第12話 裁判、できます(たぶん)
借上の一件から季節が一つ巡った。
葵が平岡家でなんだかんだと法務の世話をしている、という評判は、どうやら近隣に広まっていたらしい。借上を条文で引かせた娘がいる、と。
そしてある日、平岡家に使いが来た。
平岡惣領家からの使いだった。
「惣領家が葵殿を呼んでおる」
御方様はその報せを聞いて、少し難しい顔をした。
葵は奥の間で御方様と家忠と向き合っていた。
「あの、惣領家って──平岡家の本家ですよね」
葵は確認した。
「左様」
家忠が頷いた。
「わが平岡は惣領家から分かれた、傍流じゃ。本家はここより北の郷にある。当主は平岡惣領家の太郎左衛門殿」
葵はこれまでに聞いた平岡家の事情を頭の中で整理した。平岡家(分家)は惣領家から見れば遠い親戚。普段は保護してくれるわけでもないが、直接対立するわけでもない。ただ、大番役のような御家人の負担を惣領家から振り分けられると、断れない。そういう微妙な関係。
(その本家が、なんで私を?)
葵は首を傾げた。
御方様が低く言った。
「察するに──惣領家が何か困っておるのじゃろう。でなければ傍流の家に置いておる素性も知れぬ娘をわざわざ呼びはせぬ」
御方様の声にわずかな苦さがあった。
(あ、御方様、惣領家のことあんまり好きじゃないんだ)
葵は、なんとなく察した。普段、保護もしてくれないのに困ったときだけ頼ってくる。そういう本家への複雑な感情が、御方様にはあるのだろう。
家忠が静かに言った。
「母上。なれど惣領家が傾けば、わが家もただでは済みませぬ」
御方様は、家忠を見た。それからゆっくりと頷いた。
「……左様じゃな」
葵は、その短いやり取りで状況を理解した。
(あ、そういうことか)
(惣領家が潰れたら、分家の平岡家も後ろ盾を失う)
(本家が傾けば、一族全体が弱くなる)
(だから、好きじゃなくても助けなきゃいけない)
葵は、「縁」の論理を思い出した。御方様の言う「縁」。好き嫌いではなく家を保つための繋がり。惣領家との縁もその一つなのだ。
御方様が、葵を見た。
「葵殿。気は、進まぬであろうが──行ってもらえるか。惣領家のためというより、わが家のために」
葵は頷いた。
「はい。──行きます」
葵の心は、あくまで、御方様と家忠の、この平岡家にあった。惣領家のことなんて正直どうでもよかった。でもこの家のためになるのなら、行く。
(私の主君は、御方様と、家忠様)
(惣領家のために働くのも、結局はこの家のため)
葵は自分にそう言い聞かせた。
数日後、葵は家忠とともに惣領家へ向かった。
惣領家の屋敷は、平岡家(分家)よりはいくらか大きかった。でも、葵が想像していたほど立派ではなかった。やはり北関東の御家人。本家といっても、暮らしぶりは分家と大差なかった。
惣領家の当主、平岡太郎左衛門は、五十がらみの恰幅のいい男だった。葵と家忠を表の間に通すと、じろりと葵を見た。
(うわ、また、値踏みの目)
葵は、被衣の下で身構えた。椎尾五郎を思い出した。北関東の御家人は揃いも揃ってこの値踏みの目をする。
太郎左衛門は家忠に向かって横柄に言った。
「家忠。この娘が例の御法に詳しいという者か」
「は。葵殿と申します」
「ふん」
太郎左衛門は鼻を鳴らした。
「女子に御法の何がわかる」
(出た、女だからっていうやつ)
葵は被衣の下で内心むっとした。時代だとわかっててもちょっと苛つくやつ。でも、ここで言い返すわけにはいかない。葵は黙って頭を下げた。
太郎左衛門はしばらく葵を不満そうに見ていたが、やがて本題に入った。
惣領家の抱えている問題は、こうだった。
惣領家は、筑波山の中禅寺に毎年年貢を納める義務があった。惣領家の所領の一部が、中禅寺の寺領になっていて、惣領家はその現地を支配する代わりに中禅寺に年貢を納めていた。
ところが、この数年不作が続き、惣領家は年貢を滞納していた。
「不作じゃ。仕方あるまい」
太郎左衛門は開き直ったように言った。
「なれど、中禅寺の坊主どもがうるさくてな。滞納分を即刻納めよ、と。納めねば惣領家の現地支配を取り上げる、と」
葵は被衣の下で頭の中を整理した。
(年貢の滞納)
(本所(中禅寺)に納める年貢を、惣領家が滞納してる)
(中禅寺は、滞納が続くなら惣領家の現地支配権を取り上げる、と脅してる)
葵は借上戦とは構造が違うことに気づいた。借上は凡下。御家人ではない。だから、御法で押せた。でも、中禅寺は本所。荘園領主。年貢を納めるべき相手。そして、相手には正当な権利がある。惣領家が年貢を滞納しているのは事実なのだ。
(これ、惣領家の方が分が悪い)
葵は思った。
(滞納してるのは事実。中禅寺がそれを咎めるのは正当)
家忠が横から慎重に口を挟んだ。
「太郎左衛門殿。中禅寺は、鎌倉に訴える、と申しておるのですか」
太郎左衛門は、苦々しげに、頷いた。
「言うておる。地頭の年貢未納は、鎌倉殿の御沙汰に持ち込めば、地頭職を改替されかねぬ」
葵はその言葉にはっとした。
(あ、それ、まずいやつだ)
地頭の年貢未納。これは、御成敗式目にも追加法にも規定がある。本所が地頭の年貢未納を鎌倉に訴えれば、地頭は地頭職を取り上げられる恐れがある。惣領家が現地支配を失う、ということだ。
(惣領家が現地支配を失ったら──)
葵は考えた。
(惣領家は傾く。そして、惣領家が傾けば、分家の平岡家も後ろ盾を失う)
葵の中で、御方様の言葉が蘇った。「惣領家が傾けばわが家もただでは済みませぬ」。
(これ、ちゃんと解決しないと、まずい)
葵は被衣の下で気を引き締めた。
葵は、おずおずと口を開いた。
「あの、太郎左衛門殿。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
太郎左衛門は、面倒くさそうに、葵を見た。
「なんじゃ」
「中禅寺は、いますぐ鎌倉に訴えるつもりなのでしょうか。それとも、まだ現地で話し合う余地があるのでしょうか」
太郎左衛門は少し考えた。
「……今のところは脅しじゃろう。鎌倉まで訴訟を持ち込むのは、中禅寺とて楽ではない。坊主どももできれば現地で片を付けたい、というのが本音であろう」
(あ、それなら)
葵の頭の中で、御方様に聞いてイメージした鎌倉の絵が蘇った。鎌倉の裁判は人が押し寄せていて何年待ち。訴訟を起こす方も莫大な負担。中禅寺だって鎌倉まで僧を派遣して何年も訴訟を続けるのは避けたいはず。
(お互い鎌倉までは行きたくない)
(だったら──現地で解決できるはず)
葵は頭の中で論理を組み立て始めた。
その日の夕刻、惣領家の屋敷で中禅寺の使いとの顔合わせがあった。
中禅寺から来たのは年配の僧だった。法師、と呼ばれる、寺の実務を担う僧。以前辻市で見た武装した流れ者の僧とはまるで違う。痩せていて目つきが鋭く、いかにも頭の切れそうな、能吏といった風貌だった。
(あ、こっちは本物の寺の実務僧だ)
葵はその僧を観察した。武力ではなく知力で寺の権益を守るタイプ。借上の長九郎とも、椎尾五郎とも、太郎左衛門とも違う。一番手強そうだった。
僧は名を湛舜と名乗った。
湛舜は、太郎左衛門に向かって淡々と年貢未納の事実を並べ立てた。何年の分が、いくら、未納になっているか。寺の法会の費用にいかに支障が出ているか。これ以上滞納が続くなら鎌倉殿の御沙汰を仰ぐほかない、と。
その口ぶりは静かだったが容赦がなかった。
太郎左衛門はしどろもどろに、不作のせいだ、と弁解した。でも湛舜は取り合わなかった。
「不作は惣領家のご事情。寺の年貢とは、関わりなきこと」
湛舜は冷ややかに言った。
葵は被衣の下で見ていた。
(うわ太郎左衛門押されてる)
(これこのままだと、惣領家、鎌倉に持ち込まれて、地頭職改替されるかも)
葵は口を挟むべきか迷った。よそ者の、素性も知れぬ、女。中禅寺の使いの前で出しゃばれば惣領家の面子を潰すかもしれない。
でもこのまま黙って見ていたら、惣領家は押し切られる。そして、惣領家が傾けば、平岡家も──。
葵は意を決して口を開きかけた。
その瞬間。
湛舜がちらりと葵を見た。そして、太郎左衛門に向かって嫌味たっぷりに言った。
「時に、太郎左衛門殿。先ほどからそこに控えておられる被衣の御方は、いかなるお人かな」
太郎左衛門が口ごもった。
「あ、いや、これは、分家の方で、世話になっておる者で……御法に、少々、詳しいとかで……」
湛舜の目がすっと細くなった。
「御法に、詳しい、と」
湛舜は葵を値踏みするように見た。それからふっと鼻で笑った。
「太郎左衛門殿。まさかその娘にこの件を任せようというのではあるまいな」
葵は、被衣の下で、ぴくりとした。
湛舜は続けた。冷ややかな侮蔑の籠もった声で。
「鎌倉殿の御沙汰というは、容易きものではない。訴状の作法、陳状の作法、問注の手続き、対決の作法──その一つでも、誤れば、たちまち、不利になる。長年、訴訟を重ねてきた、われら寺家でさえ、容易ならぬ。──まして」
湛舜は、葵を見た。
「貧しき分家に拾われた教養もなき女子なんぞに、御法の何がわかる。裁判なんぞ任せられるものか」
部屋が、しん、となった。
太郎左衛門は気まずそうに目を逸らした。家忠は、わずかに眉を寄せたが何も言わなかった。
葵は被衣の下でしばらく黙っていた。
(教養もなき、女子)
(裁判なんぞ、任せられるものか)
葵の中で、何かが、静かに、火を、ともした。
それは、前に平岡家のために立ち上がった時のような三成的な「義」の高揚ではなかった。もっと冷たくて静かな、何か。
(舐められた)
葵は、思った。
(私が女だから? 貧乏な分家にいるから? 教養がないように見えるから? 女御家人がいる時代なのに駄目なの?)
(──いいでしょう)
葵は、被衣の下で、深く、息を吸った。
葵は、傍らに置いていた、二冊の本を、手に取った。
『新版 中世武家不動産訴訟法の研究』。
『中世法制史料集』。
葵は、それを、湛舜の前に、ずい、と、差し出した。
ハードカバー、A5判、二冊。分厚い。重い。
ごとり、と、板間に、鈍い音が、響いた。
湛舜の眉が、わずかに動いた。
葵は被衣を少し持ち上げて、湛舜の目をまっすぐ見た。
「湛舜殿」
葵の声は、静かだった。でも、揺るがなかった。
「鎌倉殿の御沙汰の作法。訴状、陳状、問注、対決──おっしゃる通り容易なものではございませぬ」
葵は二冊の本を、指で示した。
「ですがその作法は、すべて、この中にございます」
湛舜が、二冊の本を見た。
葵は、続けた。
「鎌倉殿の、法令。御成敗式目から、追加法に至るまで。それから、訴訟の、すべての手続き。訴状の受理から、問状の発給、陳状の提出、対決、評議、判決、執行、上訴、再審に至るまで。──この二冊に、ほぼすべて、揃うております」
葵は、息を継いだ。
「鎌倉まで行かずとも。この手引きに則って現地で、双方、訴陳を尽くせば、鎌倉殿の御沙汰と同じように、理非を明らかに、できます」
葵は湛舜の目を見据えた。
「中禅寺殿も鎌倉まで僧を遣わし、何年も訴訟を続けるのは本意ではございますまい。惣領家とて同じ。──であれば、この手引きに従うて現地にて裁きましょう。鎌倉殿の御法の通りに」
葵は言い切った。
「全部、揃うております。たぶん」
葵は、最後にいつものそれを付け足した。
湛舜はしばらく葵を見ていた。それから、二冊の本に視線を移した。
葵は湛舜の視線を逃さず、本をパラパラとめくってみせた。
湛舜の、鋭い目が、わずかに、見開かれた。漢字を読んだのだ。御成敗式目。追加法。訴訟手続。──寺家が、長年苦労して蒐集して訴訟の中で学んできた、すべてが、その二冊の中に整然と収められている。それを、湛舜は一瞬で見抜いた。
湛舜の侮蔑の表情が消えた。
代わりに警戒と、それからわずかな戸惑いが浮かんだ。
「……その、二冊」
湛舜は、低く、言った。
「いずれの寺の、聖教か。神宮文庫でも、これほどのものは──」
葵は、答えなかった。ただ、被衣の下で湛舜の目を見返した。
部屋に沈黙が満ちた。
太郎左衛門は、ぽかん、と口を開けて葵を見ていた。家忠はわずかに口の端を上げていた。
葵は、二冊の本を閉じた。
その重さは、相変わらず葵の手の中にあった。
条文だけで借上を引かせた鈍器。
それが、いま、また──もっと、手強い相手に向かって、武器になろうとしていた。
(第12話 了)




