第23話 評定、本人は外で待ちます
評定沙汰の日を告げる召文が来たのは、三日後だった。
葵は、文面を二度読んだ。今度は、来月でも、十日後でもない。明後日だった。
「近いですね」
家忠が言った。
「鎌倉にいる者を、わざわざ待たせる必要もあるまい」
確かにそうだった。平岡家は、すでに鎌倉にいる。鹿島神宮側もいる。評定衆の都合がついたなら、すぐに呼べる。
合理的だった。合理的すぎて、逃げる時間がない。
「召文違背は」
小夜が言った。
「しません」
葵は即答した。一度、意味を知った言葉は怖い。
召文違背、期限違背、問答での不実、証文の不提出。
この裁判では、どれも小さな失敗では済まない。
「葵殿」
家忠が言った。
「評定では、そなたも申すことがあるのか」
「たぶん、ありません」
「ここまで申してきたではないか」
「評定衆の前で、もう一度全部話すわけではありません」
家忠が眉を寄せた。
「では、何のために参る」
「そこにいるためです」
「いるだけか」
「呼ばれたので」
家忠は、不満そうだった。葵も、不満だった。
ここまで自分たちで申状を読み、陳状を書き、問答に答えた。それなのに、最後の評議では何も言えない。もう、言葉は紙になっている。
引付勘録事書。第三番引付で取捨され、まとめられ、裏を封じられた文書。
評定所では、それが平岡家の代わりに話す。葵たち本人より、文書の方が重要になる。
「事書、もう一度見られませんかね」
「封じたものを、なぜ見る」
「念のため」
「異議なき旨、申したであろう」
「そうですけど」
あの一文は本当に正しかったか。
二疋は調う見込み。三疋目は糸次第。鹿島は代銭で四疋を買い、他所領の布を回した。新地頭への告知は二月余り前。
何度思い返しても、大きな誤りはない。それでも不安だった。自分の言葉が、自分の手元にないから。
評定所は、第三番引付よりも静かだった。人が少ないわけではない。
頭人、評定衆、文書を扱う者、記録を取る者。鹿島側、平岡側。
必要な者が、必要な場所に座っている。誰も声を荒らげていない。誰も平岡家を見下して笑わない。鹿島神宮へ媚びる者もいない。
だからこそ、葵は息苦しかった。
ここでは、感情を見せる必要すらない。紙を読み、理非を決めればよい。
評定衆の前に、細長い籤が置かれた。葵は、それを見た。
「孔子」
小さく呟いた。小夜が聞き返した。
「何にござりますか」
「意見を言う順番を決める籤です」
「なぜ、そのような名を」
「知りません」
本当に知らなかった。史料の説明で読んだだけだ。籤の名が、なぜ孔子なのか。どんな形だったのか。どう引いたのか。
そんなのは全然知らない。ここにジャパンナレッジはない。
評定衆が順に籤を取る。
葵は、喉を鳴らした。頭ではわかっている。判決を籤で決めるわけではない。意見を述べる順を決めるだけ。それでも、落ち着かなかった。
最初に意見を述べる者。
次に述べる者。
前の意見を聞いた後に話す者。
順番は、無関係ではない。だからこそ籤で決めるのかもしれない。誰が最初になるかを、人間関係で決めないために。
葵は、評定衆の顔を見た。誰が鹿島寄りなのか。誰が平岡家の代銭納を認めるのか。
何も読めなかった。表情から判決を予想しようとする自分が、急に恥ずかしくなった。ここまで証文と先例を積み上げてきたのに、最後は顔色を見ている。
籤が終わった。
開闔が進み出る。
「両方、退くべし」
葵は、わかっていたのに動けなかった。
家忠が立った。
則実も立つ。
鹿島側の年老いた神人も。
「葵殿」
小夜に促され、葵も立った。
「本当に、外へ出るんですね」
家忠が小声で答えた。
「評議に加われると思うておったか」
「思ってはいません」
思ってはいなかった。
でも、ここまで来たのだから、最後まで聞ける気がしていた。葵たちは、評定所の脇にある控えへ移された。
鹿島側も、少し離れた場所へ座る。同じように追い出されている。
常陸国一宮も、小さな平岡家も、評議の外では同じだった。
戸が閉じた。しばらく、何も聞こえなかった。
葵は膝の上で手を握った。三冊目の本は、隣に置いている。開きたい。でも、いま読んでも意味はない。
次に何が起きるかは知っている。
開闔が、引付勘録事書を読む。
評定衆が籤の順に意見を述べる。
その結果が記録される。
引付の審理に不当があるとされれば、差し戻される。
問題がなければ、裁許の方向が決まる。
知っている……が、知っていることが、何の慰めにもならない。
戸の向こうから、声がした。
「鹿島大宮雑掌申す、常陸国某郷鹿島御布十疋の事――」
開闔が、引付勘録事書を読み始めた。抑揚のない声だった。
鹿島御布十疋。
累年代銭五貫文。
請取状に留保の文言なし。
前年、惣領家へ布不足を告知。
新地頭への布納催促は二月余り前。
平岡家は代銭を現に用意せず。
現物は二疋、三疋目は糸次第。
鹿島は代銭にて四疋を購入。
残余を他所領分より回し、なお不足あり。
葵は、自分たちが必死に話したことを聞いた。短かった。
あれほど長く陳状を考えた。太郎左衛門と揉めた。使者を走らせた。家忠が問答で詰められた。小夜が一語の記録違いに気づいた。それらが、短い文になっている。
鹿島側の神事も、神人の衣服も、平岡家の貧しさも、同じ調子で読まれる。
紙の上では、どちらの窮状も一項目だった。
朗読が終わった。
沈黙が続く。
葵は、息を止めた。
一人目の声がした。
籤で最初を引いた評定衆だろう。戸があるため、すべては聞き取れない。
「旧例の布納、明白なり」
葵の胸の内側が、ひゅんと縮んだ。そのあとに、何か続いたが、聞こえない。鹿島側の則実は、顔を動かさなかった。
二人目。
「累年代銭を請け取るといえども、布納の義、失われず」
また、鹿島寄りに聞こえた。葵は、指先に力を入れた。家忠は、正面を向いたままだった。
三人目。
「されど、新地頭に改納を明示せざる上、不納と称すること――」
今度は、平岡側に有利な意見かもしれないが、最後まで聞き取れない。戸一枚が邪魔だった。
中で自分たちの所領が論じられている。なのに、断片しか届かない。
四人目。
「代銭五貫文を現に調えざる条、平岡にも怠りあり」
家忠の肩が、わずかに動いた。その通りだった。平岡家は、代銭を納める意思はあった。しかし使者の前へ、五貫文を用意してはいなかった。不納ではないと強く主張しながら、弁済の準備も完全ではなかった。
五人目。
「鹿島もまた、現地の調達可否を尋ねず、ただ旧例をもって十疋を責む」
今度は鹿島側の年老いた神人が、少し俯いた。双方の弱点が、一つずつ読み上げられていく。
葵は気づいた。評定衆は、鹿島か平岡のどちらを好きかで意見を述べているのではない。何を重く見るかが違う。
布納の旧例。累年代銭。新地頭への告知。実際の弁済準備。神事の必要。現物調達の可能性。
同じ文書を読んでいる。でも、優先するものが違う。だから、意見が割れる。
六人目。
「今年は二疋を納め、残余を代銭とし、向後のことは改めて定むべし」
具体的な中間案。葵は、わずかに息を吐いた。
七人目。
「一度これを許さば、布納の本義、ついに失われん」
鹿島側に有利。
八人目。
「本義を守らんとして、調達不能の年貢を命ずるは、沙汰の実なきものなり」
平岡側に有利。
また沈黙。
葵は、石井良助の本へ手を置いた。
法令を知れば、答えが一つになると思っていた。先例を集めれば、正解が見えると思っていた。争点を分ければ、どちらが正しいか決められると思っていた。
違った。
同じ法、同じ先例、同じ証拠、同じ問答。
それを見ても、人によって結論は違う。
では、法とは何なのか。
何のために、これほど厳しい手順を踏んだのか。
申状を出す。
問状へ答える。
証文を添える。
召文に応じる。
問答する。
記録を直す。
裏を封じる。
取捨して事書にする。
ここまでしても、答えは一つにならない。それでも、手続がなければ、誰の意見が何を根拠にしているかすらわからない。
法は、一つの正解を出すためだけにあるのではない。意見が割れたままでも、争いを終わらせるためにある。
中から、紙を動かす音がした。何かを書き加えている。評定の結果を、勘録へ記しているのだろう。
葵は、不意に怖くなった。
もし、引付の審理が不十分だと判断されたら……差し戻し。また第三番へ戻る。
追加の問答。追加の証拠。また召文。また期限。また鎌倉滞在。
平岡家の銭は、もう多くない。
鹿島側にも、訴訟を続ける費用はかかる。
法的な正しさだけでなく、訴訟を続けられるかどうかが勝敗を分ける。それも、この裁判の一部だった。
「葵殿」
小夜が、小さく呼んだ。
「はい」
「震えておりまする」
葵は、自分の手を見た。本当に震えていた。
「寒いので」
「今日は暖こうございます」
「黙っていてください」
小夜は黙った。
少しして、戸が開いた。開闔が姿を見せる。
「両方、参るべし」
家忠が立った。葵も立とうとした、が、膝が痺れていた。危うく転びそうになり、小夜に袖を支えられた。
「大丈夫です」
「大丈夫には見えませぬ」
「法制史が好きなだけです」
「いま、関わりのある話にござりますか」
あった。大いにあった。
評定所へ戻る。評定衆の顔は、先ほどと変わらなかった。誰がどの意見を述べたのか、葵にはわからない。
頭人の前には、引付勘録事書が置かれている。その末尾に、何かが書き加えられていた。
「鹿島御布十疋の本義」
頭人が言った。鹿島側が姿勢を正す。
「失われたるにはあらず」
則実が頭を下げた。
葵の胃が縮んだ。布納義務は残る――そこは、鹿島側が通した。
頭人は続ける。
「されど、累年、代銭を異儀なく請け取り、しかるに新地頭へ改納の旨を明示せざる上は、平岡をただちに不納と称すること、穏当ならず」
家忠が頭を下げた。平岡家も、不納とはされなかった。葵は、息を吐くこともできなかった。
どちらも勝っていない。
どちらも負けていない。
「また、平岡は代銭を現に調えず、現物調達の可否をも確かめざる条、全く過なきにあらず」
家忠の顔が固くなる。
「鹿島も、当年十疋の調達可能なるやを確かめず、旧例のみをもって責むる条、穏当ならず」
則実も頭を下げた。
双方へ、一つずつ傷がつく。
一方だけを断罪しない代わりに、どちらも無傷では帰さない。
「よって」
頭人の声が、評定所へ落ちた。
「双方、和与を遂ぐべし」
鹿島側も、平岡側も、すぐには動かなかった。
葵は、言葉の意味を考えた。
和与。
中禅寺との争いでも行った。双方が譲り、条件を決める。ただし今回は、自分たちから願い出た和与ではない。評定所から命じられた。
「今年の納法」
頭人が続ける。
「ならびに向後の御布負担につき、実ある定めを立て、和与状を進むべし」
実ある定め。紙の上だけの解決では足りない。
今年、何疋を納める。残りをどうする。来年は誰が布を調える。どの規格で、いつまでに。実行できる条件を作れと言っている。
葵は、長沼郷の千世を思い出した。
今年は二疋。無理をすれば三疋。機が壊れている。糸がない。人手が足りない。
ここから先は、石井良助の本にも書いていない。
「和与、調わざるときは」
則実が尋ねた。頭人は、則実を見た。
「再び引付において沙汰すべし」
葵の胸の内側が、もう一度ひゅんとした。
再び、第三番引付へ戻る。
申状、陳状、問答、証文、事書、評定。
もう一度、すべてを繰り返すかもしれない。これは、穏やかな和解の勧めではなかった。
和与せよ。できなければ、また裁判を続けよ。続けられるだけの銭と時間があるなら。
鹿島側にも、平岡家側にも、同じ圧力だった。
「承知仕りました」
則実が頭を下げた。家忠も続いた。
「承知仕りました」
葵は、被衣の下で目を閉じた。
完全勝訴ではない。鹿島神宮の現物納権は残った。平岡家の代銭納も、完全には否定されなかった。今年ただちに十疋を納めろとも言われなかった。平岡家は、鹿島神宮に押し切られず、和与の席まで来た。
石井良助の本は、勝たせてくれなかった。でも、ここまで運んでくれた。
外へ出ると、家忠が言った。
「結局、話し合えということか」
「そうです」
「ならば、最初から話し合えばよかったではないか」
葵は、首を横に振った。
「違います」
「何が」
「最初に話し合ったら、平岡家は布十疋を出せと言われるだけでした」
鹿島神宮には旧例がある。第三番への正規の訴訟ルートもある。平岡家は小さい。その状態での話し合いは、対等ではない。
「裁判で、平岡家が不納ではないと認めさせたから、和与できます」
「認められたのか」
「少なくとも、ただちに不納とは言えないと」
「鹿島の布納も残った」
「はい」
「双方、半分ずつか」
「半分ではありません」
葵は答えた。
どの権利が残ったか。どの非難が退けられたか。単純に半分にはできない。
「でも、鹿島神宮だけが決める話ではなくなりました」
則実が、少し離れたところからこちらを見ていた。視線が合う。則実は言った。
「平岡殿」
家忠が向き直る。
「和与の儀、明日より談ずべし」
「承った」
則実は、葵を見た。
「まず、当年何疋を納められるか」
「二疋です」
葵は答えた。
「三疋では」
「三疋目は、糸次第です」
「ならば、糸を調えられよ」
「銭が要ります」
「代銭を納める銭があると申したではないか」
「実際には、まだ揃っていません」
家忠が、葵を睨んだ。問答で認めたことだったのだから、隠しても仕方がない。則実は、長く息を吐いた。
「和与、難しきものにござるな」
葵も同じ気持ちだった。裁判より簡単だと思っていた。でも、たぶん、違う。
裁判では、聞かれたことに答えればよい。和与では、自分たちで答えを作らなければならない。
「まず、長沼郷へ行きませんか」
葵が言った。則実が眉を寄せた。
「なぜ、当宮の者が」
「布が必要なんですよね」
「左様」
「ならば、誰が織るかを見てください」
「それは地頭の務めでは」
「受け取る側にも、規格を確認してもらいます」
「なぜ」
「織り上がってから、違うと言われたら困るので」
則実は黙った。家忠も黙った。
葵は思った。
評定は終わった。次は、布だった。
法令集でもない。判例集でもない。手続集でもない。
機、糸、織る人、運ぶ人、代価、納期、和与状。
鎌倉幕府裁判は、争いを終わらせてはくれなかった。
ただ、自分たちで終わらせる場所まで、双方を押し出した。
(第23話 了)




