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第13話 銭が、ない?

訴状=原告が出すもの

陳状=被告が出すもの


湛舜は二冊の本を見つめたまましばらく黙っていた。


その沈黙は重かった。借上の長九郎のときのような分かりやすい動揺ではない。湛舜は冷静に二冊の重みを見抜こうとしていた。本の表紙の漢字を一文字ずつ確かめるように視線を動かす。ページの厚みを測るように目で重さを計る。葵は被衣の下でその様子を見ていた。


(この人、本当に手強い)


葵は思った。

借上の長九郎は表沙汰を恐れて引いた。でも湛舜は違う。表沙汰を恐れているのではない。葵が出した「鎌倉殿の御法の通りに現地で裁く」という提案そのものを冷静に値踏みしている。

やがて湛舜は顔を上げた。


「葵殿、と申されたか」


葵は被衣の下で頷いた。

「鎌倉殿の御法に則り現地で裁く、というご提案。寺としても、無下にはいたしませぬ」

湛舜の声は静かだった。

「鎌倉まで僧を遣わし沙汰を待ち続けるのは寺とて負担。現地にて理非を明らかにできるならば、それに越したことはない」

葵は内心で小さく息を吐いた。


(よかった、乗ってくれた)

「ただし」


湛舜が続けた。

「鎌倉殿の御法に則るとあらば、その通りに進めていただく。訴状、陳状、問注、対決──一つでも作法を欠かば、寺はこの場を打ち切り、鎌倉に持ち込みまする。ご承知あれ」

葵は頭を下げた。

「承知いたしました」

湛舜は太郎左衛門の方を向いた。


「太郎左衛門殿。然らば、訴状を寺より出しまする。半月の後、貴家より陳状をいただこう。三度繰り返したのち、現地にて、訴陳を交わしまする」


太郎左衛門は呆然としたまま頷いた。今日の流れを完全には理解していない顔だった。横で家忠が小さく息を吐いた。


湛舜は深く一礼すると静かに立ち去った。



湛舜が帰った後、太郎左衛門は葵を見た。さっきまでの侮蔑の目ではなかった。困惑と、わずかな期待が混じった目だった。

「葵殿……まことに、現地で、裁判のような、ことが、できるのか。わしには、鎌倉殿の御沙汰のことは、さっぱり分からぬぞ」

葵は被衣を整えた。

「鎌倉殿の御法は、この二冊にほぼ揃うております。条文も、手続きも。あとは双方が御法に従う心づもりさえあれば、現地でも訴陳は尽くせます」

葵は言ってから、内心で「たぶん」と付け加えた。口には出さなかった。

「ただ、太郎左衛門殿。陳状を組み立てるには、まず惣領家のご事情を、きちんと聞かせていただかねばなりませぬ」

葵は被衣の下から太郎左衛門を見据えた。


「なぜ年貢を滞納されたのか。子細を、お教えいただけますか」


太郎左衛門は気まずそうに視線を逸らした。

「不作じゃ、と申したであろう」

「はい。それは存じております。ただ、不作と一口に申しましても、いろいろな事情がございます。米そのものが取れなかったのか。取れたが他の入用に回したのか。あるいは年貢を納める段になって何か別の障りがあったのか」

葵は丁寧に問いを重ねた。

太郎左衛門は腕を組んで唸った。

「……米は、取れた。例年よりは少なかったが、取れぬほどではない」

「では、なぜ納められなかったのですか」


「銭が、なかった」


葵は固まった。


(え?)


葵は思わず聞き返した。

「あの、ええと、銭が、ない、とは……?」

「中禅寺への年貢は、代銭納じゃ。銭で納める。米そのものは納めぬ」

葵は被衣の下で目を瞬いた。

(代銭納)

葵は頭の中で言葉を確かめた。代銭納。年貢を本来の品目ではなく銭で代わりに納める方式。中世後期に広まった、と教科書で習った気がする。葵の頭の中の山川教科書の一行が薄ぼんやりと浮かんだ。

「銭で納める、ということは──米を市で売って、銭に換えて、それを中禅寺に納める、ということですか」

「左様」

「そして、その銭が、足りない、と」

太郎左衛門は重く頷いた。

「ここ数年、銭が、手に入らぬのじゃ」


葵は被衣の下で首を傾げた。

(銭が手に入らない?)

葵は思った。米はある。米を市で売れば銭になる。なのに銭が手に入らないとは、どういうことだ。

葵はおずおずと聞いた。

「あの、米を売っても、銭が、入ってこない、のですか」

「銭が、市に、出回らぬ」

太郎左衛門は苦々しげに言った。

「米を売っても、銭の代わりに、布をよこされたり、別の物と引き換えられたりする。銭が払われても、額が、年々、少なくなる。同じ米でも、得られる銭が、減っていく」

葵の頭の中で何かが警報を鳴らした。


(え、待って、これ、なに?)


葵は混乱した。

葵の現代の経済感覚では、こうだった。インフレになれば貨幣の価値が下がる。だから米や土地のような実物資産を持つ者が得をする。逆に貨幣を貯め込んでいる者は損をする。これが経済の常識だ。

なのに、目の前で起きていることは、その逆だった。米はあるのに銭がない。同じ米を売っても得られる銭が減っていく。つまり銭の価値が、年々、上がっている。


(銭の価値が、上がってる?)


葵は被衣の下で混乱した。


(モノを持っているのに、なぜ強くないの)

(インフレなら、米を持ってる方が、有利なはずなのに)


葵は太郎左衛門に聞いた。

「あの、米そのものを、中禅寺に納めることは、できないのですか。代銭納ではなく、現物で」

太郎左衛門は呆れた顔をした。

「先々代の代に、寺と約定したのじゃ。代銭納と。今さら米で納めると言うても、寺は受け取らぬ」

「でも、銭がないのなら、ないと、お話しすれば──」

「寺は、銭しか受け取らぬ」

葵は何かを言いかけて止めた。


(なんで、寺は、銭にこだわるの)


葵の頭の中で疑問が積み重なっていった。米が取れているのに銭がない。銭の価値が上がっている。寺は銭しか受け取らない。──現代の経済学からすると、どれも、よくわからなかった。



その晩、葵は惣領家の客間で家忠と向き合っていた。客間といっても板間に茣蓙が敷かれているだけの簡素な部屋だった。葵は二冊の本を膝の前に並べて、考え込んでいた。

「平岡殿。一つお伺いしたいのですが」

家忠は頷いた。

「銭が、年々、手に入りにくくなっている、というのは、本当のことなのですか」

家忠は少し考えてから答えた。

「左様じゃ。わが家も、同じことに困っておる」

葵は息を呑んだ。平岡家もか。

「米は、取れる。なれど、市に出しても、以前ほど、銭が手に入らぬ。商人どもが、銭を出し渋るのじゃ」

「出し渋る、とは」

「銭を、抱え込んでおる。蓄える、と申すか。寺や、徳人や、銭を持つ者が、銭を、貯め込んで、出さぬ」

葵の頭の中で何かが、ぱちり、と繋がりかけた。


(貯め込まれてる)

(銭が、流通してない)


葵は思った。


(流通量が減れば、銭の価値は、上がる)

(現代の経済学でも、貨幣の流通量が減れば、貨幣の価値は上がる)

(あ、デフレだ、これ)


葵は内心で気づいた。インフレではなく、むしろデフレだった。銭が貯め込まれて流通量が減り、銭の価値が上がる。米の価値が相対的に下がる。だから米を売っても銭が得られない。

ただ、葵はもう一つ、引っかかるものがあった。

「平岡殿。なぜ、皆、銭を、貯め込むのですか」

家忠は不思議そうな顔をした。

「銭は、銭じゃからのう」

葵は首を傾げた。

「銭は、銭、というのは……」

「銭は、銭じゃ。それを持っていれば、何にでも、換えられる。米にも、布にも、土地にも。寺は法会の費用に、武家は兵具に。──貯めておけば、いざというとき、何でも、できる。銭そのものが、宝じゃ。近頃は神事でも銭が納められていると聞く」

葵は家忠の言葉を頭の中で反芻した。


(銭そのものが、宝)


葵の頭の中で、何かが、形を取り始めた。

葵は知っていた。現代でも金は退蔵される。みなが価値を信じるから、貯め込まれて、市場に出てこない。戦国の茶器や唐物も同じだった。実用を超えた価値を持つようになると、人はそれを使わずに貯め込む。

(銭が、その段階に、あるんだ)

葵は思った。

(現代みたいに、銭が単なる交換手段じゃなくて、銭そのものが宝物なんだ)

(だから貯め込まれる。流通しない。価値が上がる)

葵は本に視線を落とした。


(私の知ってる「貨幣」とは、別物だ)

(教科書で習った「貨幣経済の浸透」って、もっとシンプルな話だと思ってた)

(銭がモノの代わりに使われるようになる、便利だね、みたいな)

(でも違う。中世の銭は、もっと、変な存在だ)


葵は深く息を吐いた。



「平岡殿。中禅寺が銭にこだわるのも、同じ理由ですか」

葵は聞いた。

家忠は頷いた。

「寺は、銭が、最も使い勝手がよい。法会の費用、僧の暮らし、堂塔の修繕。米や布では、その都度、市で売って銭に換えねばならぬ。寺としても銭で納めてもらう方が、楽じゃ」

「でも、その銭が、惣領家には、手に入らない」

「左様じゃ」

葵は本を見つめた。

(これ、構造的に、惣領家が、永遠に追いつけないやつだ)

葵は思った。寺は銭を貯め込む側。惣領家は銭を払う側。銭が流通しないから、惣領家は銭を集められない。集められないから、寺に納められない。納められないから、寺はもっと厳しく取り立てる。

(これ、滞納するのが……惣領家が悪い、って話じゃ、ないかも)

葵は気づいた。


(構造の問題だ)


葵は被衣の下で頬を引き締めた。


(陳状で、これを、どう書く?)


葵の頭の中で論点が組み立て始められた。

惣領家の滞納は単なる怠慢ではない。代銭納という約定があるが、近年、銭の流通が乏しく、惣領家は誠実に努めても銭を集めきれない。この事情は寺にも知られているはず。──このあたりが惣領家側の言い分になる。

ただし、それでも年貢を納める義務そのものは消えない。寺の言い分も筋が通っている。法会の費用がなければ寺は機能しない。それは寺の側の正当な懸念だ。

(双方に、言い分がある)

葵は思った。

(借上のときみたいに、どっちかが完全に悪い、って話じゃない)

葵は本を撫でた。


(条文を引いて殴れば終わり……じゃない。双方の事情を、踏まえて、落としどころを、探さなきゃいけない)



家忠が、ぽつりと言った。


「葵殿は、銭のことを、ご存じなかったのか」


葵は被衣の下で苦笑した。


「あの、私の育った所では、銭は、もっと、普通に出回っておりまして……貯め込まれて手に入らないようなことは、あまり、なくて」


葵は嘘ではないことを必死に言葉を選んで言った。

現代の日本では、銭(円)は普通に流通している。中央銀行が流通量を管理している。少なくとも「貯め込まれて手に入らない」という事態は、葵の知る限り、起きていない。

家忠は不思議そうな顔をした。

「銭が、普通に出回る、土地、か。──羨ましきことじゃ」

家忠の声には皮肉も嫌味もなく、ただ素朴な羨望があった。

葵は何も言えなくなった。


(平岡殿。あなたの暮らす世界では、銭が、まだ、宝物なんだ)


葵は思った。


(私の暮らしていた世界では、銭は、ただの、便利な道具になってる。なんなら現金も持ち歩かず、口座とアプリの数字だけが変動するポイントみたいな存在……)

葵は近代日本の通貨制度のことを、ほんの少しだけ、思った。明治の貨幣制度の整備。中央銀行の創設。戦後の経済成長──当たり前の世界はここでは当たり前ではなかった。誰かが途方もない時間をかけて築き上げたものだった。


(誰かが、銭の流通を、整え、貨幣の価値を、安定させ、銭を、宝物から、道具に、変えていった)



(地頭は、貧乏警察)


葵はまた思い出した。


(その上、銭まで、貯め込まれる側)


葵は手元の本を抱えた。


(平岡家も、惣領家も、構造的に、不利な立場にいる)

(でも、その構造を、私が、変えられるわけじゃない)

(私にできるのは、目の前の一件を、なんとか、収めることだけ)


葵は本に視線を落とした。


(陳状を、書こう)


葵は決めた。


惣領家の事情を、丁寧に、説き起こす。米は取れている。銭が手に入りにくいという中世の現実。それでも納める意思はある。寺の正当な権益も認める。落としどころを探る形で書く。


葵は二冊の本を、膝の前に揃えた。

ハードカバー、A5判、分厚い、重い。

その重さは、葵の手の中で、また少しだけ違って感じられた。


第一部のときは、条文で殴る武器だった。


第二部では──双方の事情を、丁寧に、書き留めるための、土台だった。



(第13話 了)

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