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第22話 私の陳状、削られています

 

 三日しかなかった。

 長沼郷へ行って、機織りの家を探し、鹿島神宮へ納める布を何疋用意できるか確かめる。


 鎌倉から三日で。


「無理では」

 

 葵が言うと、家忠は答えた。


「無理でも、やる」


 最近、この時代でよく聞く言葉だった。


 召文に応じるのも、鎌倉へ来るのも、問答へ答えるのも。無理かどうかは、あまり関係がない。命じられたら、やる。できなければ、できなかった理由を証明する。


 証明できなければ、不利になるだけ。


「誰を走らせますか」


 小夜が尋ねた。家忠は、連れてきた家人の一人を見た。


「常陸へ戻せば、往復だけで三日を越える」

「では」


 葵は考えた。


 平岡家から長沼郷へ。惣領家から長沼郷へ。鎌倉から直接走らせるより、常陸側で人を動かした方が早い。


「惣領家へ文を出します」


 家忠が、目を閉じた。


「またか」

「ほかにありますか」

「ない」

「では、出します」


 家忠は、諦めたように息を吐いた。

 小夜が紙を広げる。葵は、短く書かせた。長沼郷の藤四郎家を訪ねること。鹿島へ納める旧例の布を、今年中に何疋調えられるか確かめること。機、糸、人手、納期。できる、できないだけではなく、その理由も聞くこと。


「理由まで要りますか」


 小夜が尋ねた。


「要ります」


 できません。


 それだけでは、第三番引付は納得しない。


 なぜできない。誰に聞いた。いつまでならできる。何疋ならできる。証拠は。


 先の問答で、嫌というほど思い知った。葵は、自分が言われた質問を、そのまま長沼郷へ投げ返していた。


「人に聞くときも、怖いですね」


 小夜が言った。


「何がですか」

「葵殿の問い方が」

「第三番引付よりは優しいです」

「比べる相手が悪うございます」


 文は、その日のうちに常陸へ向けて出された。返事が届くまで、葵たちは鹿島側の事情を調べた。といっても、勝手に神宮の帳簿を見ることはできない。問答で聞いたことを書き出すだけだった。


 鹿島御布十疋。神事に用いる布。神人の衣料。代銭五貫文。市場では旧例の布を十疋調えられない。


 ただし、昨年いくらで何疋買えたかは、鹿島側も即答できなかった。


「鹿島も、案外、雑ですね」


 葵が言った。家忠が顔を上げた。


「何が」

「代銭で布が足りないと言うなら、五貫文で何疋買えたか、調べておくべきです」

「平岡も、何疋調えられるか調べておらなんだ」

「はい」

「同じではないか」

「同じです」


 葵は素直に認めた。双方とも、相手の法的な弱点ばかり見ていた。


 平岡家は、累年代銭を受け取ったこと。

 鹿島神宮は、布納の旧例があること。


 けれど奉行人が聞いたのは、もっと具体的だった。


 現物を何疋用意できる。代銭で何疋買える。鹿島の神人は何人いる。そのうち何人の衣が不足している。


 訴訟は、理屈だけでは進まない。数を言わされる。数がわからなければ、わからないことまで記録される。


「三成様なら……」


 葵は呟いた。

 小夜が顔を上げる。


「みつなり」

「何でもありません」


 石田三成なら、最初に員数を調べる。何人、何疋、何日、いくら。そう思った。でも、三成が一人で全部数えるわけではない。現地から報告を上げる者がいる。帳簿をつける者がいる。誤りを確かめる者がいる。その全部が揃わなければ、奉行にも数字は出せない。


 葵は、弟のことも思い出した。

 アラビア語を覚えて商社へ入りたいと言っていた弟。知らない土地で、人に聞く。条件を確かめる。数字を揃える。届くかどうかを判断する。それができなければ、物は動かない。


 布十疋。


 ただの三文字だった。


 その三文字を現実にするために、何人が必要なのか。

葵には、ようやく見え始めていた。




 返事が届いたのは、三日目の夜明け前だった。文を持ってきた男は、泥だらけだった。途中で馬を替え、ほとんど休まず走ったらしい。


 家忠が封を切る。小夜が読み上げた。


 長沼郷の藤四郎家は、いまもある。旧例の布を織った女も、生きている。名は千世。ただし、機が一つ壊れている。細い糸が足りない。手伝っていた娘は嫁いだ。今年中に調えられるのは二疋。無理をすれば三疋。十疋は不可能。


 部屋が静かになった。


「二疋」


 家忠が言った。


「多くて三疋です」


 葵は答えた。十疋には遠い。でも、零ではない。


「理由も書いてあります」


 機、糸、人手。奉行人に答えられる。


「これを持って行きます」


 葵が言うと、家忠は文を見た。


「惣領家の使者が聞き取っただけではないか」

「誰に、いつ聞いたか書いてあります」

「千世本人の文ではない」


 葵は止まった。


 ……確かに。千世が書いたものではない。名主と惣領家の使者が聞き取り、書いた報告だった。

 第三番引付で、どこまで証拠として扱われるか。


「出さないよりはいいです」


 葵は言った。


「ただし、確実な証文だとは言わないでください」

「何と申す」

「現地へ人を遣わし、聞き取ったところ、と」


 強く言いすぎない。確実でないものを、確実だと装わない。また同じだった。勝てない主張を、大きく言わない。




 二度目の問答では、鹿島側も文書を持ってきていた。


 神人の人数。前年に購入した布の数量。代銭五貫文のうち、運送や仲介に使った銭。旧例の規格に合う布を、市で何疋調えられたか。

 前回、答えられなかった数字が並んでいる。


 葵は、少し悔しかった。鹿島側も、三日で調べてきた。当然だった。相手は訴訟に慣れている。


「平岡」


 奉行人が呼ぶ。


「現物納の可否、申せ」


 家忠が答えた。


「長沼郷の機織りに尋ねたるところ、当年中に調え得るは二疋、多くて三疋にござる」

「誰に尋ねた」

「同郷、藤四郎家の千世」

「平岡自ら尋ねたか」

「惣領家より使者を遣わした」

「なぜ惣領家を介した」

「旧来、同家が御布を取りまとめておったゆえ」


 筆が動く。


「千世本人の書付は」

「ござらぬ」

「ならば、二疋ないし三疋というは、伝聞か」


 家忠が止まる。葵も止まった。


 伝聞。


 そう言われれば、その通りだった。家忠は答えた。


「現地へ遣わした者の聞き取りにござる」

「確実に三疋を納め得ると申すにはあらず」

「二疋は調う見込み。三疋目は、糸の調達次第」


 よい。


 三疋と断定しない。二疋は見込み。三疋目は条件付き。


 奉行人が、報告書を見た。


「機一つ破損。糸不足。人手なし」

「左様」

「これらを調えれば、来年以降は増やせるか」

「いまだ、千世と約しておらぬ」


 葵は、心の中で呻いた。そこまで聞かれる。今年の話だけではない。来年以降。鹿島神宮が懸念していた通り、今年だけ二疋納めても、来年また同じ争いになる。


「約しておらぬ以上、増やせるとは申せぬな」

「左様」


 筆が動く。不利ではある。でも、事実だった。


 次に鹿島側が呼ばれた。


「鹿島」

「は」

「代銭五貫文にて、前年、旧例の布を何疋調えた」


 則実が答える。


「四疋にござる」


 葵は、顔を上げた。五貫文で四疋。十疋には届かない。


「残余六疋は」

「他所領より納められた布を回しました」

「その結果、他所領の分に不足は生ぜざりしか」


 則実が止まった。


「生じました」

「いかほど」

「三疋」


 筆が動く。平岡家分が代銭になる。鹿島神宮は、その銭で四疋買う。足りない六疋を、ほかの納入分から回す。そのため、別の用途で三疋不足する。


 布不足は、ただの泣き言ではなかった。数字になった。


「神人の衣料に欠けると申すな」

「左様」

「衣を新調できざりし者、何人」


 則実が人数を答えた。


 年老いた神人が、隣でじっと座っている。袖口の継ぎ。あれは、法廷用の演出ではなかったのかもしれない。


 奉行人が問う。


「されど、平岡へ今年より現物十疋を命ずれば、ただちに調うとの見込みありしや」


 則実が黙った。


「答えよ」

「旧例なれば、調うべきものと」

「見込みを問う」


 則実は、少し顔を伏せた。


「確かめてはおりませぬ」


 葵は、胸の内側で何かがほどけた。鹿島神宮も、平岡家と同じだった。旧例がある。だから納められるはず。そう考えた。


 実際に機が残っているか。糸があるか。誰が織るか。そこまでは調べていない。


 双方とも、文書に書かれた義務を見ていた。布を作る人間を見ていなかった。


 奉行人は、双方の文書を見た。


「鹿島は、旧例により十疋を求む。されど、新地頭へ二月余り前に告げたるのみ。現地において十疋調達可能なりや確かめず」


 鹿島側が頭を下げる。


「平岡は、累年代銭を理由に不納を争う。されど、代銭五貫文を当時用意せず、現物調達の可否も問状を受くるまで確かめず」


 家忠が頭を下げる。

 両方とも、痛いところを並べられた。どちらか一方を叱っているわけではない。事実を、同じ調子で置いているだけだった。


 それが怖い。


 奉行人が言った。


「問答、これまで」


 今度こそ、葵は何も言わなかった。

 前回、裏を封じられた。終わったと言われた後に、書き加えようとした。同じ失敗はしない。


 双方の追加文書が集められる。役人が、問答の記録を確認する。


 葵は黙って見ていた。書き終えた小夜の筆先が、かすかに震えていた。


「どうしました」


 葵が小声で尋ねる。


「わたくしの書いたものと、あちらの記録が少し違いまする」


「どこが」


「平岡殿が、二疋は調う見込みと申されたところ。あちらには、二疋ないし三疋、確実ならず、と」


 葵は、奉行所側の記録を見た。意味が違う。完全に誤りとは言えない。けれど、平岡家が強調したかったのは、少なくとも二疋は見込めることだった。記録では、二疋も三疋も不確実に見える。


「申した方がいいです」


葵は家忠へ伝えた。

家忠が奉行人へ申し出る。


「記録につき、一点」


奉行人が顔を上げる。


「何」


「二疋については、調う見込みありと申した。三疋目のみ、糸次第にござる」


 記録を取った者が、手元を確かめる。奉行人が問う。


「報告書にも、左様にあるか」

「二疋は調う。多くて三疋、と」


 報告書が確認される。


「改むべし」


 短い一言だった。筆が入り、記録が直される。

 葵は、息を吐いた。問注日には、十分な記録が残らないこともある。けれど、目の前で気づけば訂正できる。見逃せば、そのまま残る。


 石井良助の本に書いてあった。


 現実にその場へ立つと、意味が違う。


 一語で、履行可能性が変わる。二疋は見込める。二疋ないし三疋、確実ではない。


 似ている。でも、裁く側が読む印象は違う。


 寺院が問答記録を残す理由が、葵にはわかった。


 念のためではない。次に争うため。今日、何と答えたかを忘れないため。相手の記録と食い違ったとき、直すため。


「記録って、大事ですね」


 葵が小夜に言うと、小夜は少し疲れた顔で答えた。


「いまさらにござりますか」

「いま、身体で理解しました」




 その日の夕方。第三番引付から、葵たちへ一通の文書が示された。


 申状でもない。陳状でもない。問状でもない。


「事書じゃ」


 家忠が言った。

 引付で行われた問答。提出された証拠。双方の争点。それらをまとめた文書だった。

 葵は、読み始めた。


 鹿島御布十疋の負担があること。累年、代銭五貫文を受領したこと。請取状に一時的便宜との留保がないこと。鹿島が前年、惣領家へ現物不足を告げたこと。平岡家へは二月余り前に初めて布納を催促したこと。平岡家が当時、五貫文を現に用意してはいなかったこと。現物は二疋、三疋目は条件付きで調達可能なこと。鹿島が代銭で四疋を買い、不足分を他所領から回していること。


 文章は、簡潔だった。あれほど話したことが、短くなっている。


 葵は、先を読んだ。


 惣領家が鹿島の書状を平岡家へ渡さなかった経緯。

 ない。


 平岡家が貧しく、旅費にも苦労したこと。

 ない。


 太郎左衛門が所領を譲った事情。

 ない。


 鹿島側の神人が継ぎのある衣を着ていたこと。

 もちろん、ない。


「削られています」


 葵は言った。家忠が事書を見た。


「何が」

「私たちが書いたことが」

「争いに要ることは、残っておる」

「でも、惣領家の責任が」

「鹿島と平岡の争いに必要なしと見られたのであろう」

「必要です。平岡家が知らなかった理由です」

「新地頭へ告げられざりしことは残っておる」


 葵は黙った。確かに、必要な結論は残っている。誰の落ち度で伝わらなかったか。そこまでは、この裁判で決める必要がないと判断されたのかもしれない。


 訴訟とは、自分が言いたいことを全部残す場所ではない。裁く側が必要とする形に、言葉を削られる場所だった。


「鹿島側の言葉も、削られています」


 小夜が言った。


 神事の由緒。鹿島御布を納めてきた歴代の地頭。神威。神人の奉仕。格式ある言葉は、ほとんど落ちている。残ったのは、何疋必要で、何疋不足したか。


 鹿島神宮も、鹿島神宮という巨大な存在のままでは事書に入れない。争点に必要な部分だけに、切り分けられている。


「鹿島神宮と戦うわけではありません」


 葵は、以前、自分が言った言葉を思い出した。申状の間違っているところだけを争う。いま、その逆が起きていた。


 平岡家も、家の事情ごと裁かれるわけではない。裁判に必要な部分だけを抜き出される。


 自分で切り分けたときは、武器だった。裁判所に切り分けられると、怖かった。

 奉行人が言った。


「右事書につき、双方、異議あるや」


 葵は、一字ずつ読み直した。誤りがあれば、いま言わなければならない。あとで評定へ上がれば、この文書が平岡家の代わりに読まれる。自分たちのいない場所で。


 鹿島側も、同じように文面を確認している。則実が一箇所、訂正を求めた。


 神人の人数。一人違っていた。


 訂正された。


 家忠は、二疋と三疋の区別を改めて確認した。残っている。


「異議ござらぬ」


 家忠が言った。

 則実も頭を下げた。


「異議ござらぬ」


 事書の裏が封じられた。また、一つ戻れない場所が増えた。奉行人が、頭人へ文書を渡した。頭人は、しばらく目を通した。


「本件」


 声は静かだった。


「引付のみにて決し難し」


 葵の胸の内側が、ひゅんと縮んだ。

 第三番引付で決まらない。


 では、どうなる。


 答えは知っている。知っているから、怖い。


「評定沙汰に上ぐべし」


 家忠の顔が固くなる。

 鹿島側も、わずかに姿勢を正した。


 第三番引付が、ラスボスだと思っていた。


 違った。


 ここまでの申状、陳状、請取状、問答、訂正、取捨、封印。そのすべてが、これから評定所へ上がる。当事者の言葉ではない。いま作られた事書が、自分たちの代わりに読まれる。


「評定は、いつですか」


 葵が尋ねた。


「日を追って召す」


 頭人が答えた。


 また、召文。また、違背できない。


 外へ出ると、家忠が長く息を吐いた。


「まだ、終わらぬか」

「終わりません」


 葵は答えた。


「次は評定です」

「そなたの本には、何とある」


葵は、三冊目の本を抱えた。


 評定衆が集まる。

 籤で発言順を定める。

 開闔(かいこう)が引付勘録事書を読む。

 当事者は、評議から外される。

 順に意見が述べられる。

 不当があれば、引付へ差し戻される。

 問題がなければ、裁許の方向が決まる。


 知っている。全部、知っている。


「次は」


 葵は言った。


「私たちがいないところで、私たちの話が決まります」


 家忠は、何も言わなかった。葵も、それ以上言わなかった。


 手続を知っていた。だから、次に何が起きるかわかった。わかるたびに、逃げ道が一つずつ消えていった。



(第22話 了)

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