第25話 判決だけで、布は織れません
「今年の五貫文は、まだ全部揃っていません」
葵が言うと、則実は驚かなかった。
「知っておる」
「でも、一部はあります」
「いかほど」
葵は家忠を見た。
家忠は、答えたくない顔だった。だが、問答ですでに認めたことである。ここで隠しても、和与は作れない。
「二貫と、八百文」
家忠が言った。
則実が目を細めた。
「五貫には遠い」
「今年の布を二疋納めれば、すべてを代銭で納めるのではないでしょう」
「布二疋を、いかほどと算ずる」
「一疋五百文なら」
「旧例の御布を、その値では買えぬ」
「では、いくらですか」
「一疋、一貫二百文ほど」
葵は瞬いた。
「高いですね」
「ゆえに五貫文では十疋を買えぬと、申しておる」
そうだった。
裁判でも聞いた。
五貫文で買えたのは四疋。
布一疋、一貫二百文ほど。
四疋で四貫八百文。
運送や仲介を含めれば、ほとんど残らない。
「千世殿には、これまで一疋いくら払われていましたか」
葵が聞いた。
千世は、すぐには答えなかった。
惣領家の使者が目を逸らした。
葵は、その二人を見比べた。
「いくらですか」
「三百文にございまする」
千世が言った。
静かになった。
市場で買えば、一貫二百文。
千世には、三百文。
四倍だった。
「糸は、惣領家から渡されていたんですよね」
葵が尋ねる。
「左様」
「機の修理は」
「こちらで」
「織る人への支払いだけで、三百文」
「左様」
惣領家の使者が言った。
「糸はこちらで調え、家の負担として織らせておった。銭のみを比ぶるは違おう」
「では、糸はいくらでしたか」
「古きことゆえ」
「機の修理はいくらですか」
「知らぬ」
「運送は」
「ほかの年貢とともに運んだ」
「その人夫は誰が出しましたか」
「郷の者が」
「その負担は帳簿に」
「細かきことを、すべて書くものではない」
細かいこと。
葵は、帳簿に書かれた「鹿島御布十疋」を思った。
その下に隠れていた。
糸代。
修理代。
織り手の手間。
運送。
人夫。
惣領家の取りまとめ。
全部が隠れて、最後に布十疋だけが残っている。
「細かくありません」
葵は言った。
「そこを書かないから、布がどこから出てくるのかわからなくなったんです」
惣領家の使者が、不快そうに眉を寄せた。
家忠も、葵を止めなかった。
則実は、しばらく織りかけの布を見ていた。
「糸は、鹿島にて調える」
家忠が顔を上げた。
「よいのか」
「ただし、平岡が代価を払う」
「いかほど」
「まず、三疋を織るに足る分。一貫文」
「高い」
「ならば自ら調えよ」
「今年、すぐには払えぬ」
「いつなら払える」
「来年の麦の後」
「遅い」
また、止まる。
和与は難しい。
裁判なら、どちらの主張が通るかを待てばよい。
和与では、自分たちで、払える日を決めなければならない。
「半分を、いま払うのは」
葵が言った。
家忠を見る。
「五百文なら」
「出せぬことはない」
則実を見る。
「残り五百文は、来年の麦の後」
「その間、鹿島が負担することになる」
「その代わり、今年織り上がった三疋の運送は平岡家がします」
「もとより、納める側の務めであろう」
「鹿島までではなく、こちらから糸を運ぶ分もです」
「当然では」
「では、糸代を少し下げてください」
「なぜ、そうなる」
「運ぶ手間が増えるので」
「平岡の都合であろう」
「鹿島も布が必要です」
則実が黙る。
葵は、わずかに身を乗り出した。
「鹿島神宮は、五貫文を受け取って、四疋しか買えなかった」
「左様」
「こちらで三疋を織れば、少なくとも三疋は確保できます」
「当年中に織れればな」
「だから、糸を早く渡してください」
「平岡が銭を払えば」
「五百文を先に払います」
「残りは」
「来年」
「遅い」
「では、今年の布三疋のうち、一疋分を鹿島側の負担としてください」
則実が、葵を見た。
「年貢を受け取る側が、年貢の一部を負担せよと申すか」
「そうです」
「聞いたことがない」
「私もありません」
葵は正直に答えた。
「でも、裁判で言われました。実ある定めを立てろと」
旧例だから十疋。
年貢だから地頭が全部出す。
代銭を受け取ったから今年も五貫文。
どれも、実際にはうまくいかなかった。
「鹿島神宮は、今年、布が必要です。平岡家は、今年十疋を出せません。千世殿は、糸と機があれば三疋を織れる」
葵は、一つずつ指を折った。
「ならば、まず三疋を作ります」
誰が正しいかではない。
何が作れるか。
「それから、機を直します」
千世が顔を上げた。
「直していただけるのでございますか」
「弥三郎殿に、いくらか聞きます」
「銭は誰が出す」
家忠が問う。
葵は、機を見た。
今年の三疋だけなら、今ある一台で織れる。
壊れた機を直すのは、来年以降のためだ。
「平岡家と鹿島神宮で、半分ずつ」
「なぜ当宮が」
則実が言いかけた。
老神人が、初めて口を開いた。
「直すがよい」
則実が振り返る。
「されど」
「毎年、同じ争いをするよりは安かろう」
老神人は、自分の継ぎのある袖を見た。
「衣が要る」
短い言葉だった。
神威でも、旧例でもない。
衣が要る。
それだけだった。
則実は、しばらく黙った後、息を吐いた。
「半分は、鹿島にて負担する。ただし、修理後の機にて織る御布を、向こう三年、当宮へ優先して納めること」
「値は」
葵が尋ねた。
「年貢であろう」
「千世殿への支払いです」
「旧来の通り」
「三百文では足りません」
「なぜ、そなたが決める」
「機を壊したまま放っておいたからです」
千世が、小さく息を呑んだ。
葵は、少し言い過ぎたと思った。
けれど、引かなかった。
「三百文では、娘を呼び戻せない。人を雇えない。機も直せない。来年また、二疋しか織れません」
鹿島御布は、旧例だった。
けれど、旧例を続ける人がいなくなれば、旧例は紙の上にしか残らない。
「一疋、五百文」
葵が言った。
家忠が、すぐに反応した。
「高い」
「市場より安いです」
「平岡が払うのだぞ」
「布が必要なのは平岡家です」
「鹿島にも必要じゃ」
「だから糸と機を半分出してもらいます」
家忠と則実が、同時に黙った。
千世だけが、呆然と葵を見ていた。
小夜の筆が動いている。
全部、記録している。
「一疋、四百文」
家忠が言った。
「五百文」
葵が答える。
「四百五十」
「五百」
「そなたは、どちらの家の者じゃ」
「布を出せるようにする側です」
則実が、わずかに笑った。
初めて見た。
「四百五十文。三年目より、布の出来を見て改む」
則実が言った。
葵は千世を見た。
「いかがですか」
千世は、すぐには答えなかった。
この場で、初めて尋ねられたのだろう。
自分がいくらなら織れるのか。
千世は、自分の指を見た。
それから、壊れた機を見た。
「娘を、呼び戻せまする」
「では」
葵が尋ねる。
「四百五十文で、織れますか」
千世は、深く頭を下げた。
「織りまする」
*
和与状には、多くのことが書かれた。
今年、平岡家は鹿島御布三疋を現物で納める。
ただし三疋目は、鹿島神宮が必要な糸を速やかに渡すことを条件とする。
残る七疋については、代銭を納める。
その額は、従来の五貫文から、現物三疋の価に相当する分を除く。
ただし、機の修理費および糸代の一部を、そこから控除する。
壊れた機は、平岡家と鹿島神宮が修理費を折半する。
千世は、向こう三年、鹿島御布を優先して織る。
一疋につき四百五十文を支払う。
翌年以降の納入数は、機の修理と人手を確認した上で、毎年夏までに定める。
鹿島御布の見本として、老神人の衣から小さな布片を取り、双方が同じものを保管する。
葵は、その最後の条項を三度読んだ。
「布片まで和与状に付けるのか」
家忠が言った。
「付けます」
「文書ではないぞ」
「規格です」
「幅と糸を書けばよかろう」
「書いても、同じものを想像するとは限りません」
旧例の通り。
その言葉で揉めたのだ。
ならば、旧例を見える形で残せばよい。
小夜が、二つの小さな布片を紙に包み、それぞれの包みに由来を書いた。
鹿島神人旧衣の裂。
御布見本。
「これは、史料になります」
葵は言った。
「しりょう」
小夜が聞き返す。
「後の人が、昔のことを知るためのものです」
「ただの布切れにござりましょう」
「ただの布切れが、大事なんです」
文字だけでは、布の目はわからない。
色も、厚さも、手触りもわからない。
史料は文書だけではない。
そう言いながら、葵は、自分がいままで卒論のために集めた史料を思った。
石田三成の書状。
奉行人連署奉書。
太閤検地帳。
掟書。
そこには、整った文字がある。
命令がある。
数字がある。
けれど、その数字になる前に、誰が土地を歩いたのか。
誰が米を量ったのか。
誰が布を織ったのか。
誰が「できない」と答え、その理由を聞かれたのか。
ほとんど、見ていなかった。
「葵殿」
小夜が呼んだ。
「何ですか」
「また、泣いておられまする」
「泣いていません」
「目より」
「埃です」
「室内にござります」
「布の埃です」
小夜は、もう反論しなかった。
和与状の末尾に、鹿島側と平岡側が、それぞれ名を記した。
千世の名も、証人として入れた。
惣領家の使者が首を傾げた。
「機織りの女の名まで要るか」
「要ります」
葵は答えた。
「この人がいなければ、和与は実行できません」
布を織る者が、和与状の外に置かれていたら。
また、鹿島神宮と平岡家だけで、十疋、五貫文と争うことになる。
小夜が、最後の一字を書き終えた。
「できました」
誰も、すぐには動かなかった。
裁判の事書より、ずっと長い。
葵たちが鎌倉で話したことは、奉行人によって削られた。
争点に必要な部分だけが残った。
今度は、自分たちで書いた。
実行するために必要なことを、一つずつ足した。
布。
糸。
機。
銭。
人。
納期。
見本。
判決より、和与状の方が長くなった。
(第25話 了)
ここまで読んでくださってありがとうございました。次回最終話です。




