第24話 布は、帳簿から生えてきません
長沼郷へ向かう人数は、六人になった。
平岡家から、家忠、葵、小夜。鹿島神宮から、則実と、先日の評定にも来ていた老神人。それから、道案内をする惣領家の使者。
葵は、列の後ろを歩きながら思った。
(多い)
千世という一人の機織りに会いに行くだけである。
けれど、平岡家だけで行けば、布を納める側の都合しか聞けない。鹿島神宮だけで行けば、受け取る側の規格を押しつけることになる。惣領家の使者がいなければ、以前どのように布を集めていたのかわからない。
布一疋を調えるために、六人が歩いている。
(行政コストが高い)
葵は、三冊の本を抱え直した。
鎌倉から常陸へ戻る道中、肩の痛みはさらに悪化していた。それでも、もう家人には持たせなかった。
裁判は終わった。
ここから先は、本に書かれていない。だからこそ、持っていたかった。
「葵殿」
前を歩く小夜が振り返った。
「また、難しきお顔をなされておりまする」
「布一疋に何人必要なのか考えていました」
「織るのは、一人でもできまする」
「その前後です」
糸を作る者、運ぶ者。機を直す者。織る者。規格を確かめる者。銭を出す者。布を受け取る者。その記録を作る者。
土地の帳簿には、ただ「鹿島御布十疋」と書いてあった。まるで、田畠から布が生えてくるように。
実際には違う。布は、人が織る。人は、機と糸と時間がなければ織れない。
「三成様なら」
葵は呟いた。
「また、そのお方にござりますか」
小夜が言った。
「はい」
「どなたなのでございます」
「四百年ほど先の、すばらしい奉行です」
「先」
「気にしないでください」
小夜は、気にしている顔をした。
家忠は、もう何も聞かなかった。
鎌倉へ向かう途中までは、葵の奇妙な言葉にいちいち眉を寄せていた。いまは、聞こえなかったことにする術を身につけている。
人は成長する。
*
藤四郎家は、郷の端にあった。
屋根は古く、壁の一部が崩れていた。庭先には、乾かした糸が掛けられている。
報告にあった通り、機は二つあった。一つは、家の奥で使われている。もう一つは、庭に近い板敷へ寄せられ、布をかけられていた。
千世は、五十を少し過ぎたくらいに見えた。細い身体をしていた。手の指だけが、節くれ立っている。
これが、鹿島御布を織った人。
葵たちが名乗ると、千世は則実の姿を見て、すぐに土間へ膝をついた。
「鹿島様へ納むる布の儀にござりますれば、必ず調えまする」
則実が、わずかに姿勢を正した。
「十疋、調うか」
千世は黙った。
葵は、則実の袖を引きたくなった。最初にそれを聞くのか。だが、問答中に口を挟んで叱られた経験がある。今回は黙った。
千世は、頭を下げたまま答えた。
「当年中には、二疋」
「三疋と聞いた」
「糸を賜れば」
「糸があれば、三疋か」
「機がもてば」
条件が増えた。
則実が、庭の機を見た。
「あれを用いればよいではないか」
「壊れておりまする」
「直せぬのか」
「直す者が、近くにはおりませぬ」
家忠が尋ねた。
「いかほどあれば直る」
「わかりませぬ」
「なぜ」
「直す者に尋ねておりませぬゆえ」
家忠が黙った。
葵は、鎌倉の奉行人を思い出した。
――いつ尋ねた。
――誰に尋ねた。
――員数を改めたか。
――何をもって申す。
何も尋ねていない者には、数字は答えられない。
「機を直せる方は、どこにいますか」
葵が聞いた。千世は顔を上げた。
「北の郷に、弥三郎という者が」
「呼べますか」
「銭を払えば」
「いくらですか」
「存じませぬ」
また、わからない。
「糸は、どこから調えますか」
「以前は、惣領家より渡されました」
「今年は」
「まだ」
「一疋を織るのに、どれほど必要ですか」
「布の幅と長さによりまする」
「鹿島御布の規格なら」
「このほど」
千世は、部屋の隅から、一巻きの糸を持ってきた。葵には、多いのか少ないのかわからなかった。
「重さは」
思わず尋ねてから、葵は気づいた。秤がない。
千世は、困ったように糸を見た。
「一疋につき、これを三つほど」
「三つ」
「左様」
「この一巻きは、全部同じ量ですか」
「おおよそ」
「おおよそ」
葵は、額を押さえた。数字を揃えようとしているのに、基準がない。
糸一巻き。布一疋。おおよそ三つ。
近世の帳簿なら、もっと整っているのだろうか。
太閤検地の頃なら。
三成様なら。
そう思ったところで、葵は止まった。
三成だって、この世界から突然、完成した数字を取り出したわけではない。
土地を歩いた者がいる。
竿を持って測った者がいる。
村の者に尋ねた者がいる。
枡を合わせた者がいる。
帳面へ書いた者がいる。
「三成様、現地の人に支えられすぎている……」
葵は呟いた。
「何を申しておる」
家忠が言った。
「信仰の再確認です」
「わからぬ」
「私にも、いま少しわからなくなっています」
三成様は偉い。それは変わらない。けれど、偉い奉行が一人いれば、布が十疋出てくるわけではない。
奉行が数字を求める。その数字を作るため、誰かが千世の前に座り、壊れた機を見て、糸を数えなければならない。
いま、その誰かを、葵たちがしている。
*
則実が、織りかけの布を広げさせた。白い布だった。真白ではない。少し黄みがあり、糸の太さにも揺れがある。老神人が、布の端を指で撫でた。
「以前より、粗い」
千世の顔が強張った。
「糸が違いまする」
「神事に用いるには」
「使えぬほどではござりますまい」
家忠が言った。
則実が首を横に振る。
「旧例の御布とは異なる」
「ならば、どのような布ならよい」
「旧例の通りじゃ」
「その旧例を見せよ」
「鹿島へ納められた布のごとく」
「ここにないものを、どう織らせる」
二人の声が硬くなる。
また始まった。裁判は終わったのに、争いは終わっていない。
旧例の布を納めよ。旧例の布とは何か。以前納めた通り。以前のものは、ここにはない。
葵は、老神人を見た。
「お召しになっているものは、鹿島御布ですか」
老神人が、自分の袖を見た。
「左様。古きものなれど」
継ぎのある白い衣。評定所で見たものだった。
「少し、見せていただけますか」
老神人が、則実を見た。則実は迷った後、頷いた。
葵は、袖口の布と、千世が織りかけている布を並べた。
目の細かさ。糸の太さ。幅。手触り。
千世も板敷へ上がり、老神人の袖を確かめた。
「これは、わたくしの織りたるものではござりませぬ」
「わかるのですか」
「糸の撚りが違いまする」
「同じものを織れますか」
「糸があれば」
「どの糸ですか」
「これより細く、強きものを」
また、糸だった。
「その糸は、どこにありますか」
千世は考えた。
「鹿島の南の郷ならば」
「鹿島の近くですか」
「左様」
葵は、則実を見た。
「鹿島側で、調えられませんか」
則実の眉が動いた。
「なぜ、当宮が年貢納入のために糸を出す」
「その分は、平岡家が払います」
「払えるのか」
則実の問いに、家忠が黙った。
払えない。少なくとも、すぐには。
葵は、織りかけの白い布を見た。
十疋と書けば、十疋が出てくるわけではない。旧例と命じれば、旧例の布が織り上がるわけでもない。帳簿には書かれていなかったものが、次々に現れていた。
糸、機、職人、見本、銭。
そして、それを誰が負担するのか。
葵は、三冊の本を抱え直した。裁判の次に待っていたのは、法律ではなかった。布だった。
(第24話 了)




