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第1話 永仁元年、女子大生参上

葵は解放感に包まれていた。


「やっとレポート終わったー!」


長かった演習の講読も終わり、テストやレポート提出も終わり、PCをリュックに詰め込まずに大学図書館に来るのは久しぶりだった。


「身体が軽い! 気分も軽い!」


お目当ては石田三成の本だった。学期中は忙しくて読めなかった石田三成……三成公の義に飢えている。早く摂取しないと。


三成様は奉行だった。豊臣秀吉様の下で、検地、兵站、外交、ぜんぶやってた。地味な仕事を完璧にこなす天才。それなのに、武断派の馬鹿どもに嫌われて、関ヶ原で負けて、京都で処刑された。

でも、三成様は最後まで「義」を貫いた。家康みたいな汚い手は使わなかった。正しいことを正しいと言って、負けた。司馬遼太郎の『関ヶ原』を読んでから、葵は三成様の敗者の美学に全部捧げると決めた。


学部二年の演習は『吾妻鏡』だった。正直つまらなかった。どの御家人がどの奉行になってどの場所に所属してるとかどうでもよくない? 奉行の名前だってだいたいそこにしか出てこないのばっかで調べても虚しいし。好きで入ったはずの霞ヶ浦大学史学部史学科なのに歴史が嫌いになりそうだった。

担当の箇所をコピーして切り貼りして調べて読み下しを作って調べて……正直、『現代語訳 吾妻鏡』は神だった。大河ドラマの原作になったとかいう噂もある。


葵は家から近いし偏差値も社会的評判もそこそこいい総合大学という理由で霞ヶ浦大学を選んだ。生まれ育った街はいつでもどこまでも無機質で、遠くの山だけが息をしているように見えた。


弟は「俺はお姉ちゃんみたいに適当に生きない。東京でアラビア語やって、商社に入って中東で仕事するんだ」と言って勉強してるらしい。なんで中東なんだろう。ドバイに憧れてんのかな。確かにドバイは行ってみたいけど……。

けど、石田三成の人生に心動かされなくて生きてると言えるのか? はあ、はやく三成を吸いたい……


戦国コーナーは図書館の三階の奥、日本史の棚を抜けたところにある。葵はエスカレーターで上がりながら、頭の中で今日読みたい本リストを組み立てていた。


中野等の三成本は前期に借りた。あの後出た新刊があったはず。中公新書の石田三成も、また借り直して読みたい。それから……戦国期の女性関係の本も気になる。三成の正室・皎月院についてもっと知りたい。


三階に着いた葵は、日本史の棚を抜けて戦国コーナーに向かう。途中、中世史の棚を通り過ぎる。


(なんかこの辺、暗いな……)


蛍光灯が一本切れているのか、中世史の棚あたりだけ薄暗かった。葵は早足で通り過ぎようとした。


そのとき、揺れた。


最初は気のせいかと思った。葵は足を止めて、本棚に手を当てた。

揺れは強くなった。地震だ。

本棚が軋み、上の段の本がずり落ち始める。葵は咄嗟にしゃがみ込んで、頭をかばった。


「ちょっと、嘘でしょ……!」


頭上で本棚が大きく傾いた。本が雪崩のように降ってくる。葵は両手で頭を抱えた。

ズコーン、と重い何かが頭の上に乗った。


「いっ……たぁ……!」


本というより、まるで鈍器。葵は涙目で、自分の腕の中に転がり落ちてきた本を見た。


『中世武家不動産訴訟法の研究 新版』石井良助著、高志書院。


こんな時なのに出版社まで確認しちゃった、史学科の呪いめ!

ハードカバー、A5コピーできる、分厚い(コピーしにくい)。新版だから余計に重い。

その隣にもう一冊。


『中世法制史料集』。


「……え、なんで戦国コーナーにこんなのが……」

葵は混乱した。ここは戦国コーナーじゃない。中世史の棚だ。三階に上がってすぐの場所。司書が間違えたのか? それとも誰かが棚に戻しそびれたのか? これも分厚い。しかも全六巻のうちの一冊だけ。他の巻はどこに行った。

揺れはまだ続いている。葵は本を抱えたまま、しゃがみ込んだ姿勢を保った。本棚がさらに大きく揺れる。


(やばいやばいやばい、これ、揺れ大きすぎ──)


頭の中で警報が鳴り響く。地震、震度、津波、緊急地震速報、避難経路、机の下、頭部保護──大学の防災訓練で何度も聞いた単語が脳内を流れる。

でも葵が次に感じたのは、揺れではなかった。


眩暈。


視界が歪み、色が抜ける。胃の底が浮き上がるような、エレベーターが急降下するような、あの感覚。


「あれ……?」


葵の意識が遠のく。腕の中の二冊の本だけが、奇妙にずしりと重く、現実感を保っていた。

最後に見えたのは、頭上から降ってくる本の雨だった。


──


土の匂いがする。


(……?)


葵はゆっくりと目を開けた。

頭が痛い。腕も痛い。背中が冷たい。


視界に入ったのは、空だった。

それも、葵の知らない空。

雲ひとつなく晴れているのに、何か違う。色が違う。空気が違う。


葵は身を起こそうとして、呻いた。


「いったぁ……」


何かを抱えていることに気づく。視線を下げると、二冊の本があった。


『中世武家不動産訴訟法の研究 新版』。

『中世法制史料集』。


「あ、これ、図書館の……」

葵は周囲を見回した。

そこは図書館ではなかった。

草地だった。背の高い草が生い茂り、遠くに林が見える。さらにその向こうに──

葵は息を呑んだ。


筑波山。

男体山と女体山の、あの見慣れた双耳峰。間違いない、筑波山。


でも、それだけが見慣れたものだった。

筑波山の手前に広がるはずの街が、ない。学園都市の白い建物群が、ない。広い直線道路が、ない。何もない。

ただ草地と、林と、遠くにわずかに見える茅葺きの集落だけ。


「……は?」

葵の喉から、間の抜けた声が出た。

「ここ、どこ?」


ありえない。ありえない。葵は今、図書館にいたはず。地震があって、本が降ってきて、それで──


(夢? 夢だよね? これ、夢だよね?)


葵は頬を抓った。痛い。痛いということは、夢じゃない。

「うそ、うそ、うそ……」

葵が呆然と座り込んでいると、背後から声がした。


「──そこな娘、いかがされた」


葵は振り返った。

数人の男たちが、葵の方を見ていた。

武士だった。

直垂、折烏帽子、脛巾、腰には太刀。葵が大河ドラマで何度も見た、鎌倉武士の格好。

ただし、大河ドラマと違って、やたらと汚れていて、ぼろぼろで、疲れた顔をしている。先頭の男は四十代くらい、髭が伸びていて、目の下に隈があった。


「お前は何者だ」


男の声は鋭かった。

葵は答えられなかった。自分が今どこにいるのか、わからなかった。

ただ、抱えた二冊の本の重みだけが、現実だった。


(第1話 了)

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