熊本・阿蘇『カルデラの迷子と、赤牛に捧げる清正公の宴』
大分・別府の熱気から抜け出した二人が降り立ったのは、九州のへそであり、世界最大級のカルデラを誇る火の国・熊本、阿蘇。 見渡す限りの大草原と、噴煙を上げる中岳。地球の鼓動を直接肌で感じるようなスケール感の前に、二人の男が立っていた。
「……見ろ、亮! この大観峰からの絶景! 阿蘇五岳がお釈迦様の寝姿に見える『涅槃像』や! これぞまさに、肥後国を治めた加藤清正公が愛した雄大なスケール感……って、おい、亮はどこ行った!?」
直が振り返ると、亮は絶景を完全に背にし、スマートフォンの地図アプリを真剣に見つめながら、駐車場横の深い茂みへと向かって大股で歩き出していた。
「……あぁ、いとをかし……。地図アプリの青い点が示す通りに歩けば、そこに万葉集の防人たちが残した和歌の石碑があるはず……おっと!」
亮の足元がズルッと滑る。そこは遊歩道ではなく、ただの雨水が流れる深い側溝だった。
「危なッ!!」
直がスーツの裾を翻し、間一髪で亮のジャージの襟首を鷲掴みにする。
「お前、なんで地図アプリ見てんのに180度逆方向に歩き出すねん! 崖から阿蘇のカルデラにダイブする気か! 俺はな、本気でお前の首輪にGPS発信機を埋め込もうか検討しとるんやぞ!」
「……直君。……助かりました。……しかし、古の歌人たちは道なき道を歩いたのです。……『あしひきの 山のしづくに 妹待つと……』。……私の足もまた、自然と古道に引き寄せられてしまう運命なのでしょう」
「運命じゃなくてただの方向音痴や! 大人しく俺の半径2メートル以内から出るな!」
直に首根っこを掴まれて誘導され、二人は美しい草原が広がる「草千里ヶ浜」へ。 放牧された馬や牛が草を食む、牧歌的な風景が広がっている。
「……直君。私は少し、あの牛たちと『古今和歌集』について語り合ってきます」
亮がフラフラと歩き出す。直が「おい待て!」と止める間もなく、亮は草原の奥へ。数分後。直が呆れながら追いかけると、亮は牛ではなく、地元の農家の軽トラに乗ったおばあちゃんとおじいちゃんに囲まれていた。
「お兄ちゃん、えらい細いねぇ。こんなとこで迷子になったんか。ほら、うちで採れた『阿蘇の高菜』と『デコポン』、持っていきなっせ」
「あんた、ええ顔しとるな。今晩うちでメシ食っていくか?」
亮は、ダサいジャージ姿のまま、両手に抱えきれないほどの巨大な高菜の束と、大量のデコポンを持たされていた。
「……かたじけない。……阿蘇の神々が、農家の方の姿を借りて現れたのでしょうか。……直君、見てください。この高菜の鮮やかな緑。これはまさに、春の野に若菜摘む乙女たちの……」
「……お前、なんで息をするように野菜もらってくんねん!」
直は天を仰いだ。この男の「愛され人たらし」スキルは異常だ。道に迷うたびに、必ず誰かに助けられ、なぜか食料を調達してくる。
「……まぁええ。その高菜は後でホテルから自宅に送れ。そろそろ熊本市内へ移動するぞ。今夜は、赤牛と球磨焼酎が俺たちを待っとる!」
夜。ライトアップされた漆黒の要塞・熊本城を望む、市内の一角にある名物居酒屋。テーブルには、熊本が誇る絶品料理が並んだ。分厚く切られた「赤牛のステーキ」、鮮度抜群の「馬刺し(たてがみ付き)」、そしてツンと鼻を抜ける「辛子蓮根」。
「……亮、見ろ。これが火の国の宴や。今日は俺も本気でいくぞ!」
直は、米焼酎の最高峰『球磨焼酎』のロックを注文。亮の前には、熊本の銘酒『香露』のお猪口が置かれた。
乾杯!
カチャン!
お猪口をたった一口、チョロッと舐めた瞬間。
ポンッ、という音が聞こえそうなほど一瞬で、亮の顔が耳まで真っ赤に染まった。
「……直君。……このお酒。……火の国の名水が、私の毛細血管を駆け巡っています……」
亮はトロリとした目で、赤牛のステーキを口に運んだ。そして、二杯目のお猪口に口をつける。
「……あぁ、直君。……この赤牛の赤身。……噛むほどに溢れる肉汁は、まるで『万葉集』の相聞歌のように、力強く、そして優しい。……そしてこの辛子蓮根の鮮やかな黄色。……これは、秋の夕暮れに咲く女郎花……いや、私の鼻腔を突き抜けるこの辛みは、もはや武士の切腹……。……いと、あはれ……」
「お前、二杯目で完全に仕上がっとるやないか! 辛子蓮根で切腹すな!」
直は豪快に笑いながら、球磨焼酎のグラスを空にする。普段は理性的で完璧な顔を被っている直だが、アルコールが入るとそのタガが外れ始める。
「……大将! 球磨焼酎、おかわり! ピッチャーでええわ! ……うまい! この米の甘み、たまらん!」
そして、直がジョッキで焼酎を煽り始めた頃。ついに、彼の理性の堤防が決壊し、「歴史上の人物」が憑依した。
「……大将ォ!! この馬刺し、まさに『虎退治』の味がするわァ!!」
直が突然、戦国武将のような野太い声で叫び、スーツのネクタイを鉢巻きのように頭に巻き始めた。
「……ええか亮! 熊本城を見ろ! あの『武者返し』の石垣! あれこそが究極の防衛システムであり、完璧な組織の姿や! ……俺はな、今の菓子メーカーの営業も好きやが、もっと大きな城を作りたいんや!! 人材採用、人事制度の構築、管理部門の統括! これからの企業は、石垣が命なんや!!」
営業スマイルは消え失せ、天下取りを狙う軍師の顔になっている。
「……俺は本気でキャリアチェンジを狙っとる! そしていつか、100万円の資金を元手に、自分自身の事業を興す! その時はお前、俺の城の書物奉行になれェ!!」
周囲の客が「なんだあの熱いリーマンは」とざわつく中、直の演説は止まらない。
一方、その頃の亮は。
三杯目のお猪口を飲み干した亮は、丸メガネを少しずらし、信じられないほど穏やかな、仏のような微笑みを浮かべていた。
「……むにゃ……直君の……お城には、……図書館を……作って、くださいね……。……『もののふの…… 八十宇治川の…… 網代木に……』。……あぁ、いと、をかし……」
スウゥゥゥ……。
亮はジャージの袖を枕にして、テーブルの上でスヤスヤと幸せそうに眠りについた。
「……って、寝とるんかァァイ!! 俺の天下取りの宣誓を聞けェ!!」
深夜。
すっかり酔い潰れて眠りこけた長身の亮を、頭はネクタイ鉢巻きの直が、肩を貸して引きずるように歩いていた。
「……ったく、重たいねんお前。図書館で毎日重い本運んでるから無駄に筋肉質やし」
直は夜風に吹かれ、少しだけシラフに戻っていた。ライトアップされた熊本城の黒いシルエットが、二人の足元を静かに見下ろしている。
「……むにゃ……直君。……あっちに、……光る竹取物語の……竹が……」
寝ぼけた亮が、フラフラと道端の側溝の方へ吸い寄せられていく。
「アホ! そっちはドブや! だからお前にはGPSが必要なんや!!」
直は慌てて亮のジャージを引っ張り、元の道へと引き戻す。
「……でもな、亮」
直は、寝息を立てる相棒の顔を見ながら、ふと小さく笑った。
「……お前みたいに、真っ直ぐすぎるくらい自分の世界を持ってる奴がおらんかったら、俺もこんな風に自分の本音を叫べんかったかもしれんな」
「……むにゃ……直君、……それは、……いと、をかし……ですね……」
「……寝言で相槌打つな。ほら、ちゃんと歩け。明日は、さらに南へ行くぞ」
二人の千鳥足は、火の国の熱気を胸に抱きながら、熊本の夜の帳へと溶けていった。
シラフの時は正反対、酔った時はもっと正反対。けれど、なぜかお互いの欠落を完璧に補い合う二人の旅は、まだまだ終わらない。
(シーズン2・第9話 熊本編 了)




