第14話 三冊目の鈍器
陳状を書き上げてから、半月。
中禅寺との訴陳のやり取りは、葵の予想を超えて、しんどかった。
まず最初の訴状が、湛舜から、惣領家に届いた。これが『中世武家不動産訴訟法の研究』で学んだ通りの作法にぴたりと則っていた。冒頭に「謹言上」と来て、所領の名と境を記し、相手方(惣領家)の非を順序立てて並べ、最後に「鎌倉殿の御沙汰を仰ぐべきところ、現地にて理非を明らかにすべく訴申するところなり」と結ぶ。
(寺、訴訟、慣れすぎ)
葵は被衣の下で唸った。中禅寺は本所として、過去に何度も訴訟を経験している。湛舜のような実務僧は、訴状の書式を体に染み込ませている。葵が本を片手にようやく書き上げる文章を、湛舜は息をするように書く。
葵はその訴状を踏まえて、陳状を組み立てた。惣領家の事情、代銭納の約定、近年の銭の流通の困窮、それでも納める意思があること、寺の権益も認めること。考えた論点を全部、丁寧に文章化した。
陳状を出してから、湛舜から再訴が来た。葵の陳状の論点を一つずつ崩しに来る精密な再訴だった。「銭の流通が乏しき由を申されるが、それは惣領家ご一家のみのことに非ず。他の地頭は納めておる。惣領家のみが、なぜ納められぬ」と、こう来た。
(きっつ)
葵は唸った。
他の地頭はちゃんと納めている、という一文が効いていた。確かに、銭の流通の困窮は構造的な問題だが、他の御家人は何とか納めている。なぜ惣領家だけ滞納したのか、という問いは、葵の陳状の弱点を突いていた。
葵は再陳状で応じた。惣領家は他の御家人と比べて所領が痩せていること、本家として大番役の費用も負担していること、その複合的な事情で銭が回らないことを書いた。
すると、また湛舜から、三度目の訴が来た。「大番役の負担は、惣領家のみの事情に非ず。他の御家人もまた、大番役と年貢の双方を、不作の年も含めて、誠実に納め続けておる」。
(うわー、この人、本当に容赦ない)
葵は感心と絶望が半々の気持ちになった。湛舜の主張は終始同じだった。「あなたの言う事情は、他の御家人も同じです。なのに彼らは納めている。なぜあなただけ、納められないのか」。論点をずらさず、同じ場所を、じわじわ突いてくる。
葵は三答(三度目の陳)を、書いた。──書いたのだが。
「……これ、どうやって、まとめればいいんだろう」
葵は奥の小部屋で本を膝の上に広げたまま、頭を抱えた。
惣領家から平岡家に帰ってきていた葵は、自分の小部屋で、三問三答の書面を、改めて並べていた。
訴状、陳状。
再訴、再陳。
三訴、三陳。
合計六通。畳の代わりの茣蓙の上に並べて、葵はそれを上から、見下ろした。
(双方の言い分は、出揃った)
葵は思った。問題は、ここから先だった。
通常なら、ここから対決(両当事者が顔を合わせて口頭で議論する)に進む。そして判決に至る。でも今回は、現地での疑似裁判だから、判決を出すのは葵自身だ。葵が「こういう落としどころが妥当でしょう」と提案する。湛舜と太郎左衛門が、それに同意すれば、和与が成立する。
(でも、何を、どう、提案する?)
葵は唸った。
双方の言い分は出揃った。でも、ここから、どう論理を組み立てて、どう落としどころに着地させるか。その筋道が、葵には見えなかった。
葵は本を見た。
『中世法制史料集』。条文の根拠は引ける。でも条文だけでは足りない。
『新版 中世武家不動産訴訟法の研究』。手続きの作法はわかった。でも、判決そのものを、どう導くか、までは書いてない。
(条文と、手続きは、揃ってる)
葵は思った。
(でも、過去にこういう案件で、鎌倉幕府が、どう判決を、下してきたか)
(その先例が知りたい)
葵は呟いた。
「先例があればいいのに」
葵はそう言って、頭を抱えて机代わりに使っている板の上に突っ伏した。
その瞬間。
ゴツン!!
頭の上に、何か重いものが落ちた。
「いっ……」
葵は頭を押さえた。
(何、いま)
葵は顔を上げた。
板の上に、見覚えのない、本が、一冊、転がっていた。
ハードカバー。A5判。分厚い。重い。葵が、これまで、一度も見たことのない本。
葵はそれを、震える手で、手に取った。
表紙に、こうあった。
『鎌倉幕府裁許状集 上巻』
葵は、しばらく、本を見つめたまま、固まっていた。
(え)
(え?)
(え?)
葵は本をひっくり返した。
背表紙にも『鎌倉幕府裁許状集』とある。発行は、吉川弘文館。瀬野精一郎編。
葵は、固まったまま、しばらく本を見つめた。
それから、ゆっくりと首を天井に向けた。
板間の天井には、何もなかった。蜘蛛の巣が、わずかに、揺れているだけ。
葵は、もう一度、本を見た。
(……どこから、降ってきた?)
葵は、誰もいない小部屋を、見回した。
(誰も、いない)
(屋根からも、降ってこない)
(板の上にも、さっきまで、何も、なかった)
葵は、首を、ゆっくりと、傾けた。
(いきなり、頭の上に、降らせるとか、なくないですか)
葵は、こめかみを、撫でた。本当に、痛かった。
それから、葵は、急に、笑い出した。
「……ぷっ」
笑いが、止まらなかった。
(なにこれ、最初から設定ちゃんと決めておけ〜!)
(出版社まで書いてある。史学科お馴染みの吉川弘文館)
葵は、笑いながら、本を、抱きしめた。
(まあ、いいや)
葵は、思った。
(降ってきたものは、ありがたく、使う)
葵は、本を開いた。
中身は、鎌倉幕府が出した裁許状の集積だった。年代順に、何百通もの裁許状が、収められている。原文(漢文)と、簡単な注釈付き。
(これ、判例集だ)
葵は気づいた。
現代の法学で言うところの、判例集。過去に裁判所が出した判決を、まとめて編集したもの。学者が「この事案で、過去にどういう判決が出ているか」を調べるための、基礎資料。
葵は、ぞくり、とした。
(これで、揃った)
葵は思った。
『中世法制史料集』──条文集。
『中世武家不動産訴訟法の研究 新版』──制度書。
『鎌倉幕府裁許状集』──判例集。
(三点セット、揃ってる)
葵は気づいた。
(法律、制度、判例)
(これ、現代の法学の、基本の基本じゃない?)
葵の頭の中で、何かが、繋がった。
現代の法学部の学生が、何を勉強しているか。葵は法学部ではないけれど、就活のとき行政書士の勉強を少しかじったことがあった。基本書(制度の解説)、六法(条文集)、判例集。──これが、三点セットだった。法律の専門家が使う、知的インフラ。
(鎌倉幕府、訴訟制度に関しては、現代と同じ知的インフラを整えていたんだ)
葵は思った。
(条文を整備して、手続きを精緻に組み立てて、判例を積み重ねていく)
(現代の司法の、基本の基本)
(それを、八百年前に、もう、やってる)
葵は、本を、抱きしめた。
(鎌倉幕府、すごくない?)
葵は、しみじみと、思った。
『中世武家不動産訴状法の研究』をめくって訴訟手続きの細密さに圧倒されたとき、葵は「現代の民事訴訟並み」と感じた。あの感覚が、いま、より、はっきりとした形を取っていた。鎌倉幕府は、訴訟という営みの、現代に通じる構造を、すでに、持っていた。条文、手続き、判例。これを、整備した上で、裁判が動いていた。
(凡下まで御法を恐れたのは、当然だ)
葵は思った。
(条文があって、手続きがあって、判例の積み重ねがある)
(そんな仕組みが、誰の言葉でもなく、ただ「鎌倉殿の御法」として、存在している)
(それは、強い)
(現代の裁判所と、構造が、ほぼ、同じ)
葵は、本を机の上に置いた。
(さて)
葵は、頭を切り替えた。
(これで、判例が、引ける)
葵は、本をぺらぺらとめくり始めた。
目次はあったが編年順なので内容を読むしかない。「年貢未進」「本所訴訟」「代銭納」──そんな単語が、並んでいる。幸いなことに裁許状の内容は最初の2〜3文を読むだけで把握できたので、葵は、その一つ一つを目で追った。
ある裁許状は、地頭の年貢未納を理由に、本所の主張を全面的に認めて、地頭職の改替を命じていた。
別の裁許状は、地頭側の事情(不作、災害、惣領家の負担など)を斟酌して、滞納分の分割納入を認めていた。
さらに別の裁許状は、双方の和与を促し、現地での協議による解決を命じていた。
葵は、目を、見開いた。
(あ、これだ)
葵は気づいた。
(判決のパターンが、いくつも、ある)
(完全に本所側の主張を認めたケース、地頭側の事情を斟酌したケース、和与に持ち込んだケース)
(同じ「年貢未納」でも、判決は、画一じゃない)
葵は、頁を、繰り続けた。
似た事案を、五つほど、絞り込んだ。地頭側に、何らかの斟酌すべき事情(不作、惣領家の負担、所領の痩せ)があり、本所側もそれを認めた上で、和与で滞納分の分割納入や、一部減免を行った先例。──そういう裁許状を、葵は、抜き出した。
(これ、使える)
葵は、思った。
(惣領家の事情を述べた上で、過去の同種の事案で、こういう和与が成立している、と先例を引く)
(湛舜は、訴訟慣れしているから、先例の重みは、わかるはず)
(「鎌倉殿の御沙汰の通りにやる」と最初に決めた以上、過去の裁許状の先例を、無視はできない)
葵は、本を、抱きしめた。
(これで、論理が、組める)
葵は、新しい紙を、取り出した。これは、提案書だった。三問三答の後、葵が双方に提示する、和与の素案。
葵は、丁寧に、文面を組み立てた。
第一に、惣領家の滞納の事実は認める。年貢の義務そのものを否定はしない。
第二に、ただし、惣領家の事情(銭の流通の困窮、大番役の負担、所領の痩せ)を、丁寧に並べる。
第三に、過去の裁許状から、同種の事案で和与が成立した五つの先例を引く。
第四に、これらに照らして、本件も和与で解決するのが妥当である、と提案する。
第五に、具体的な落としどころとして、滞納分の数年にわたる分割納入、ただし利息は付さない、を提案する。
葵は、書きながら、何度も、本を、確認した。引用する裁許状の文言、年代、当事者。一つでも誤れば、湛舜に突かれる。慎重に、慎重に。
(これ、たぶん、いける)
葵は、書き上げた提案書を、見つめた。
(条文の根拠あり、手続きの作法に則り、判例の裏付けあり)
(湛舜が、これを蹴るなら、湛舜が「鎌倉殿の御法の通りにやる」と最初に言った言葉と、矛盾する)
葵は、深く、息を吐いた。
葵は、三冊の本を、机の上に、並べた。
『中世法制史料集』。
『新版 中世武家不動産訴訟法の研究』。
『鎌倉幕府裁許状集 上巻』。
葵は、その三冊を、しばらく、見つめた。
(地震の日、二冊だけ、降ってきた)
葵は、思い出した。
(あの日、図書館の本棚から、頭の上に、二冊、落ちてきた)
(そして、いま、三冊目が、降ってきた)
葵は、誰に話しかけているのか、自分でも、わからなかった。でも、誰かに、お礼を、言いたかった。
(ありがとうございます)
葵は、心の中で、呟いた。
(誰だか、知らないけど)
(私をここに送り込んだ、誰か)
葵は、本を、抱きしめた。
家忠が、廊下から声をかけてきた。
「葵殿。三陳の処理は、進んでおられるか」
葵は、被衣を、取り直した。
「は、はい。ちょうど、組み上がりました」
家忠が、板戸を開けて、入ってきた。葵の机の上に並んだ、三冊の本を、見た。
家忠の眉が、わずかに、動いた。
「葵殿、その本──」
家忠は、三冊目の本を、初めて、見たのだ。これまで、葵が持っていなかった本。突然、机の上に現れた本。
葵は、被衣の下で、固まった。
(あ、まずい、これ、どう説明する)
葵は、必死に、頭を、回した。
「あの、これは、その、ええと──」
葵は、しどろもどろに、答えた。
「家の伝で、いただいた、本でして……今日、ちょうど、思い出して、取り出してきまして」
(嘘、また、ついた)
葵は内心で謝った。お父さん、お母さん、ごめんなさい。お父さんは絶対、鎌倉幕府の裁許状なんて持ってない。
家忠は、しばらく、葵を、見ていた。
それから、低く、言った。
「葵殿の家、というのは、いずれにあるのか」
葵は、ぴくり、とした。
「あの、その、ええと──」
葵は、必死に、誤魔化そうとした。
「常陸の、国府の方の、ええと、奥の方で──」
家忠は、葵の言葉を、最後まで、聞かなかった。
代わりに、こう言った。
「いや、よい」
家忠は、首を、振った。
「いずれ、葵殿が、ご自分で話されたきときに、聞かせてくださればよい。──それまでは、問わぬ」
葵は、息を、止めた。
家忠の目には、警戒ではなく、なにか、別のものが、あった。それは、たぶん、信頼に近いものだった。
(あ──)
葵は、被衣の下で、目を、伏せた。
(家忠様、わかってる)
(私が、何か、隠してることも)
(でも、いま、それを追及しない)
(いつか、私が話すまで、待つ)
葵は、何と言っていいか、わからなかった。
家忠は、それ以上、何も聞かずに、机の上の書面に、視線を、移した。
「三陳の処理。和与の提案まで組み上がったか」
「は、はい」
「読ませていただこう」
葵は、提案書を、家忠に、差し出した。
家忠は、それを、ゆっくりと、読み始めた。
葵は、家忠の横顔を、見ながら、思っていた。
(私、ここに、戻ってきていいのかな)
葵は、ふと、思った。
(地震の日、誰かが、私を、ここに送り込んだ)
(本を、降らせて。武器を、与えて)
(でも、それは、何のため?)
葵は、答えを、知らなかった。
ただ、机の上の三冊の本が、いま、葵の手元にある。それは、確かなことだった。
葵は、本に、そっと、手を置いた。
ハードカバー、A5判、三冊。分厚い。重い。
(私、この武器で、できることは、やる)
葵は、決めた。
(誰が、なんのために、私を送り込んだのか、わからないけど)
(目の前の人たちを、助けるためなら、使う)
葵は、家忠の読む横顔を、見ていた。
その横顔には、これまでより少しだけ、信頼の色が濃かった。
(第14話 了)




