を奥に通せ。湯と着替えを」
「は、はい。ですが、御方様、平岡殿が──」
御方様の眉がわずかに動いた。葵は察した。平岡殿、というのは多分この家の人だ。そして、何かトラブルが起きている。
「平岡殿は何と申しておる」
「先ほど、また借上の使いが見えまして……平岡殿は今、対応されておりますが、ご様子が……」
御方様は短く息をついた。葵を馬から下ろしながら、年配の女性に短く指示した。
「奥に通せ。この娘の素性を問うのは、後でよい。まずは平岡殿のところへ参る」
「かしこまりました」
葵は、年配の女性──おそらく古参の侍女──に連れられて、屋敷の奥に通された。御方様は逆方向、屋敷の表の間の方へ向かった。
葵が侍女に連れて行かれる途中、表の間の方から、男の声が聞こえてきた。若い、張りのある、しかしどこか抑えた怒気を含んだ声。
「──ですから、それがしは申しております。先代の代より、この所領は……」
葵は反射的に立ち止まった。所領、という言葉が、頭の上に降ってきた二冊の本と、繋がった気がした。
「葵殿と申されたか」侍女が振り返って言った。「こちらへ」
葵は本を抱え直して、侍女について行った。
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通されたのは、屋敷の奥の小さな部屋だった。板間で、畳はなく、隅に茣蓙が敷いてあるだけ。窓は格子のない小さなもの。質素を通り越して、貧しい。
侍女が葵に湯と着替えを用意しながら、ぽつりと言った。
「葵殿、しばしお休みなされ。御方様が戻られるまで、こちらでお過ごしを」
「あの、すみません」葵は遠慮がちに聞いた。「平岡殿、というのは……?」
侍女の手が一瞬止まった。それから、静かに答えた。
「我が主、平岡太郎家忠殿にござります」
(あ、その名前、覚えとこう)
葵は本を膝に置きながら、頭の中でメモした。平岡太郎家忠。この家の主。
侍女が部屋を出ていった後、葵は一人になった。
しばらく呆然と座っていたが、やがて、膝の上の本に視線を落とした。
『中世武家不動産訴訟法の研究 新版』。
『中世法制史料集』。
葵はゆっくりと、『中世法制史料集』の方を手に取った。表紙が重い。表紙を開くと、目次が現れた。
御成敗式目、追加法、評定文、裁許状、譲状、和与状、寄進状──
葵の目が、ある言葉で止まった。
「永仁五年三月六日 関東御徳政」
(……え?)
葵は息を呑んだ。
(永仁の徳政令、ここに載ってる)
葵は高校の日本史で習った。「永仁の徳政令」。鎌倉時代後期に出された、御家人救済の法令。借金がチャラになるとか、なんとかいうやつ。詳しいことは忘れたけど、名前だけは覚えていた。受験生時代の教科書か参考書に本文が少し載ってたからちょっと読める。助かった。
そして、今ここは、永仁元年か、その前後のはず。大地震があって、武士たちが慌ただしくて、平岡殿のところに借上の使いが来ている──
借上、という言葉が、葵の脳内で徳政令と繋がった。
(借上って、確か、お金貸す人だっけ。御家人にお金貸して、利息取って、借金返せない御家人は所領を取られちゃう、みたいな)
(永仁の徳政令って、確か、それを救済する法令)
(つまり、いまこの家、徳政令前夜の御家人窮乏のド真ん中にいる)
葵は思わず、本を抱きしめた。鈍器が、急に頼もしく感じられた。
(私、これ、知ってる)
葵の口から、無意識に声が漏れた。
「永仁の徳政令、もうすぐ来ますよ」
誰もいない部屋で、葵はそう呟いた。
そのとき、屋敷の表の間の方から、男の怒声と、それを宥めるような御方様の声が聞こえてきた。
葵は本を抱えたまま、立ち上がろうとした。
(行かなきゃ。行って、教えてあげなきゃ。永仁五年まで待てば、借金はチャラになるって──)
立ち上がりかけて、葵は止まった。
(……あれ、待って、私、何しようとしてるんだ)
葵は、自分が中世にいることを、初めて実感した。助けようとしている自分を、自覚した。
(私、この家の人、助けられるかも)
二冊の鈍器を抱えたまま、葵はゆっくりと、立ち上がった。
(第2話 了)




