第17話 新しい所領、権利が多すぎ問題
第三部、最終章です。
翌朝、葵は御方様に呼ばれて、奥の間へ向かった。
御方様の隣には、一人の少女が座っていた。
年は、葵より少し下だろうか。十六、七歳くらいに見える。薄い小袖に袴をつけ、髪を後ろでひとつにまとめている。顔立ちは、取り立てて華やかというわけではない。けれど、背筋をまっすぐに伸ばして座る姿には、妙な落ち着きがあった。
少女の前には、硯と筆、それから紙が置かれていた。
「葵殿」
御方様が言った。
「昨日、申しておった右筆じゃ」
少女が、畳に手をついて頭を下げた。
「小夜と申しまする」
「葵と申します。よろしく、お願いいたします」
葵も被衣の下で頭を下げた。
小夜。
聞き取りやすい名前で、少しほっとした。
中世人の名前は、同じような通称と官途名が多すぎる。史料を読んでいても、途中から誰が誰だかわからなくなることがある。
小夜なら、覚えられる。
たぶん。
御方様が、小夜に尋ねた。
「文字は、どれほど書ける」
「仮名は、一通り。漢字は、家の帳に使うものと、消息に出るものならば」
「算用は」
「米、銭、布の出入りほどならば」
葵は、被衣の下で少し顔を上げた。
(米、銭、布)
(もう私より役に立ちそう)
葵は漢文なら、ある程度読める。御成敗式目や追加法も、訓読すれば意味が取れる。崩し字も、簡単なものなら何とかなる。
でも、米俵を何俵集めれば何人が何日食べられるのか。
布一反が、どれほどの長さで、どれほどの値になるのか。
銭一貫文で、実際に何が買えるのか。
そういうことは、まるでわからなかった。
大学の講義では、年貢や段銭や棟別銭という言葉は出てきた。けれど、それを実際に数えたことはない。
小夜は、葵の方を見た。
「葵殿のお申し付けになられたことを、書き留めればよろしきにござりますか」
「はい。あの、わたくしの申すことだけでなく、相手の申すことも、できるかぎり、そのまま書き留めていただきたいです」
小夜は、一度瞬いた。
「そのまま、にござりますか」
「はい。言った、言わないに、なると困りますので」
小夜は、御方様を見た。
御方様が、わずかに笑った。
「葵殿は、左様なお方じゃ。申したことは、申した通りに。書いたことは、書いた通りに。お前も、慣れるがよい」
「承知いたしました」
小夜は、再び頭を下げた。
葵は、少しだけ、胸を張った。
(私、右筆に指示してる)
(法務担当っぽい)
借上の使いと初めて対峙した頃には、紙を借りることにも遠慮していた。それがいまは、自分の言葉を書き留める者がつく。
地位が上がった。
たぶん。
ただし、右筆に何を書かせればよいのかは、まだ、よくわからなかった。
御方様は、傍らに置かれていた紙の束を取った。
「ちょうどよい。小夜の初仕事にいたそう」
葵は、紙の束を見た。
昨日、惣領家から譲られた所領に関する文書だった。譲状だけではない。古い帳簿、年貢の書き付け、境を記した図のようなものまで、何枚かが束ねられている。
「惣領家より譲られた田畠について、詳しく確かめておきたい」
御方様が言った。
「譲状を得たからとて、そのまま支配できるとは限らぬ。現地の者にも、惣領家にも、古くからの取り決めがあろう」
葵は頷いた。
それは、中禅寺との一件で、嫌というほど学んだ。
文書に書かれている権利と、現地で実際に行われている支配は、同じとは限らない。
そして、書かれていない負担が、後から出てくることもある。
(いやな予感がする)
葵は、三冊の本を、自分の隣へ置いた。
小夜は、それを見て、わずかに目を見開いた。
「葵殿は、いつも、それほどの書物をお持ちになられるのでございますか」
「はい」
葵は答えた。
「重いです」
「左様にござりますか」
小夜は、どう返してよいかわからない顔をした。
御方様が、譲状を葵の前へ置いた。
葵は、文面を読み始めた。
平岡惣領家から、平岡太郎家忠へ。
常陸国某郡某郷内の田畠、屋敷、山野等を譲る。
境界については、東は某道、西は某川。年貢、公事については、先例に任せて沙汰すること。
葵は、そこで指を止めた。
「先例に任せて」
御方様が頷いた。
「気になるか」
「はい」
気になる。
非常に、気になる。
中世文書に出てくる「先例に任せる」は、便利な言葉だった。
全部を書かなくても、その土地の者なら、何を指しているかわかる。毎年行われてきた通りにすればよい。
でも、その土地の者ではない葵には、何もわからない。
「先例とは、具体的には何でしょうか」
葵が尋ねると、御方様は、古い帳簿を示した。
「それを、これより確かめる」
葵と小夜は、帳簿を一枚ずつ開いていった。
田の広さ。
名主の名。
納められた米の量。
畠からの銭。
山野からの薪。
人夫。
馬の負担。
寺への灯明料。
惣領家への年貢。
何年か前の洪水による損亡。
その次の年の減免。
葵は、読み進めるうちに、だんだん頭が痛くなってきた。
(権利が多い)
(負担も多い)
一つの土地から、米が出る。
その米の一部は耕している百姓のものになり、一部は名主の取り分になり、一部は地頭である平岡家に納められる。
でも、それだけではない。
寺へも出す。
修理の人夫も出す。
馬も出す。
道を直すときには、また別に人を出す。
土地を持つとは、田んぼから米を全部取ってよいという意味ではなかった。
たくさんの権利と負担の上に、地頭の権利が、薄く乗っている。
葵は、帳簿を前に、額を押さえた。
(中世の土地制度、面倒くさすぎる)
地頭。
本所。
名主。
百姓。
寺。
神社。
それぞれが同じ土地に手を伸ばしている。
一枚の土地に、何人乗っているんだ。
こういう重なった権利を全部調べて、土地を測って、誰が耕して、どれだけ年貢を取るか決めた秀吉様、やっぱり偉い。
太閤検地、最高。
石高制、最高。
三成様たち奉行衆、本当にお疲れさまでした。
そこまで考えてから、葵はぶんぶんと頭を振った。
「葵殿?」
小夜が、不思議そうに葵を見た。
「いえ。何でもありません」
四百年後の制度を褒めても、目の前の権利関係は消えてくれない。
ここは、永仁元年だった。
秀吉様は、当然生まれてすらいない。
葵は、再び帳簿に目を戻した。
何枚目かの紙に、見慣れない記載があった。
「小夜殿、これは、何と読みますか」
葵は、指を差した。
字が崩れていて、葵には一部が読めなかった。
小夜が紙を覗き込んだ。
「鹿島御布、と」
「かしま、おんぬの?」
「鹿島の御布にござりましょう」
御方様の表情が、わずかに変わった。
「その先を」
小夜が、声に出して読んだ。
「布十疋。毎年、霜月までに納むべきこと。代銭、五貫文」
葵は瞬いた。
「布十疋。代銭、五貫文」
「そのように、書かれておりまする」
「どちらを納めるのでしょうか」
小夜は、帳簿を見た。
「ここには、布と」
「でも、代銭とも、書いてありますよね」
「はい」
葵は、別の年の帳簿を探した。
同じ所領について記した紙が、何枚か残っていた。
五年前。
鹿島御布、十端。
四年前。
鹿島御布、代銭五貫文。
三年前。
鹿島御布、代銭五貫文。
二年前。
鹿島御布、代銭五貫文。
昨年。
鹿島御布、代銭五貫文。
葵は、並べて見比べた。
「最初は布。その後は、銭で納めています」
御方様が、紙を手に取った。
「惣領家が、布に代えて銭を納めるようになったのであろう」
「鹿島、というのは」
葵は尋ねた。
答えは、わかっていた。
けれど、できれば、違っていてほしかった。
御方様は、静かに答えた。
「鹿島の大宮」
葵は、被衣の下で、目を閉じた。
(鹿島神宮)
常陸国一宮。
古代から続く、巨大な神社。
現代の葵も、名前くらいは知っている。茨城県民なら、知らない方が難しい。初詣、剣の神様、鹿島アントラーズ。
けれど、葵にとって、それは観光地の名前だった。
歴史上の巨大権門として考えたことなど、一度もなかった。
「この所領は、鹿島神宮に布を納める負担がある、ということですか」
「おそらくは」
御方様が答えた。
「惣領家からは、そのことを聞いておりません」
「譲状には、先例に任せる、とある」
御方様は、淡々と言った。
「書かずとも、負担は引き継がれるということであろう」
葵は、譲状を見た。
先例に任せる。
たった六文字ほどの言葉の中に、鹿島神宮への布十端が、隠れていた。
(太郎左衛門殿)
(これ、知ってて黙ってたんじゃないでしょうね)
葵は、ほんの少し疑った。
けれど、すぐに、その考えを打ち消した。
昨年まで、惣領家は代銭五貫文を納めている。
太郎左衛門にとっては、毎年銭で済ませていた、小さな負担にすぎなかったのかもしれない。わざわざ説明するほどのことではないと思った可能性もある。
問題は、その五貫文を、平岡家が払えるかどうかだった。
葵は、家の財政を思い浮かべた。
無地でつぎはぎの直垂。
塗りの剥げた脇差。
借上から所領を取り戻したばかり。
惣領家との縁ができたとはいえ、急に豊かになったわけではない。
「五貫文は、重いですか」
葵が尋ねると、御方様は少し考えた。
「軽くはない。なれど、譲られた田畠から得られる分を考えれば、納められぬ額ではない」
葵は、ほっとした。
「では、今年も五貫文を納めれば」
そのとき、廊下の向こうから、足音がした。
家忠が、入ってきた。
その手には、一通の書状があった。
「母上。鹿島より、使者が参っておりまする」
御方様の顔から、わずかに表情が消えた。
葵も、家忠の手元の書状を見た。
嫌な予感がした。
ものすごく、嫌な予感がした。
「何の使者じゃ」
御方様が尋ねた。
家忠は、書状を差し出した。
「惣領家より譲られた田畠について、今年の神宮への布を、平岡家より納めよ、と」
「代銭にてか」
家忠は、首を横に振った。
「布十疋を、旧例のごとく納めよとのことにござります」
部屋が、静かになった。
葵は、並べた帳簿を見た。
五年前には、布。
その後は、ずっと銭。
今年から、また、布。
「銭では、いけないのでしょうか」
葵が聞いた。
家忠は、書状を見た。
「使者は、銭を受け取るために参ったのではない、と申しておる」
「でも、昨年までは、惣領家が五貫文で納めています」
「左様」
「では、今年も、同じ額を納めれば」
家忠は、葵の方を見た。
「鹿島は、布を求めておる」
「同じ値段の銭では、駄目なのですか」
家忠は、答えなかった。
代わりに、小夜が、帳簿を見たまま、ぽつりと言った。
「布十疋と、銭五貫文は、同じものではござりませぬ」
葵は、小夜を見た。
「でも、代銭と書いてあります」
「去年、五貫文にて布十疋を買えたとしても、今年も買えるとは限りませぬ」
葵は、言葉を止めた。
小夜は続けた。
「布にも、良きものと、粗きものがござります。長さも、幅も、違いまする。鹿島へ納める布ならば、定めの品がありましょう」
「定めの、品」
「それに、布を作る者も、運ぶ者も要りまする」
小夜は淡々と言った。
「銭があれば、いつでも同じ布が手に入るとは、限りませぬ」
葵は、しばらく、小夜を見ていた。
右筆をつけてもらった、と思っていた。
文字を書き留めるだけの少女だと思っていた。
でも、小夜は、葵の知らないことを知っていた。
「小夜殿は、鹿島へ納める布を見たことがあるのですか」
「ござりませぬ」
小夜は、首を振った。
「なれど、布は、銭ではござりませぬ」
当たり前のことを言うような口調だった。
葵は、帳簿を見下ろした。
布十端。
代銭五貫文。
現代なら、同じ価値を持つ二つの支払い方法に見えた。
でも、ここでは、そうではない。
銭は、布ではない。
銭で、同じ布を買える保証もない。
「鹿島の使者は、どこに」
御方様が家忠に尋ねた。
「表に待たせておりまする」
「何と答えた」
「帳簿を確かめた上で、返答すると」
御方様は頷いた。
「では、まず使者の申すことを聞こう」
葵は、慌てて三冊の本を抱えた。
小夜も、硯と紙を持ち上げた。
表の間には、一人の男が待っていた。
僧ではなかった。
烏帽子をかぶり、清浄そうな白い小袖の上に狩衣をまとっている。年は四十ほど。顔には、怒りも、威圧もなかった。
ただ、静かに座っていた。
御方様と家忠が座り、葵はその後ろに被衣を被って控えた。小夜は、さらにその隣に硯を置いた。
使者が頭を下げた。
「鹿島大宮の神人、則実にござりまする」
家忠が答礼した。
「平岡太郎にござる」
則実は、一通の書状を家忠の前へ置いた。
「先年まで平岡惣領家より知行されし田畠、此度、太郎殿へ譲られたる由、承っておりまする」
「左様」
「されば、今年より、彼の地にかかる鹿島御布十疋、太郎殿より納められたく」
家忠は、静かに答えた。
「帳簿を確かめ申した。先年、惣領家は、布に代えて銭五貫文を納めておる」
「左様にござりまする」
「ならば、今年も代銭を納めたい」
則実は、表情を変えなかった。
「当宮が求むるは、銭にござらぬ」
「布十疋と同じ額の銭にても、受け取られぬか」
「受け取りませぬ」
葵は、被衣の下で、則実を見た。
即答だった。
「何ゆえにござりましょう」
葵が尋ねた。
則実の視線が、葵へ向いた。
被衣を被った女が口を挟んだことに、驚いた様子はなかった。平岡家の者として同席しているなら、何らかの役目を持つ者だと判断したらしい。
「鹿島御布は、御祭に用いるもの」
則実が答えた。
「銭を御前に掛けるわけには、参りませぬ」
葵は、一瞬、言葉に詰まった。
確かに。
祭礼に布が必要なら、銭五貫文を積んでも、布の代わりにはならない。
「しかし、これまで、代銭にて受け取られております」
「しばしの便宜として、当宮が許したるものにござりまする」
「では、今年から、その便宜を、取りやめると」
「左様」
則実の口調には、悪意がなかった。
平岡家を困らせようとしているわけでもない。
ただ、本来の布を納めろと言っている。
契約どおりに。
先例どおりに。
「布の品、長さ、幅について、定めはございますか」
葵が尋ねると、則実は頷いた。
「ござる」
「その定めを、書面にて示していただけますか」
「よろしゅうござる」
「納期は」
「霜月晦日まで」
葵は、小夜を見た。
小夜は、筆を走らせていた。
一字も漏らさないように。
「もし、布を納められなかった場合は」
葵は尋ねた。
則実は、静かに答えた。
「当宮より、申状を進めまする」
その言葉が出た瞬間、家忠の顔が、固くなった。
御方様も、何も言わなかった。
葵だけが、一拍遅れた。
「申状を、どちらへ」
則実は答えなかった。
答えるまでもない、という顔だった。
家忠が、低く言った。
「近国の大社の訴えは、引付にて沙汰される」
葵の胸の内側が、ひゅん、と縮んだ。
引付。
その言葉を、知っていた。
知っているつもりだった。
『吾妻鏡』講読で、誰が何番引付の頭人になっただの、誰がどこへ移っただの、延々と読まされた。
正直、全部、どうでもよかった。
人名と役職が並ぶだけの、眠いところだった。
「鹿島は」
家忠が続けた。
「鶴岡、香取とともに、第三番にて扱われる」
第三番。
葵の心が、もう一度、ひゅん、と鳴った。
誰が、どこの部署になったか。
そんなもの、どうでもよくない?
退屈な『吾妻鏡』講読中、眠い目を擦りながら何度思ったかわからない言葉が、頭の中で蘇った。
どうでもよくなかった。
全然、どうでもよくなかった。
第三番引付は、教科書の欄外にある制度名ではない。
鹿島神宮の申状を受け取る。
平岡家へ問状を送る。
なぜ布を納めないのか、答えさせる。
場合によっては、この土地を、平岡家から取り上げる。
部署は、年表の飾りではなかった。
人を呼び出し、土地を動かし、家を傾ける場所だった。
(あのときの私を、殴りたい)
誰が、どこの部署になったのか。
それがわからなければ、誰が自分を裁くのかも、わからない。
葵は、被衣の下で、唾を飲み込んだ。
「鹿島大宮には、幕府に、親しいお方が」
葵は、言いかけて、止まった。
コネがあるのか。
そう聞こうとした。
けれど、家忠は、葵が最後まで言う前に、静かに答えた。
「左様なものを、持ち出すまでもない」
葵は、家忠を見た。
「鹿島の訴えは、初めより第三番にて沙汰されるものじゃ」
コネではなかった。
受付窓口が、最初からあった。
則実は、ほんのわずかに頭を下げた。
「当宮といたしましても、直ちに申状を進めたいわけではござりませぬ」
穏やかな口調だった。
「霜月までに、旧例の布を納められれば、それでよろしゅうござる」
それだけ言って、則実は席を立った。
脅迫ではなかった。
交渉でもなかった。
期限と、納める物と、納めなかった場合の手続を、伝えに来ただけだった。
則実が去ったあとも、誰もすぐには口を開かなかった。
小夜だけが、書き終えた紙を乾かしていた。
やがて、葵が言った。
「第三番から、問状が来る前に、何とかしないと」
家忠が、葵を見た。
「問状が来てからでは、遅い」
「はい」
葵は答えた。
「訴訟に、なる前に」
家忠は、首を横に振った。
「葵殿」
低い声だった。
「もう、始まっておる」
葵は、三冊の本を、抱き直した。
借上は、条文で殴れた。
中禅寺には、頭を下げて和与を願った。
けれど、鹿島神宮は、平岡家を脅してすらいない。
正規の手続に従い、正規の年貢を求めている。
しかも、欲しいのは銭ではない。
布だった。
葵は、隣にいる小夜を見た。
「小夜殿」
「はい」
「布十疋を、どうやって用意するのか」
小夜は、少し考えた。
「まずは、鹿島が求める布が、いかなる布かを、確かめねばなりませぬ」
葵は頷いた。
条文ではなかった。
判例でもなかった。
布の長さと、幅と、質。
誰が織るのか。
どこから運ぶのか。
何日かかるのか。
葵がこれまで、歴史の本で読み飛ばしてきたものばかりだった。
三冊の鈍器は、今日も重かった。
けれど、そのどの本にも、布の織り方は、書いていなかった。
(第17話 了)




