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第16話 和与あざす(右筆も付きました)


湛舜が寺に持ち帰った後、半月が経った。


その間、葵は惣領家に滞在したまま、湛舜から戻ってくるであろう返答を、待っていた。何度か、湛舜から使いの僧が来て、細部について書面のやり取りがあった。利子の率、分割の期間、滞納本体の確定額、それぞれの納期の日付──寺の長老衆との合議の結果が、湛舜を通して、惣領家に伝えられた。


寺側は、葵の最初の提案より少し厳しい条件を出してきた。


利子は、年に一割五分。分割は、五年ではなく、三年で完納。滞納本体の確定額についても、寺側の帳簿を基準にする(惣領家側の帳簿との差額が、数貫文ほどあった)。


葵は、その返答を見て、被衣の下で唸った。


(やっぱり向こうが上手)


葵は思った。


(寺側、地頭職改替の威圧と奉行人コネの匂わせで、こっちの足元を見て条件を削ってきた)

(これ、最初の提案で押し切れる相手じゃなかった)


ただ、葵はその条件を呑むつもりだった。


葵が判例集で確認した限り、本所訴訟で完全不納事案の地頭が得られる結果としては、これは、悪くなかった。鎌倉に持ち込まれていたら、地頭職そのものを失っていた可能性が高い。それを所領を保ったまま三年で穴埋めできる。利子は痛いが、家を保てるならその方がずっといい。


(これで、手を打ちましょう)


葵は書面で湛舜に応じた。


そして、和与の成立を文書にする日が来た。


惣領家の表の間に湛舜が再び来訪した。今度は和与状を取り交わすため双方の捺印(花押)を行う。


和与状の文面は、葵と湛舜の間で、すでに往復書面で詰めてあった。中世の和与状の作法は、葵が裁許状集を読み込んで覚えていた。「相論の事」と書き起こし、争点を簡潔に述べ、双方の主張を要約し、和与に至った経緯を記し、最後に和与の内容と双方の署名を据える。葵は、その作法に則って文案を書き湛舜の確認を経て最終形を整えていた。


葵は被衣の下で和与状を、太郎左衛門の前に差し出した。


「太郎左衛門殿。これにて、双方の署名と花押を据えれば、和与は成立いたします」


太郎左衛門は、和与状をゆっくりと読んだ。


「……うむ」


太郎左衛門の顔は、複雑だった。和与に同意することで、滞納分プラス利子という、決して軽くはない負担を、背負うことになる。三年間、惣領家の財政は厳しくなる。けれど、所領を失う最悪を回避できる。


太郎左衛門は深く息を吐いた。それから、筆を取って書名と花押を据えた。


湛舜も、寺側の代表として書名と花押を据えた。


和与状は、二通作られた。一通は寺に、一通は惣領家に。それぞれが各自の証拠として保管する。


書名と花押が並んだ和与状を見て、葵は被衣の下で深く息を吐いた。


(終わった)


葵は思った。


(惣領家、所領を保てた)

(地頭職、改替されなかった)


湛舜が、立ち上がる前に葵を見た。


「葵殿」


葵は、頭を下げた。


「は、はい」

「この度の、現地にての訴陳。寺としても、勉強になり申した」


湛舜の声は、穏やかだった。


「鎌倉殿の御沙汰の作法に則り、ここまで丁寧に進められた現地相論は、それがしの知る限り、稀にござる」


葵は、被衣の下で、目を伏せた。


「いえ、わたくしは、書面に従ったまでに、ござりまして」


湛舜は、ふっ、と笑った。


「書面に従う、というは、容易きことのようで、実は、最も難しきこと。書面の一字一句に、責を持つということじゃ。──葵殿は、それを、なさった」


葵は何と返していいかわからなかった。

湛舜は続けた。


「葵殿。失礼ながら、お伺いしてもよろしいか」

「はい」

「お前様は、いずれかの寺院、あるいは公家のもとで御法を学ばれたお方か」


葵はぴくりとした。


(うわ、また、素性の問題)

(これ、湛舜が一番、突いてきそうな質問だ)


湛舜は、続けた。


「我ら寺家でも、ここまで御法に通じた者は、長く修行を積んだ実務僧に限られまする。それを、被衣を被られた、お若き女子が──正直、それがし、葵殿のご素性を測りかねており申す」


葵は、被衣の下で必死に頭を回した。かつて家忠が「葵殿が話されたきときに、聞かせてくださればよい」と引いてくれたのと、湛舜は違う。湛舜は寺の実務僧として葵の素性を知っておきたいのだ。


葵は、できるだけ平静を装って答えた。


「あの、わたくしは──家の伝で、御法を学んできた者にござります。それ以上は、申し上げぬまま、お許しいただきたく……」


湛舜は、しばらく葵を見ていた。

それからこう言った。


「左様か」


湛舜の声には、納得していない響きがあった。でも、それ以上は追及しなかった。代わりにこう続けた。


「葵殿。いずれ、また、お会いすることもありましょう。──寺と惣領家の縁は、これにて切れたわけでは、ござらぬゆえ」


湛舜は、深く一礼して退出していった。

葵は、その背中を見送った。


(また、お会いすることもありましょう、か)


葵は、被衣の下で、その言葉を、反芻した。


(これ、今後、また何かあったら、寺は、また私のところに来る、ってことかな)


葵は、少し、げんなりした。湛舜は、間違いなく、手強い相手だった。次に対峙するときは、また、葵が頭を下げる側になるのだろう。

湛舜が去った後、太郎左衛門は、しばらく、和与状を見つめていた。

それから、ゆっくりと、葵の方を向いた。


「葵殿」

「は、はい」


太郎左衛門は、深く、頭を下げた。

惣領家の当主が、分家に拾われた素性不明の女に、頭を下げる。最初の対面のときには、考えられなかった光景だった。家忠が、わずかに、口の端を上げた。


「この度、まことに、かたじけのうござった」


太郎左衛門の声は、低かった。


「正直に申せば──最初、お前様を、見たとき、女子に何ができるかと、軽んじておった。それがしの不明にござる。お詫び申す」


葵は、慌てて、頭を下げ返した。


「いえ、わたくしは、できることをしたまでに──」

「いや」


太郎左衛門は、首を振った。


「お前様がおらねば、惣領家は、地頭職を、失っておった。三年間、一文も納めず、寺に告げ口され、鎌倉に持ち込まれて、地頭職改替。──それが、本来の、惣領家の運命であった」


太郎左衛門は、ゆっくりと、息を吐いた。


「お前様は、その運命を、変えてくれた」


葵は、何も言えなかった。


(運命を、変えた、か)


葵は、被衣の下で、思った。


(変えた、というか──最悪を、回避させてもらえただけ)


葵は、先の対決の場での自分の気づきを思い出した。押せたのではなく、引かせてもらえた。勝ったのではなく、生き延びる側を選んだ。それでも、太郎左衛門にとっては、それが、十分すぎる「運命の変更」だった。葵には、その視点がしみじみと理解できた。

太郎左衛門は、続けた。


「葵殿。一つ、お願いがござる」


葵は、頭を上げた。


「今後、惣領家にて、訴訟ごと、所領の揉め事、文書の処理など、御法に関わる一切のことが起きた折──お前様に、相談させていただきたい」


葵は、少し、戸惑った。


「あの、わたくしは、あくまで分家の方に、お世話になっておる身でして──」

「むろん、許しを得た上で」


太郎左衛門は、家忠の方を、見た。


「家忠。葵殿を、惣領家にも、お貸し願えるか」


家忠は、しばらく、考えた。それから、頷いた。


「葵殿のご都合を、第一に。葵殿がご承諾なされ、わが家の用事が立て込んでおらぬ折ならば──」

「ありがたい」


太郎左衛門は、再び、頭を下げた。

そして、太郎左衛門は、もう一つ、こう切り出した。


「家忠。それから、これは、それがしの謝意として──」


太郎左衛門は、紙の束を、家忠の前に、置いた。


「惣領家の散在所領の一つを、わが家から、その方に譲りたい。さほどの規模ではなき、田畠の一つにござるが」


家忠が目を見開いた。


「太郎左衛門殿、それは──」


「受け取ってもらえると、ありがたい。今回の件で、わが家は、貴家に大きな借りを作った。形にしてお返ししたいのじゃ」


葵は、被衣の下で、家忠の横顔を、見た。家忠の表情は、わずかに、揺れていた。受け取るべきか、辞退すべきか、迷っているようだった。


しかし、最終的に、家忠は深く頭を下げた。


「ありがたく、頂戴いたしまする」


葵は、被衣の下で、ほっとした。


(よかった)


葵は思った。


(これで、平岡家(分家)の、所領が、少し、増える)

(暮らしが、少し、楽になる、かもしれない)

(家忠様の、つぎはぎの直垂が、少し、減るといいな)


葵は、ちょっとしんみりした。


惣領家から平岡家へ戻る道で、家忠は、ぽつりぽつりと、葵に話しかけた。


「葵殿。この度の働き、礼を申す」


葵は、馬の上から(惣領家の好意で、帰りは馬を貸してくれた)、頭を下げた。


「いえ、わたくしは──」


「お前様のおかげで、わが家も、所領を少し広げられた」


家忠は、続けた。


「それから、惣領家からも信を得られた。今後、本家と分家の関係も、わずかながら、良くなるであろう」


葵は、家忠の言葉に、内心で頷いていた。


(あ、これ、御方様の言ってた「縁」だ)


葵は気づいた。


(惣領家との縁が、深まった)

(それは、平岡家にとって、長い目で見て、大きな財産)

(義じゃなくて、縁)


葵は、馬の上でもう一度自分の中の変化を確かめた。最初の頃の、「三成様、見ててください」の葵は、もういなかった。代わりに縁の重要性を理解する葵がいた。

家忠はもう一つこう言った。


「葵殿。わが家に戻られたら、母上と相談して葵殿に専属の右筆をつけたいと思うておる」


葵は被衣の下で目を瞬いた。


「え、わたくしに右筆を?」


「左様」


家忠は、頷いた。


「お前様の働きは、もはや客人の域を超えておる。惣領家からも相談を受けるようになる。今後は、文書のやり取りも増える。お前様一人で全て担うのは難しかろう」


葵は馬の上でしばらく考えた。


(右筆、ついてくれるんだ)


葵は、思った。


(これって、私が、ただの「客人」じゃなくて、平岡家の「法務担当」として正式に認められた……ってことかな)


葵は被衣の下で少し嬉しくなった。


(あ、私、ちょっと、地位が、上がった)


葵は、こっそり内心で誇った。


「ありがたく、お受けいたします」


葵は、頭を下げた。

家忠はわずかに口の端を上げた。

平岡家に戻ると、御方様が葵を出迎えた。


「葵殿、よう、戻られた」


御方様の声は、いつもの、穏やかなものだった。

葵は頭を下げた。


「御方様、無事に和与が成立しました。──ただ、ご期待ほどの結果ではなかったかもしれませぬ」


葵は和与の細部を御方様に説明した。利子一割五分、分割三年、寺側の帳簿基準。条件は決して惣領家に有利ではない。

御方様はそれを聞いてゆっくりと頷いた。


「上出来じゃ」


御方様は静かに言った。


「え」


葵は頭を上げた。


「本所訴訟にて、御家人が、ここまで踏み止まれること、稀にござる。多くの御家人は、地頭職を失い、家を、傾けてゆく。──惣領家が所領を保ったまま三年で穴埋めできるのは十分すぎる成果じゃ」


御方様の声には皮肉もお世辞もなかった。


葵は被衣の下で目を伏せた。


(あ、御方様も、わかってる)

(本所訴訟が、御家人にどれだけ不利か……)

(私が、土下座気味に頭を下げて、和与に持ち込めたこと自体が価値だって)


葵は、ありがたくその評価を、受け取った。


その晩、葵は、奥の小部屋で、三冊の本を膝の前に並べていた。


『中世法制史料集』。

『中世武家不動産訴訟法の研究 新版』。

『鎌倉幕府裁許状集』。


葵は、それをしばらく見つめた。


(終わった)


葵は、思った。


(中禅寺との相論)

(私が、なんとか和与に、持ち込めた)


葵は、ふっ、と息を吐いた。


肩から力が抜けた。半月ぶりに本気で緊張が解けた感じがした。


(疲れた)


葵は、思わず、本に向かって、呟いた。


(本気で、疲れた)

(借上のときの、何倍も、疲れた)

(三成様、これ、本当に、しんどいですよ)


葵は、心の中で、三成に、愚痴った。


(頭を下げて、譲歩して、なんとか家を保つ、ってしんどい……義よりしんどいのかも)


葵は、被衣を、外した。


(でも、これしか、なかった)


葵は、思った。


(平岡家のため。惣領家のため。生き延びる、ためには)

(義じゃなくて、縁を保つ、しかなかった)


葵は、本に、手を、置いた。

ハードカバー、A5判、三冊。分厚い、重い。

その重さは、今日も、葵の手の中に、あった。

廊下から、御方様の声がした。


「葵殿、まだ、起きておるか」


葵は急いで被衣を被り直した。


「は、はい」


御方様が板戸を開けて入ってきた。手には何か紙の束を、持っていた。


「これじゃ」


御方様は、葵の前に、紙の束を、置いた。


「右筆として葵殿につける者を選んでおいた。明日、ご紹介する」


葵は頷いた。


「年若き、女子じゃ。家中の侍女の一人で、読み書きが、できる。漢字も、ある程度、書ける。──葵殿の手助けに、なるかと」

「ありがたく存じます」


葵は、頭を下げた。

御方様は葵の手元の三冊の本を見た。それから低くこう言った。


「葵殿」

「はい」

「お前様のおかげで、わが家は、本家との縁を、強くできた。所領も、わずかながら、増えた。──家を保つ上でこれほどの働きはなかなかに難しい」


御方様の声には、深い、感謝が、籠もっていた。


「ありがとう」


葵は被衣の下で目を瞬いた。


(え)


御方様がお礼を言うのはこれが初めてだった。これまではずっと葵が御方様にお礼を言っていた。立場が、逆になった。


葵は、被衣の下で、目を伏せた。


「いえ、わたくしは──」


「もう、休まれよ。明日、右筆と引き合わせる」


御方様は、立ち上がった。


板戸を閉める前に、御方様はもう一度振り返って、こう言った。


「葵殿。お前様は、もうわが家の人じゃ」


葵は、息を止めた。

御方様は、それだけ言って、板戸を静かに閉めた。


葵は、しばらく、その閉じた板戸を見つめていた。


(わが家の、人)


葵は、御方様の言葉を繰り返した。


(私、平岡家の、人に、なった)


葵は、被衣を、外した。


(客人、じゃなくて)

(よそ者、じゃなくて)

(平岡家の、人に、なった)


葵は、自分の手を見つめた。被衣の下から出した剥き出しの、手。


(私、ここに、いていいんだ)


葵は、思った。


(地震の日から、ずっと、よそ者として、ここにいた)

(でも、今日、御方様が、私を、「わが家の、人」と、呼んでくれた)


葵の目にわずかに涙が浮かんだ。


(これ、認めてもらえた、ってこと、だよね)


葵は本を三冊、抱きしめた。


ハードカバー、A5判、三冊。


その重さの中に、いまは、葵の新しい地位の重みも混ざっていた。


借上に対しては、二冊の鈍器を、武器として、振り回した。

中禅寺に対しては、三冊の本を、頭を下げる側の、土台として使った。


そして、葵は平岡家の人になった。


(私、続けて、いいんだ)


葵は、本を抱きしめたままそう思った。


(この家の、人として)

(続けて、いい)


葵の中で、家忠の、いつかの言葉の、萌芽が、また、少しだけ、形を、取り始めていた。


続けることは、勝つことよりも、難しい──。


葵はまだその言葉を誰からも聞いていなかった。でも、自分がそれをいままさに始めようとしているということだけはわかっていた。



(第16話 了 / 第二部 了)

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