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第15話 和与、お願いします(土下座気味に)


葵は提案書を組み上げた翌日、惣領家に戻った。湛舜との対面は、その三日後に予定されていた。

その三日間、葵はずっと『鎌倉幕府裁許状集』を読み込んでいた。引用する先例の文言を確認し、年代を確認し、当事者の関係を確認した。湛舜に突かれて崩れないように、慎重に、慎重に。


ところが、読み進めるうちに、葵は冷たい何かに気づき始めた。


(本所が勝ってる事例、多くない?)


葵は頁を繰っていた手を止めた。


「地頭年貢未進」で抽出した裁許状を、葵は一つ一つ数えた。本所側の主張が全面的に認められて、地頭職の改替まで命じられている例。本所側の主張が認められて、地頭が滞納分の全額即時納入を命じられた例。本所側の主張が大筋認められた上で、地頭側にわずかな譲歩がなされた例。──そういうものが、ずらりと並んでいた。


葵が和与の根拠として引いた、地頭側の事情が斟酌された判決は、もちろん存在する。でも、それは全体の中では、少数派だった。


葵は息を呑んだ。


(本所vs御家人の訴訟、御家人、ほぼ負けてる)


葵は気づいた。


(私、楽観してた)


葵は冷や汗をかき始めた。


考えてみれば当然だった。本所は荘園領主であり、年貢を受け取る正当な権利を持っている。地頭が滞納すれば、本所の主張は法的に筋が通る。地頭側の事情がどうあれ、滞納は滞納だ。鎌倉幕府の裁判所が、滞納者である地頭の肩を持つ理由は、原則として、ない。


(これ、もし、幕府に持ち込まれたら)


葵は手の中の本を見つめた。


(惣領家、まず、勝てない)

(地頭職、改替される)


葵は背筋に、ぞくり、と寒気が走った。


最初の借上戦は、葵が思っていたよりずっと、特殊な勝利だったのだ。借上(凡下)が、御法的にグレーな立場だったから、葵が条文で押せた。でも今回は違う。中禅寺は正規の本所で、惣領家は滞納している側。法的な地位が、最初から違う。


葵は本を、ぎゅっと、握った。


(なんとしても、和与に、持ち込まなきゃ)


葵は思った。


(幕府に持ち込まれる前に、現地で、決着させなきゃ)

(これ、私たちが、押すんじゃない。私たちが、お願いする側だ)


葵は被衣を被って、頭の中の論理を、組み立て直した。提案書の温度を、組み直す必要があった。「和与で解決するのが妥当」ではなく、「和与にご同意いただけないでしょうか」と頭を下げる温度に。



対面の日。

惣領家の表の間で、葵は湛舜と向き合った。家忠と太郎左衛門も同席している。葵は被衣の下で深く息を吸った。

葵は提案書を、湛舜の前に差し出した。


「湛舜殿。三問三答を踏まえての、惣領家側からのご提案にござります」


湛舜は静かに提案書を取り、目を通し始めた。

葵は被衣の下で、湛舜の表情を、観察した。湛舜は無表情だった。読み終わるまで、ほぼ何も顔に出さない。

しばらくして、湛舜は顔を上げた。


「先例を、五つ、お引きになられたな」

「は、はい」

「いずれも、地頭側の事情を斟酌して、和与に至った事案」

「左様にござります」


湛舜は提案書を、机の上に、ぱさり、と置いた。


「葵殿。一つ、お伺いしたい」

「はい」

「お引きになった先例の地頭は、いずれも、滞納の数年間、わずかながら、年貢を納め続けておった。完全な不納ではなく、減額しての納入を続けた末の、和与にござる。──惣領家は、いかがか」


葵の心臓が、ぴくり、と跳ねた。


(きた)


葵は、湛舜の指摘が、何を意味するか、即座に理解した。葵が引いた先例の地頭は、誠意を見せていた。減額してでも、毎年、年貢を納め続けていた。だから幕府も「全く納めぬわけではないのだから」と斟酌した。

でも、惣領家は違った。ここ三年、惣領家は中禅寺に、一文も納めていない。葵は、その事実を、把握していた。陳状にも書いた。でも、過去の和与事案の地頭との違いを、湛舜は鋭く突いてきた。


(先例の類似性、崩された)


葵は被衣の下で、汗が背中を伝うのを感じた。

湛舜は淡々と続けた。


「惣領家のごとく、三年にわたり一文も納めぬ事案にて、和与に至った先例は、ござろうか」


葵は答えに詰まった。葵が裁許状集を読み込んだ限り、完全不納の事案では、和与より地頭職改替の判決が多かった。

葵は被衣の下で唇を噛んだ。


「……完全な不納にて、地頭側の事情を斟酌された事案も、ござります」


葵は精一杯、絞り出した。


「ただ、その数は、お引きした先例ほどではないことを、認めまする」


湛舜の眉が、わずかに、上がった。葵が嘘をつかなかったことを、評価しているような、表情だった。


「もう一つ、葵殿」


湛舜は続けた。


「お引きになった先例は、いずれも、本所側が、強硬に地頭職改替を求めず和与に応じた事案にござる」


葵は頷いた。


「中禅寺は、本件において、地頭職改替を求めぬ、と申したことはござらぬ」


湛舜の声は、低く、しかし、はっきりと、釘を刺してきた。

葵は、ぴくり、とした。


(あ、これはまだ、地頭職改替を諦めてない、って意味だ)


湛舜は、続けた。


「われら寺家としては惣領家の事情をまったく解せぬわけではない。なれど寺の権益、寺の存続を考えれば、軽々に和与に応じるわけにも参らぬ」


葵は黙って聞いていた。


「先頃、それがし、鎌倉に下向いたした折、引付方の某殿と、ちょうど本所訴訟の判例について語り合うたことがござりましてな」


湛舜はそう言って、ふっ、と微笑んだ。


葵の中で、ぞくり、と何かが走った。


(え、いま、なに)


葵は被衣の下で身構えた。


(雑談に見せかけて──いま、コネ、ちらつかせた?)


湛舜は何事もないように続けた。


「某殿は本所側の権益を厚く認めるご見識にて。判例の解釈においても本所側に有利なる判断をなされる方にござる」


(うわ、これ、はっきり、コネだ)


葵は冷や汗をかいた。


(湛舜、鎌倉の引付方の奉行人と、知り合い)


(しかも、その奉行人、本所側に有利な判断を下す人)


(つまり、もし幕府に持ち込まれたら、最初から、本所側に味方する奉行人が、いる)


葵は手の中で、提案書を、握りしめた。


(これ、まずい)


葵は本気で危機感を覚えた。本所vs御家人の構造的不利に加えて、奉行人のコネまで本所側にある。幕府に持ち込まれたら、惣領家は、為すすべがない。


葵の頭の中で御方様から聞いた話が蘇った。鎌倉殿の御法は、みなが信じているから効く。──その「みなが信じている御法」の運用は、結局、人間がやっている。奉行人という、生身の人間が。そして、人間は、コネで動く。


(嫌な予感、ハーフだったどころじゃない)


(これ、本気で、嫌な予感だ)


葵は被衣の下で目を伏せた。


(三点セットがあっても、判例を引いても、コネには、勝てない)


葵の中で何かが、ぐらり、と揺れた。


法律、制度、判例。葵が「鎌倉幕府の知的インフラ、現代と同じ」と感心したそれらは、現場では、コネに易々と侵食される。司法は、純粋な論理では、動いていない。──それは、現代の感覚でも、ある程度はそうだ。でも、中世の方が、もっと露骨だった。


葵は深く息を吸った。被衣の下で、唇を、引き締めた。


(私、押せない)


葵は認めた。


(押す側じゃ、ない)


(私たち、お願いする側、だ)


葵は、頭を、切り替えた。


葵は提案書を、もう一度、湛舜の前に置き直した。今度は、両手で、ゆっくりと。


「湛舜殿」


葵の声は、低かった。最初の対面のときの、二冊ドーンの威勢は、もうなかった。


「惣領家の滞納が、寺家のご懸念を招いたこと、まことに、申し訳なく存じます」


葵はゆっくりと頭を下げた。被衣ごと、深く。


太郎左衛門が、ぴくり、とした。葵が惣領家の代わりに頭を下げたのだ。家忠は何も言わずに葵を見ていた。


「お引きした先例が、惣領家の事案と、完全には一致せぬこと、それがし、認めまする。湛舜殿のご指摘の通り、惣領家は完全な不納にござります」


葵は、被衣の下で、続けた。


「なれど、惣領家には納めぬ意思はござりませぬ。納めたくとも、銭が、揃わぬのです。その事情をお汲み取りいただきたく」


葵は、湛舜の目を、見上げた。


「もし、和与に、ご同意いただけるならば──先ほどの提案に、一つ、付け加えさせていただきたく」


湛舜は無表情のまま葵を見ていた。


「滞納分の利子をつけまする」


葵は、言った。


「利子、年に一割。三年間、未納でござりましたゆえ、その分の利子を、滞納本体に加算した額を、分割にて、納入いたしまする」


葵は、湛舜の反応を、見た。


湛舜の眉が、わずかに、動いた。


葵は続けた。


「これにて、寺家の本来お受け取りになるべき年貢に、その間の損失を、補填いたします。寺家としても、ただ和与にご同意なされるよりは、利を、伴うご決断となりまする」


葵は、頭を下げた。


「どうか、和与に、ご同意くださりませ」


部屋に沈黙が、満ちた。


湛舜はしばらく葵を見ていた。それから提案書を改めて手に取った。


葵は被衣の下で、息を、止めていた。


(これで、引いてくれないと)

(幕府に持ち込まれたら、終わる)


葵は祈るような気持ちで、湛舜の動きを見ていた。

湛舜は、提案書を、ゆっくりと、目で追った。何度も同じ箇所を確認しているようだった。


やがて、湛舜は、息を吐いた。


「……利子、一割。分割にて、滞納本体と利子を、納入と」

「は、はい」

「分割の期間は」

「五年を、ご提案いたしたく」


湛舜は、頷いた。それからゆっくりと言った。


「寺に、持ち帰りまする」


葵は、目を見開いた。


「お持ち帰り、いただける、のですね」

「左様」


湛舜は、立ち上がった。


「寺の長老衆に、諮りまする。葵殿のご提案、頭ごなしに拒むつもりはござらぬ。なれど、利子の率、分割の期間など細部は長老衆の判断を仰がねばならぬ」


葵は、慌てて、頭を下げた。


「ありがたく、存じます」


湛舜は、深く一礼すると、表の間を、退出した。

湛舜の足音が遠ざかってから、葵は、被衣の下で、しばらく、動けなかった。

頭の中が、ぐるぐる、していた。


(押せた、のかな)


葵は、自問した。


(押せた、というか──引かせてもらえた)


葵は、被衣の下で、目を閉じた。


(湛舜が、本気で幕府に持ち込んでいたら、私たち、終わってた)

(向こうは、判例の優位も、奉行人のコネも、持ってる)

(私が引ける先例は、少数派。完全不納の事案では、ほぼ、ない)

(なのに、湛舜は、寺に持ち帰る、と言ってくれた)


葵は、急に、肩から、力が抜けた。


(あれ、私、和与に持ち込めただけ、ありがたい、やつだ)


葵は気づいた。


(全然、勝ってない)

(向こうの温情で、和与の交渉のテーブルに、ついてもらえてる)

(それだけ)


葵は、被衣の下で、深く、息を吐いた。

第一部の借上戦の、あの全能感は、もう、どこにもなかった。三成的な「義」の高揚も、ない。あるのは、ただ、相手に頭を下げて、なんとか、最悪を回避できそうだ、という安堵だけだった。


(私、本当に、お願いする側に、なったんだ)


葵は、ぼんやりと、思った。


(三成様だったら、こんな譲歩、絶対しなかった)

(三成様だったら、徹底的に押して、敗れていた)

(でも、私は、譲歩して、頭を下げて、なんとか、生き延びる側を、選んだ)


葵は、その変化を、認めた。


(これは、たぶん、御方様の言ってた「縁」を保つ、ってこと)

(義じゃなくて、縁)

(押し切らずに、頭を下げて、関係を、つなぐ)


葵は、被衣を、少し、持ち上げた。

太郎左衛門が、葵を見ていた。家忠も、見ていた。

太郎左衛門が、低く、言った。


「葵殿……かたじけのうござった」


最初の対面のときの、横柄な態度は、消えていた。

葵は、頭を下げた。


「まだ決まったわけではござりませぬ。湛舜殿のお持ち帰りの後、寺の長老衆の判断次第にて」

「うむ。なれど──」


太郎左衛門は、息を吐いた。


「鎌倉に持ち込まれずに、ここまで、来られたこと。それだけでも、十分にござる」


葵は、その言葉に、被衣の下で、目を、伏せた。


(あ、太郎左衛門も、わかってる)


葵は思った。


(本所訴訟が、御家人にとって、どれだけ、不利か)

(幕府に持ち込まれていたら、惣領家、終わってた)

(私が、和与のテーブルに、引きずり戻せたこと自体が、価値だ、って)


葵は家忠の方を見た。家忠はわずかに頷いていた。家忠も同じことを考えていた。



その晩、葵は惣領家の客間で、三冊の本を、膝の前に並べていた。


『中世法制史料集』。

『中世武家不動産訴訟法の研究 新版』。

『鎌倉幕府裁許状集』。


葵は、それを、しばらく、見つめた。


(知的インフラ、整ってる)


葵は、思った。


(条文、手続き、判例)

(現代の司法と、同じ構造)

(でも、コネには、勝てない)


葵は、ぽつりと、呟いた。


「公平って、なんなんだろうね」


葵は、本に向かって、聞いた。本は、答えなかった。

葵は、被衣を、外した。剥き出しの顔を、夜の空気に、晒した。頬が、まだ、熱かった。湛舜の前で、頭を下げたときの熱が、まだ、残っていた。


(私、変わったかな)


葵は、思った。


(三成様を、引きずってた頃の、私とは、別人みたいだ)


葵は、本を、抱きしめた。


ハードカバー、A5判、三冊。分厚い、重い。


その重さは、もう、武器の重さでも、土台の重さでもなかった。


たぶん──頭を下げる側の、人間の、重さだった。



(第15話 了)

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