鹿児島・桜島『西郷どんの涙雨と、薩摩切子に映る万葉の夢』
九州新幹線『みずほ』が終点・鹿児島中央駅に滑り込んだ。
南国の強烈な日差しと、うっすらと街を覆う火山灰の匂い。ついに二人は、本州の南の果て、薩摩の国へと足を踏み入れた。
「……着いたぞ、亮! ここが明治維新の震源地、薩摩・鹿児島や!」
湯達 直は、南国の暑さの中でも決してネクタイを緩めることなく、完璧にアイロンがけされたネイビースーツをビシッと着こなしていた。彼の脳内では既に、島津斉彬や西郷隆盛といった幕末の偉人たちがパレードを行っている。
「……見ろ、あの桜島の雄姿を! ドカ灰が降ろうとも動じないあのドッシリとした構え、まさに大西郷の如し! 俺たちも今日は、薩摩隼人の気概で呑み尽くすぞ!」
振り返ると、相棒の安木 亮の姿がない。直が慌てて周囲を見渡すと、亮は駅前広場の端で、スマートフォンの画面を食い入るように見つめながら、なぜか車道と歩道の境界線(かなり深めの側溝)に向かって、フラフラと歩き出していた。今日の亮は、エンジ色のダサい2本線ジャージのチャックを上までピッチリと閉め、丸メガネを灰から守るように指で押さえている。
「……あぁ、いとをかし……」
亮は、スマホの画面と足元を交互に見ながら呟いた。
「……直君、見てください。私が図書館の蔵書データと連携させて作っている『おさんぽ・文学マップアプリ』に、素晴らしい機能を追加しました。……ここ鹿児島のルートでは、万葉集に登場する植物を自動判定する『植物図鑑機能』と、南国の野鳥を記録する『野鳥観察機能』が……おっと、あそこに美しいシダ植物が……」
ズズッ。
亮が、深い側溝の縁を滑り落ちそうになる。
「危なァァッ!!」
直が猛ダッシュで駆け寄り、亮のジャージの背中をガシッと掴んで引き戻した。
「お前、植物図鑑アプリ見ながらなんで『自分が植物みたいに植えられようと』してんねん! 側溝ドボン寸前やぞ! だからお前には最新型のGPS機能付き首輪が必要なんや!!」
「……直君。……助かりました。……しかし、古の防人たちも、この薩摩の地で草の根を分け入り……」
「防人は側溝に落ちへんわ! 頼むから俺の視界から3秒以上消えるな!」
直の厳重な監視のもと、二人は錦江湾を渡る桜島フェリーに乗船した。潮風に吹かれながら、直は名物の「船内うどん」を啜り、桜島を見上げている。
「……直君。私は少し、あの甲板の先端で『海神』に和歌を捧げてきます」
「お前、絶対海に落ちるなよ! 手すりから手ぇ離すなよ!」
直がうどんの汁を飲み干して追いかけると、亮はやはり海神ではなく、地元の農家らしきおじいちゃんとおばあちゃんの集団に完全に包囲されていた。
「お兄ちゃん、ジャージが似合うねぇ! 大阪から来たんね。こげん細くて、桜島の風に飛ばされんね?」
「ほら、これ持っていきやい! うちの畑で採れたんや!」
亮の細い腕の中には、人間の子供ほどもある巨大な「桜島大根」が、まるで大切なわが子のように抱き抱えられていた。
「……かたじけない。……薩摩の地母神が、私に大地の恵みを授けてくださいました。……直君、見てください。この大根の圧倒的な質量。これはまさに、『古事記』における国生みの神話の如き……」
「……お前、フェリーに乗った15分の間でなんでそんな巨大な根菜もらってくんねん!!」
直は頭を抱えた。この男の「愛され人たらし」スキルは、南国でも健在どころか威力を増している。道に迷いかけ、ぼーっとしているだけで、なぜか地元民の庇護欲を極限まで刺激するのだ。
「……重いやろそれ! 後で郵送するから貸せ! そろそろ下船や、天文館の夜が俺たちを呼んどるぞ!」
夜。南九州最大の繁華街、天文館。二人が暖簾をくぐったのは、黒光りする木のカウンターが美しい、老舗の郷土料理店だった。目の前には、薩摩が誇る美食の数々。淡いピンク色をした「黒豚のしゃぶしゃぶ」、揚げたてで香ばしい「自家製さつま揚げ」、そして琥珀色に輝く「キビナゴの菊花造り」。
「……亮、見ろ。これが幕末の志士たちを育てた薩摩のパワーや!」
直は、鹿児島が誇る芋焼酎『魔王』のロックを注文。亮の前には、美しい薩摩切子のグラスに注がれた、ほんの少しの『お湯割り(極薄)』が置かれた。
乾杯!
カチャン!
亮が、薩摩切子のグラスに口をつけ、ほんの一口、チロッと喉を鳴らした瞬間。ポッ、と音が鳴りそうなほど鮮やかに、亮の首から上がゆでダコのように真っ赤に染まった。
「……直君。……このお酒。……桜島のマグマが、私の血管の中で産声を上げました……」
亮はトロンとした目で、黒豚のしゃぶしゃぶをポン酢にくぐらせ、口に運ぶ。そして、二口目のお湯割りをコクリと飲んだ。「……あぁ、直君。……この黒豚の脂の甘み。……口の中でとろけるこの感覚は、まるで『古今和歌集』の紀貫之が綴った、春の淡雪のようです……。……そして、このさつま揚げの力強い弾力。……これは、大伴家持が歌った防人の屈強な肉体そのもの……。……あぁ、私の胃袋で今、平安貴族と防人が相撲を取っています……。……いと、あはれ……」
「お前、二口目で完全に別次元行っとるやないか! 胃袋の中で歴史の異種格闘技戦させんな!」
直は完璧な営業スマイルを崩し、豪快に笑いながら『魔王』のロックを飲み干した。普段は常識人で世話焼きの直だが、酒が入れば入るほど、彼の中の「何か」が目を覚ます。
「……大将! 芋焼酎、次は『伊佐美』をストレートで! ……うまい! この芋のガツンとくる香り、これぞ薩摩隼人の血潮や!」
そして、直が三杯目のストレートを空にした頃。ついに、理性のタガが完全に外れ、薩摩の英傑が直に憑依した。
「……大将ォ!! このキビナゴ、まさに『集成館事業』の輝きやなァ!!」
直が突然、幕末の大名のような威厳に満ちた声で叫び、スーツのジャケットを脱ぎ捨てて腕をまくり上げた。
「……ええか亮! 薩摩はな、いち早く西洋の技術を取り入れ、近代化を推し進めたんや! ……俺も今、菓子メーカーの営業という枠に収まってる場合やない!! 人事、採用、そして管理部門の統括! これからの企業に必要なのは、新しい血を入れる『開国』なんや!!」
完全に目が「維新の志士」のそれになっている。周囲の客も「なんだこの熱すぎるサラリーマンは」と圧倒され始めている。
「……俺は本気や! 資金100万円! たった100万円の資本金からでも、徹底した人事コンサルと採用支援のビジネスを立ち上げてみせる! 薩摩の若き藩士たちがイギリスに渡ったように、俺もリスクを取る! その時は亮! お前、俺の会社の特命資料編纂室長になれェ!!」
直が熱く、論理的かつ情熱的な事業計画(泥酔版)を叫び続けている、その頃の亮は。
三口目のお酒を飲み干した亮は、丸メガネを外し、薩摩切子の美しいカットを指でなぞりながら、この世の全ての悟りを開いたような、至福の微笑みを浮かべていた。
「……むにゃ……直君の……新しい会社には、……万葉集の……全巻を……置いて、くださいね……。……『薩摩潟…… 沖つ白波…… 立ちしきり……』。……あぁ、いと、をかし……」
スウゥゥゥ……。
亮は、ジャージの袖をクッションにして、黒豚の皿の横でスヤスヤと平和な眠りについた。
「……って、また寝とるんかァァイ!! 俺の100万円起業のピッチを聞けェ!!」
深夜。
すっかり酔い潰れて眠りこけた長身の亮(右腕にはなぜか桜島大根を大事そうに抱えている)を、スーツ姿の直が肩を貸して、フラフラと引きずるように歩いていた。
「……ったく、重たいねんお前。しかも大根まで抱え込みやがって。なんで俺が、深夜の鹿児島で大根抱えたジャージ男を介護せなあかんねん」
直は夜風に吹かれ、少しだけシラフに戻っていた。南国の生ぬるい風が、酔った火照りを優しく撫でていく。
「……むにゃ……直君。……あっちの……暗がりに、……西郷どんの……犬が……」
寝ぼけた亮が、フラフラと道端の暗がり――またしても深い側溝の方へ吸い寄せられていく。
「アホ! そっちはドブや! 西郷どんの犬はお前みたいなジャージ男には懐かんわ!!」
直は慌てて亮のジャージを引っ張り、大根ごと力強く元の道へと引き戻す。
「……でもな、亮」
直は、寝息を立てる相棒の顔を見ながら、ふと小さく笑った。
「……お前みたいに、自分の好きなもん(古典)に一直線で、損得勘定なしで生きてる奴がおらんかったら、俺も『100万円で起業する』なんて無茶な夢、口に出せんかったかもしれんな。……お前のその『天然』が、俺のガチガチの『常識』を壊してくれるんや」
「……むにゃ……直君、……それは、……いと、をかし……な、相補性……ですね……」
「……寝言で難しい言葉使うな。ほら、ちゃんと歩け。大根落とすなよ」
シラフの時は、完璧な営業マンと、天然の司書。酔った時は、幕末憑依の起業家と、幸せに眠るポエマー。
決して交わらないはずの二人の凸凹な歩みは、なぜか完璧なバランスを保ちながら、鹿児島の夜道を進んでいく。
その千鳥足は、果てしなく、どこまでも続いていくのだ。
(シーズン2・第10話 鹿児島編 了)




