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第21話 引付問答、聞かれたことだけ答えてください

 鎌倉は、葵が思っていたより狭かった。


 山と海に挟まれた道に、人も馬も荷も押し込められている。


 武士、僧、商人、使者、従者。

 何かの訴えに来たらしい者。

 何かに訴えられたらしい者。


 皆が、どこかへ急いでいた。


「鎌倉って、もっと広いと思っていました」


 葵が言うと、家忠は振り返らなかった。


「何を見て申しておる」

「地図です」

「ちず」

「何でもありません」


 観光ではない、訴訟である。それでも葵は、きょろきょろしたくなった。ここが、『吾妻鏡』に何度も出てきた鎌倉。


 誰が評定衆になった、誰が引付の頭人になった、誰がどの番へ配された。


 ゼミでの葵が、全部同じに見えると思った場所。

 その部署の一つへ、いま自分たちは呼び出されている。

 第三番引付。鹿島神宮の訴えを扱う場所。


 胸の内側が、ひゅんと縮んだ。


「葵殿」


 小夜が、隣で小声を出した。


「お顔が白うございます」

「元からです」

「先ほどより白う」

「黙っていてください」


 三冊の本は、家人に持たせていた。本当は自分で抱えていたかった。でも、鎌倉へ着くまでに肩が死んだ。三冊の鈍器は、今日も重かった。




 第三番引付の建物は、葵が想像していた法廷とは違った。高い壇があるわけではない。裁判官が黒い服を着ているわけでもない。ただ、文書を置く場所があり、人が座る場所があり、筆を持つ者がいた。


 それだけだった。


 だから余計に怖かった。


 ここでは、特別な舞台装置がなくても、人の所領を動かせる。平岡家が通されたとき、鹿島神宮側はすでに来ていた。則実もいる。その隣には、年老いた神人が座っていた。衣は白かった。けれど、袖口に継ぎがあった。


 葵は、見なかったことにしようとした。できなかった。


 鹿島側が追申で何を言うつもりなのか、少しだけわかった気がした。


「平岡太郎家忠」


 名を呼ばれた。家忠が前へ進む。葵は、その斜め後ろに控えた。被衣を深く被る。


 小夜は、紙と筆を持って座った。


 奉行人の前には、鹿島神宮の申状と、平岡家の陳状が置かれている。四通の請取状も。惣領家から写した、昨年の鹿島の書状もあった。


 葵は、それを見て目を止めた。こちらからは、まだ出していない。


 鹿島側が提出したのだ。やはり、持っていた。


「平岡」


 奉行人が言った。


「鹿島御布十疋の負担あること、相違なきか」


 家忠が答える。


「相違ござらぬ」


 短い。よい答えだった。余計なことを言っていない。


「右御布、先年より代銭五貫文をもって弁済したること、相違なきか」

「相違ござらぬ」

「今年も代銭を納めんと欲したと申すな」

「左様」


 奉行人は、陳状から目を上げた。


「いつ、納めんとした」


 家忠が、少し止まった。葵の胃が縮んだ。


 いつ。


 問われてみれば、陳状には書いていない。鹿島の使者が来た日。家忠は代銭納を提案した。けれど、実際に五貫文を使者の前へ差し出したわけではない。


「鹿島神人参向の折」


 家忠が答えた。


「銭五貫文、その場にありしや」


 来た。

 葵は、被衣の下で唇を噛んだ。


 納める意思がある。

 実際に銭を用意している。


 この二つは、同じではない。


「蔵にあり」


 家忠が答えた。葵は、家忠を見た。本当にあったのか。旅費を集めるだけでも、あれほど苦労した平岡家に。


 奉行人は、さらに問う。


「五貫文、員数を改めしや」


 家忠が黙った。まずい。


「答えよ」

「改めては、おらぬ」

「ならば、五貫文ありとは、何をもって申す」


 家忠の肩がわずかに固くなった。葵は、口を挟みたくなった。蔵の帳簿上では、そのくらいあると思っていた。米や物を売れば調えられる。納める意思はあった。言いたいことはいくらでもある。

 でも、奉行人が聞いているのは一つだけだった。


 その場で、五貫文を実際に用意していたか。


 家忠は答えた。


「その時、ただちに員数を揃えたるにはあらず」


 鹿島側の則実が、わずかに顔を上げた。葵の胸の内側が、ひゅんとした。不利な答え……でも、嘘をつくよりはよい。


「されど」


 家忠が続けようとした。葵は、小声で言った。


「聞かれたことだけ」


 家忠が止まった。奉行人の視線が、葵へ向いた。


「その女は」


 家忠が答えた。


「平岡家にて文書を預かる者にござる」

「問答に口を挟むべからず」

「申し訳ございません」


 葵は頭を下げた。心臓が速い。


 石井良助の本には、問答の手続が書いてあった。訴人と論人が寄り合い、奉行人が争点について問う。答えは記録される。その記録が、後の審理に使われる。


 知っていた。


 だから、家忠が余計なことを言おうとした瞬間、止めずにはいられなかった。

 言葉は、口から出たら消えない。

 ここでは、紙に残る。


 奉行人は、家忠へ戻った。


「平岡は、代銭を納めんとの意思ありしことをもって、不納にあらずと申すか」

「左様」

「銭を用意せずともか」


 家忠の顔が険しくなった。葵は、答えを考えた。


 ここで「はい」と言えば、意思だけで年貢を納めたことになると言っているように聞こえる。「いいえ」と言えば、平岡家が未納であることを認めることになる。


 質問の形が、悪い。いや、質問は悪くない。逃げ道がないだけだ。


 家忠が答える前に、奉行人が言った。


「答えは、しかりか、しからずか」


 冷たい声ではなかった。怒ってもいない。だから怖かった。


 家忠が言う。


「代銭を納め終えたとは申さず。ただし、従前の納法に従わんとしたるを、鹿島より不納と称せらるるは承引し難しと申す」


 葵は、息を吐いた。


 よい。


 納付済みとは言わない。ただし、不納として責められるのは争う。質問に真正面から答えながら、主張の範囲を広げすぎていない。


 奉行人は、記録を取る者へ何かを告げた。筆が動く。


 家忠の今の答えが、残る。


 次に、鹿島側が呼ばれた。


「鹿島雑掌」


 則実が頭を下げる。


「累年、代銭五貫文を請け取りたること、相違なきか」

「相違ござらぬ」

「四年に及ぶか」

「左様」

「請取状に、今年限り、あるいは便宜として許すとの文言なきこと、相違なきか」


 則実が、少し止まった。


「文言はござらぬ」

「何をもって、一時の便宜なりと申す」

「鹿島御布は、旧来、布をもって納むる年貢にござる。代銭を請け取るといえども、その本義を捨てたるにはあらず」

「本義を問うにあらず」


 奉行人は淡々と言った。


「代銭を一時の便宜として請け取ったとの証文を問う」


 則実が黙った。


 鹿島神宮にも、容赦がない。

 常陸国一宮。第三番引付で所定の扱いを受ける大社。それでも、証文がなければ、証文はない。


「ござらぬ」


 則実が答えた。

 筆が動く。鹿島側の不利な答えも、同じように残る。葵は、少しだけ背筋を伸ばした。


 第三番引付は、鹿島神宮を勝たせるための場所ではない。平岡家を助けるための場所でもない。双方の言葉を、必要な形に削る場所だった。


「されど」


 則実が続けた。


「昨年末、惣領家へは、代銭にて御布を調え難き旨を申し入れておりまする」


 昨年の書状が開かれる。

 奉行人が問う。


「新地頭たる平岡へ、同じ旨を告げたるや」

「平岡へ知行替わりたること、当初は承知しておりませぬ」

「いつ知った」

「今年、年貢催促の折」

「知った後、平岡へ改めて布納の旨を告げたるか」

「使者を遣わしました」

「布十疋を納めよと」

「左様」

「納期まで、いかほどありし」


 則実が日付を答えた。奉行人が、指を折る。


「二月余り」

「左様」

「前年より惣領家へ申しておきながら、新地頭へは二月余り前に初めて告げたるか」


 則実の顔が、わずかに強張った。


「知行替わりを知らざりしゆえ」

「知らざること、平岡の過失か」


 則実は答えなかった。葵の胸が、わずかに軽くなった。


 ここだ。


 平岡家が布納へ戻る話を知らなかったこと。


 鹿島は惣領家へ伝えたが、惣領家は平岡家へ伝えなかった。鹿島も、新地頭へ十分な猶予をもって告知していない。平岡家だけを不納と責めるのは難しい。


 奉行人は、今度は家忠へ尋ねた。


「平岡は、惣領家より鹿島御布の負担を告げられざりしか」

「負担そのものは、帳簿にて承知した」

「布納へ戻す旨は」

「告げられず」

「惣領家へ、旧来の納法を尋ねたるか」


 家忠が止まった。葵も止まった。


 尋ねていない。


 譲状を受け取った。帳簿を見た。近年は代銭だった。そのまま引き継げると思った。わざわざ旧来の布納について、惣領家へ確認していない。


「尋ねておらぬ」


 筆が動く。


 平岡家側にも、確認不足がある。一方的な被害者ではない。奉行人は、どちらにも逃げ道を与えない。


「平岡」

「は」

「鹿島御布十疋のうち、今年、現物にて納め得るはいかほど」


 家忠が、葵を見そうになった。

 見ないでほしい。答えはない。なぜなら調べていない。


 長沼郷に機を持つ家があった。藤四郎女。その情報までは得た。でも、いま何疋織れるかは確かめていない。


「いまだ、確かめておらぬ」


 奉行人の眉が、わずかに動いた。


「鹿島は布を求め、平岡は代銭をもって弁済せんと申す。しかるに平岡は、一疋たりとも調え得ぬかを確かめておらぬと」


 言い方が厳しい。でも、その通りだった。葵は、法的な争点ばかり見ていた。


 代銭受領の先例。不納と称し得るか。新地頭への告知。


 それらは重要だった。


 けれど、鹿島神宮が本当に欲しいのは、布だった。


 奉行人は、鹿島側へ向いた。


「鹿島」

「は」

「布十疋の用途を、詳しく申せ」


 則実は答えた。


「御神事に用いる品、ならびに奉仕の神人らの衣料に充てまする」

「おのおの、いかほど」


 則実が止まった。


「定めは年により」

「十疋すべて、当年の神事に要るにはあらず」

「一部は神人の衣料に」

「その人数」


 年老いた神人が、則実の隣で身じろぎした。則実は人数を答えた。


「代銭五貫文をもって、市にて布を買い得ぬと申すな」

「旧例の品を、十疋揃えること叶いませぬ」

「いかほどならば買い得る」

「時価によりまする」

「昨年は」


 則実は答えられなかった。

 葵は、少し驚いた。鹿島側も、正確な市場価格を調べていない。代銭では布が足りない。その実感はある。神人の衣服も不足している。

 しかし、五貫文で何疋買えるのか。不足分はいくらなのか。そこまで数字にしていない。


 奉行人は、鹿島側にも言った。


「不足を申すならば、員数を明らかにすべし」


 筆が動く。


 双方とも、宿題を出された。

 平岡家は、現物を何疋用意できるか。

 鹿島神宮は、布十疋の用途と、代銭で調達できない事情。


 法理だけでは、終わらない。


 奉行人は、申状と陳状を見比べた。


「双方、三日後、右の旨を申すべし」


 三日。


 葵は、被衣の下で目を閉じた。


 短い。


 鎌倉から長沼郷へ人を走らせ、機織りの家が現存するか確かめ、何疋用意できるか返事をもらう。


 三日。


 無理では。


 でも、召文に背けないのと同じで、命じられた以上はやるしかない。


「本日の問答、これまで」


 その言葉を聞いた瞬間、葵は肩の力を抜いた。終わった。少なくとも、今日は。


 小夜も、筆を置いた。家忠が、わずかに息を吐く。


 奉行人が続けた。


「双方の訴陳状、寄せよ」


 葵は、意味を理解するまでに一拍かかった。


 鹿島側の申状。平岡家の陳状。添付された請取状。昨年の書状。


 それらが、前へ集められる。


「裏を封ずべし」


 葵の肩が、再び固まった。

 役人が文書を重ねる。継ぎ目を揃える。裏へ判を据える。


 もう、勝手に差し替えられない。書き加えられない。


 葵は、急に思い出した。

 惣領家から譲状と一緒に昨年の書状を渡されなかったこと。それを、もっと強く陳状に書けばよかった。

 鹿島が新地頭への変更を知らなかったとしても、年貢を催促する前に確認すべきだったこと。

 平岡家が代銭五貫文を実際には用意していなかった理由も、もう少し説明したい。


「待ってください」


 声が出た。奉行人が葵を見た。


「何じゃ」

「陳状に、一つだけ」


 家忠が葵を見た。小夜も、筆を持ち直しかけた。


「書き加えたいことが」

「問答は終わった」


 奉行人は言った。


「でも、一行だけ」

「終わった」


 怒鳴られなかった。叱られもしなかった。ただ、終わったと言われた。


 文書の裏には、すでに判が据えられていた。その線を越えて、葵の思いつきを差し込む場所はない。


 役人が文書を持ち上げた。自分たちの言葉が、手元から離れていく。


 これから、引付の中で問答の記録が整えられる。どの主張を残すか。どの主張を捨てるか。何を争点として事書にするか。それを決めるのは、もう葵ではない。


 葵は、石井良助の本を抱えた。


 手続は知っていた。問答が終われば、訴陳状の裏を封ずる。


 知っていた。


 知っていたのに、まだ書ける気がしていた。自分が思いつけば、間に合う気がしていた。間に合わなかった。手続を知ることと、その手続にかけられることは、まるで違った。


 外へ出ると、家忠が言った。


「なぜ、先に書かなんだ」

「今、思いついたので」

「今では遅い」

「わかっています」

「手続を知っておるのではなかったか」


 葵は、何も言えなかった。知っていた。だからこそ、遅いこともわかっている。小夜が、小さく言った。


「三日後の答えには、書けませぬか」


 葵は顔を上げた。

 追加で求められたのは、現物納の可能性。鹿島側には、布の用途と不足の事情。新しい答えへ、何でも書けるわけではない。でも、現物を用意できない理由として、所領を譲られたばかりで供給の縁を引き継いでいないことなら書けるかもしれない。


「書ける範囲を、考えます」


 葵は言った。


 何でも書けばよいわけではない。問われたことに答える。その中で、必要な事実を残す。


 鎌倉幕府の裁判は、言いたいことを全部言う場所ではなかった。聞かれたことに、遅れず、外さず、証拠を添えて答える場所だった。


 そして一度終わったところには、戻れない。


 葵は、三冊目の本を抱え直した。

 本は重かった。


 封じられた陳状は、もう手元になかった。


 次に何が起きるかは、知っている。三日後、もう一度問答がある。その答えも記録される。そして、その記録から、誰かが平岡家の言葉を選び取る。


 何が残るかは、まだわからなかった。



(第21話 了)

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