第26話 一疋の布が史料になるまで
最初の一疋が織り上がったのは、四十日ほど後だった。
千世の家の板敷に、白い布が広げられた。
老神人の袖から取った見本と並べる。以前より少し白い。けれど、糸の太さも、織り目も、ほとんど同じだった。
則実が端から端まで確認した。
「よかろう」
千世が、長く息を吐いた。家忠も、肩の力を抜いた。
葵は、布の端に触れた。ざらりとしていた。大学の博物館で見た古裂とは違う。ガラス越しではない。織り上がったばかりの布は、まだ千世の家の匂いがした。
「これが、鹿島御布」
葵は言った。
帳簿の三文字だったもの。
申状の三文字。
問状の三文字。
陳状の三文字。
事書の一項目。
評定で論じられた権利。
それが、いま目の前にある。一疋の布として。
「葵殿」
小夜が言った。
「これは、残しますか」
「納めるものなので、残せません」
「では、書き留めまする」
「お願いします」
小夜は、紙を広げた。
いつ織り上がったか。糸は、どこから来たか。機は、どの状態だったか。誰が織ったか。鹿島側の誰が確認したか。見本と相違がなかったこと。
葵は、口を開きかけた。
そのまま書いてください。
いつも通り、そう言おうとした。けれど、声が出なかった。目の前の白い布が、急に明るく見えた。
「葵殿?」
小夜の声が遠くなる。
板敷。機。千世の手。則実の白い衣。家忠の険しい顔。小夜の筆。すべてが、白い光の向こうへ薄れていく。
葵は、とっさに三冊の本を抱えた。
「待って」
誰に言ったのかわからなかった。
まだ、二疋目がある。機の修理も終わっていない。来年、何疋織れるかも決まっていない。和与状が、本当に守られるかも。
「小夜殿」
小夜が、何か答えた。
聞こえなかった。
最後に見えたのは、小夜の前にある記録だった。
墨が、まだ乾いていなかった。
*
「山田さん」
葵は、顔を上げた。
目の前に、パソコンがあった。
白い画面。開きっぱなしのドキュメント。
図書館の机。LEDのデスクランプ。空調の音。
「閉館です」
職員が言った。
葵は、何も答えられなかった。
机の上を見る。
石井良助『中世武家不動産訴訟法の研究』。
佐藤進一、池内義資編『中世法制史料集』。
瀬野精一郎編『鎌倉幕府裁許状集』。
三冊ともある。
ページの間には、見覚えのない小さな紙包みが挟まっていた。
葵は、震える指で開いた。
布片だった。白い、小さな布。
端に、薄い墨で書かれている。
――御布見本。
葵は、すぐに紙を閉じた。
「大丈夫ですか」
職員が尋ねた。
「はい」
声が掠れた。
「いま、帰ります」
三冊の本を鞄へ入れる。
重かった。
中世でも、現代でも、重さは変わらなかった。
*
翌日、葵は指導教員の研究室へ行った。机の上には、卒業論文の構想メモが置かれている。
題目案:「石田三成の行政能力について」
何度見ても、よい題だった。
三成様は偉い。行政に強い。数字に強い。兵站に強い。奉行として優秀。
そこは何も変わっていない。葵は、三成様のことが、前より好きになっていた。ただし、以前とは少し違う。
「先生」
葵は言った。
「卒論のテーマを変えたいです」
指導教員が、眼鏡の奥から葵を見た。
「三成をやめるの?」
「やめません」
「では、変えないのでは」
「三成様は、やめません」
大事なところなので、二度言った。
「でも、三成様が数字を揃えた後ではなく、その前を見たいです」
「前」
「年貢が、帳簿の数字になる前です」
土地から、米が出る。人が布を織る。誰かが運ぶ。払えないと訴える。受け取る側も困る。裁判で、できることとできないことを分ける。最後に、記録へ数字が残る。
「中世の年貢納入と紛争解決の実務をやりたいです」
指導教員は、しばらく黙った。
「広いね」
「はい」
「広すぎる」
「はい」
「絞って」
「鎌倉幕府の訴訟と、現物年貢の調達」
「史料は」
「寺社の訴訟文書と、問答記録、和与状を見ます」
「具体的には」
「鹿島神宮の――」
葵は、そこで止まった。
鹿島御布の訴訟。
平岡家。
千世。
小夜。
史料に残っているだろうか。
残っていないかもしれない。平岡家の陳状は削られた。問答記録も、すべてが保存されるわけではない。和与状も、火事や虫や湿気で失われるかもしれない。
小夜が書いた、最初の一疋の記録も、いま、どこにあるのかわからない。
「まず、鹿島神宮関係文書を調べます」
葵は言った。
「それから、年貢の現物納と代銭納が争いになった事例を探します」
「三成は」
「序論には出しません」
「出さないんだ」
「卒論なので我慢します」
指導教員は、少し笑った。
「では、新しい題目案を書いてきて」
「はい」
葵は、元の構想メモを手に取った。
捨てなかった。三成様の卒論は、いつか書く。
ただ、いまは。
数字になる前の人々を見たい。
*
図書館へ戻ると、葵は検索端末に座った。
「鹿島神宮 御布」
「現物年貢 代銭納」
「鎌倉幕府 和与状」
「引付問答 年貢」
検索結果が並ぶ。
論文。
史料集。
自治体史。
寺社文書の目録。
まだ、何も見つかっていない。
葵は、布片の入った紙包みを、机の端へ置いた。
それから、新しい文書を開いた。
卒業論文題目案。
しばらく考え、打ち込む。
「鎌倉後期における現物年貢の調達と紛争解決――訴訟文書・和与状からみた履行の実務」
硬い。非常に硬い。でも、悪くない。
葵は、その下に研究目的を書き始めた。
従来、年貢負担については、所領支配や権利関係、納入額を中心に研究されてきた。しかし、現物年貢が実際に調達され、納入されるまでには、原料、道具、労働力、運送、規格の確認など、文書上の権利義務だけでは把握できない実務が存在した。本稿では――
葵の指が止まった。
小夜なら、何と書いただろう。
葵殿のお申し付けになられたことを、書き留めればよろしきにござりますか。
――わたくしの申すことだけでなく、相手の申すことも、できるかぎり、そのまま書き留めていただきたいです。
葵は、続きを打った。
本稿では、訴人・論人の主張のみならず、問答において問われた調達可能性や、和与によって定められた履行条件に着目する。
誰が、いつ、何を、どれだけ調えられたのか。なぜ、調えられなかったのか。そのために、何が必要だったのか。一疋の布が、文書の一行になるまで。
「三成様」
葵は、小さく言った。
「少しだけ、待っていてください」
パソコンの横には、石田三成のクリアファイルが置かれていた。卒論のテーマが変わっても、そこは変わらない。三成様は、今日も格好よかった。ただ葵は、三成の背後にいる、名前の残らない者たちを見るようになっていた。
土地を測る者。
数を確かめる者。
糸を運ぶ者。
布を織る者。
言葉を書き留める者。
帳簿の数字は、最初から数字だったわけではない。判決も、判決だけでは現実にならない。
葵は、白い布片を指先で撫でた。ざらりとしていた。
夢ではなかった。たぶん。
画面の時計が、閉館時刻へ近づいている。
葵は、保存を押した。
今度は、記録を残した。
(第26話 了)




