第20話 召文、無視できません(徳政令も来ます)
「鹿島の神人とともに、鎌倉へ参るべし」
家忠が読み上げた。
短い文だった。
葵は、三冊目の本を抱えたまま、文書を見つめた。
第三番引付からの召文。
平岡家の陳状を読んだ奉行人が、双方から直接事情を聞くと決めたらしい。
「行かない、ということは」
葵が尋ねた。
家忠は、召文を畳まなかった。
「できぬ」
「病気でも?」
「代人を立つ」
「銭がなくても?」
「借りる」
「道が塞がっても?」
「塞がれる前に出る」
葵は、ようやく理解した。
これは招待状ではなかった。
来られるなら来い、でもない。
呼ばれた者は、来なければならない。
「召文に背いたら、どうなるんですか」
小夜が、家忠より先に答えた。
「申すべきことなし、と見られましょう」
「欠席裁判ですか」
「けっせき」
「来なかった方の話は聞かずに、相手の言う通りに決められる」
家忠が言った。
「それで済めばよい」
葵は顔を上げた。
「済まないんですか」
「召文に違背したこと自体を、咎められることもあろう」
葵の胸の内側が、ひゅんと縮んだ。
書面を出した。
証拠も添えた。
それでも、呼ばれたら行かなければならない。
行かなければ、陳状に何を書いたか以前の問題になる。
葵は石井良助の本を開いた。
召喚。
出頭。
問注。
対決。
引付問答。
文字では知っていた。
でも、実際に自分たちへ召文が下ると、意味が違って見えた。
手続を知っている。
だから、無視した先に何があるかもわかる。
知識は安心をくれなかった。
逃げられないことを、はっきり教えただけだった。
「いつまでに鎌倉へ」
御方様が尋ねた。
「来月五日」
家忠が答えた。
今日は、月の半ばを過ぎている。
道が順調でも、何日もかかる。
旅の支度を考えれば、猶予はほとんどない。
「鎌倉まで、何日ですか」
「六日。雨が続けば、さらに」
「滞在は」
「沙汰次第じゃ」
「沙汰次第」
葵は嫌な言葉だと思った。
一日で終わるかもしれない。
何日も待たされるかもしれない。
一度の問答で済むかもしれない。
追加の証文を求められるかもしれない。
帰る日が、決められない。
旅費も決められない。
御方様が、小夜に言った。
「蔵の出入りを持て」
小夜が立ち、しばらくして帳面を持って戻った。
葵は覗き込もうとした。
御方様が閉じた。
「そなたは見ぬ方がよい」
「見ないと計算できません」
「見ても銭は増えぬ」
正論だった。
家忠が言った。
「借上より借りる」
葵は、思わず顔を上げた。
「また借上ですか」
「銭を持つ者から銭を借りるのは、おかしきことか」
「おかしくはないですけど、前に揉めたばかりですよね」
「前の借上とは別の者を使う」
「そこではありません」
家忠は、葵を見た。
「では、どこじゃ」
「何を担保にするんですか」
家忠は答えなかった。
御方様も、口を挟まなかった。
それだけで、答えはわかった。
「鹿島の年貢がかかっている、あの所領ですか」
「ほかに、まとまった銭を得られる物がない」
「駄目です」
「なぜじゃ」
「その土地、いま何人の権利が乗っていると思ってるんですか」
家忠が眉を寄せた。
葵は指を折った。
「耕している百姓。名主。地頭の平岡家。惣領家。鹿島神宮。寺への灯明料もある。そこへ借上の質権まで乗せるんですか」
「質に入れるだけじゃ」
「その『だけ』が一人増えるんです」
「銭を返せば、質は解ける」
「返せなかったら」
「所領を渡す」
「鹿島神宮への布十疋も一緒に?」
「土地にかかる負担ならば、そうなろう」
「借上が引き受けると思いますか」
「所領を取るならば、負担も取る」
「そんなにきれいに移りますか」
家忠は黙った。
葵にも、どうなるかはわからない。
だから怖かった。
中世の土地は、紙一枚で所有者だけを入れ替えれば済むものではない。
取る権利もある。
納める義務もある。
耕している者もいる。
古い縁もある。
そこへ質入れが加わる。
そして、葵はその先を知っていた。
四年後。
土地を売った、質に入れた御家人たちに、幕府が所領を戻させようとする。
「待ってください」
葵は言った。
「何をじゃ」
「その土地を質に入れるのは」
言うべきではない。
未来のことは、なるべく言わない方がいい。
そう思っていた。
けれど、すでに借上との争いにも、中禅寺との和与にも、鹿島神宮との訴訟にも関わっている。
いまさら、歴史へ触れていないふりはできない。
「四年後」
葵は言った。
部屋が静かになった。
「四年後、永仁の徳政令が来ます」
家忠が眉を寄せた。
「徳政令とは」
小夜の筆が、止まった。
御方様だけが、葵の顔をじっと見ていた。
葵は、自分が何を言ったかを、遅れて理解した。
永仁元年。
四年後。
未来の法令。
誤魔化しようがない。
「御家人が売ったり、質に入れたりした所領を、取り戻させる命令です」
家忠の目が変わった。
「取り戻せるのか」
「はい」
「ならば、なおさらよい」
葵は、予想していたのに言葉に詰まった。
「いま質に入れて銭を得る。四年後、徳政令にて取り戻す」
「そういう使い方をする法令では」
「結果は同じであろう」
「同じではありません」
「何が違う」
葵は石井良助の本を見た。
そこに答えは書いていない。
徳政令の条文は知っている。
教科書的な評価も知っている。
御家人救済のために出され、混乱を招き、翌年には一部撤回された。
失敗した徳政令。
でも、撤回されたから、土地を戻せという動きまで全部消えたわけではない。
幕府の法令が後退しても、当事者同士で返還を求める。
私的な徳政が続く。
土地の権利は、一度動けば、簡単に元へは戻らない。
「徳政令が出れば、紙の上では土地を取り戻せるかもしれません」
「ならば」
「でも、借上が貸した銭は戻りません」
「借上のことを案ずるのか」
「違います」
葵は強く言った。
「貸した銭を取り上げられるなら、次から誰も御家人に貸さなくなります」
家忠は黙った。
「徳政令が一部撤回されても、土地を返せ、返さないという争いは続きます。私的に返す話をつけることもあります」
「ならば、返るのであろう」
「名前だけ戻っても、全部は戻りません」
葵は、鹿島御布の帳簿を指した。
「鹿島神宮への布十疋は消えません。百姓も、名主も消えません。惣領家との関係も残ります。借上だけが、はいそうですかと引くとも限りません」
土地だけが、裸で戻ってくるわけではない。
権利も。
義務も。
恨みも。
全部ついてくる。
「では、その徳政令とやらは、何のために出る」
家忠が尋ねた。
葵は答えられなかった。
教科書の文章なら言える。
御家人の窮乏を救済し、幕府の基盤を立て直すため。
でも、それは目的の説明であって、現場で何が起きるかの答えではない。
「わかりません」
葵は言った。
「何」
「法令が、何のために出たかは習いました。でも、出たあとで、皆がどう生きたかまでは、全部わかりません」
「未来の者ではないのか」
家忠の言葉に、小夜が息を呑んだ。
御方様は動かなかった。
葵は、もう否定しなかった。
「未来から来ました」
声に出すと、思ったより軽かった。
「でも、未来を全部知っているわけではありません。残った文書を読んだだけです」
平岡家の名を、葵は知らない。
この訴訟の結末も知らない。
家忠が四年後に所領を持っているかも知らない。
史料に残らなかった人間の未来を、葵は何一つ知らない。
「私は、永仁五年に徳政令が出ることは知っています」
葵は続けた。
「でも、それでこの家が助かるかは、知りません」
家忠は、長く黙っていた。
怒るかと思った。
気味悪がるかもしれない。
嘘だと言うかもしれない。
家忠は、ただ召文を見た。
「ならば、いま鎌倉へ行かねばならぬことは、変わらぬな」
「変わりません」
「銭が要ることも」
「はい」
「質入れを避けろと申す」
「できれば」
「ほかに当ては」
葵は、少し考えた。
ある。
頼りたくない相手なら。
「惣領家です」
家忠が、露骨に嫌そうな顔をした。
「また太郎左衛門か」
「この訴訟は、惣領家が譲った所領から始まっています」
「譲られた後は、平岡の責めじゃ」
「鹿島から昨年届いた書状を、渡さなかった責任があります」
御方様が言った。
「旅費の一部を出させよう」
家忠が母を見た。
「母上」
「譲った所領を第三番で失われては、惣領家の面目にも関わる」
「太郎左衛門が認めるか」
「認めさせる」
御方様は静かだった。
家忠は、反論をやめた。
葵は思った。
御方様は、未来を知らない。
法令集も持っていない。
でも、誰に何を負担させればよいかを知っている。
この人が一番、奉行向きなのではないだろうか。
太郎左衛門は、旅費の半分を出した。
もちろん、素直には出さなかった。
「なぜ、わしが」
「鹿島の書状を渡さなかったからです」
葵が言った。
「布納へ戻すとは書いておらぬ」
「第三番は、そこも聞くと思います」
「聞かれれば、そう答える」
「家忠殿と一緒に鎌倉へ来ますか」
太郎左衛門は黙った。
結局、銭を出した。
残りは、平岡家の蔵からかき集めた。
米を売った。
古い馬具を売った。
御方様がしまっていた銭も出した。
借上からは借りなかった。
出発の日は、すぐに来た。
家忠、葵、右筆の小夜、家人が二人。
葵は三冊の本を、風呂敷で厳重に包んだ。
「すべて持っていかれるのですか」
小夜が尋ねた。
「全部持っていきます」
「重うござりましょう」
「重いです」
「法令集は、今回使わぬのでは」
「何が起きるかわからないので」
借上には法令集。
中禅寺には判例集。
鹿島神宮との訴訟には、ようやく石井良助の手続集。
三冊目を使うために、ここまで来たようなものだった。
「葵殿」
小夜が言った。
「未来より来たというのは、まことにござりますか」
葵は、小夜を見た。
「はい」
「未来では、皆、鎌倉の訴訟を知っておられるので」
「知りません」
「では、葵殿だけが」
「歴史学科なので」
小夜は、理解できない顔をした。
「昔のことを勉強するところです」
「なぜに」
葵も、ときどき思う。
なぜ、過ぎた時代の文書を読むのか。
なぜ、誰が何番引付の頭人になったかを必死になって調べるのか。
なぜ、寺が残した申状案や法令集を読み解こうとするのか。
少し前までなら、石田三成が好きだから、と答えたかもしれない。
いまは、少し違う。
「こういうときに、困らないためかもしれません」
葵は言った。
小夜は、さらに理解できない顔をした。
当然だった。
平岡家の門を出る。
道の先に、鎌倉がある。
第三番引付がある。
召文に応じて出頭すれば、次は問答になるかもしれない。
申状と陳状のどこを聞かれるか。
何を答えれば、どの言葉が記録に残るか。
答えを誤れば、あとで直せるのか。
石井良助の本には、おおよその手続が書かれている。
葵は、次に何が来るかを知っていた。
だから、怖かった。
知らなければ、ただ鎌倉へ向かえたかもしれない。
知っているから、わかる。
この召文から先、手続が一つ進むたびに、言い直せることが減っていく。
逃げ道が、一つずつ閉じていく。
葵は、三冊の本を抱え直した。
重かった。
けれど、手放す気はなかった。
(第20話 了)




