大分・臼杵『石仏の慈悲と、豊後水道を呑み干す関サバの咆哮』
宿毛からのフェリーが佐伯港に接岸した瞬間、湯達 直は、甲板の手すりを掴んで大きく深呼吸をした。
「……ついに来たぞ、九州! 豊後、大友宗麟が夢見たキリシタンの理想郷や!」
直は、営業エースらしい張りのある声で叫んだ。彼の頭の中には、九州の戦国地図がプロジェクションマッピングのように投影されている。
一方、安木 亮は、フェリーの下船スロープを降りた直後、なぜか海に向かって引き返そうとしていた。
「……いと、をかし。直君、見てください。九州の土を踏んだ瞬間、私の三半規管が『万葉集』の時代へと逆行を始めました。……あぁ、あちらに見えるクレーンの形が、まるで古代の祈祷師が使う杖のように見えます。……よし、私はあちらの造船所の中へ、歴史の深淵を探しに行こうと思います」
「亮! そっちは立入禁止や! 九州に来て五分で不法侵入で捕まる気か!」
直は亮のジャージの襟を掴み、強引に駅へと向かうバスへ押し込んだ。
「ええか、佐伯は『世界一の寿司』を自称するほどの魚の街や。でも、今夜のメインは臼杵まで移動してからや。そこには、お前が好きそうな『石の文学』が待っとるぞ」
二人はJR日豊本線で北上し、城下町の風情が残る臼杵へ。最初に向かったのは、国宝・臼杵石仏。平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたとされる、六十体以上の磨崖仏が並ぶ静謐な霊地だ。
「……あぁ……」
亮は、古園石仏の大日如来像を見上げた瞬間、その場に膝をついた。
「……直君。……見てください、この慈愛に満ちた表情。……かつてこの首が落ちていた時代、人々はそこに何を重ねたのでしょうか。……『諸行無常』……。この石の肌に残る鑿の跡は、まさに失われた古典籍の行間を埋める沈黙の言葉です……。……あぁ、私は今、如来様の掌の上で、目録を整理したい……」
「……お前、石仏の前で司書モードに入るな。神々しすぎて逆に怖いぞ」
直は感心しつつも、周囲の観光客の視線を気にする。
「……でもな、亮。ここを統治した大友宗麟は、この仏教文化の真っ只中でキリスト教に帰依したんや。その葛藤、組織運営におけるパラダイムシフトの凄まじさ……。俺も今、転職という大きな転換点におる。宗麟のような大胆な決断力が必要なんや!」
その時、石仏を案内していたボランティアの老婦人が亮に歩み寄ってきた。
「お兄さん、えらい熱心やねぇ。如来様もお喜びよ。……これ、うちで採れた『カボス』、持っていきなさい」
亮は、あっという間に大きなカボスを五個も譲り受けていた。
「……かたじけない。……如来様がカボスに化けて現れたのでしょうか。……直君、この香りは、平安の薫物よりも鮮烈です。……私のバッグが、今度は大分の果実全集になりました」
夜。二人は臼杵の古い町並み「二王座歴史の道」の近くにある、創業百年の料亭風居酒屋へ。今夜の狙いは、豊後水道の急流に揉まれた海の宝石、「関サバ」だ。
「……亮、これを見ろ。これが大分の、いや、日本の誇りや」
運ばれてきたのは、青白く光る、角が立った関サバの刺身。直は、地元大分の銘酒『西の関』を注ぎ、まずは乾杯の音頭を取る。
カチャン!
「……ッ!!」
直が一口飲んでのけ反る。
「……旨い! どっしりとした米の旨味が、関サバの脂を迎え撃つ構えや! ……まさに、島津軍の猛攻を耐え抜いた大友軍の鉄壁の守り……! 宗麟、あんたこんな旨いもん食ってたんか!?」
亮は、お猪口一杯の酒で既にポエマーの門を開いていた。
「……直君。……この関サバ。……コリコリとした食感。……これは、紀貫之が『土佐日記』で書きたくても書けなかった、海の真実です。……そこに、先ほどのおばあちゃんからもらったカボスを絞る……。……あぁ、酸味と脂が、私の口の中で『伊勢物語』の恋のように溶け合っていきます……」
「……お前、例えが官能的すぎて酒が進むわ! ほら、この『ギョロッケ(魚肉コロッケ)』も食え! 庶民の味方や!」
三杯目。直の「歴史憑依」が発動し、声のボリュームが営業エースのプレゼンモード(泥酔版)に切り替わった。
「……店長ッ!! このカボス平目、脂のノリが『南蛮貿易』やな! 富が溢れとるわ!! ……ええか亮! 宗麟はな、この大分を東洋のローマにしようとしたんや! ……俺も今、この瞬間に営業という枠を捨て、九州全土を網羅する新たな経済圏を構築する! ……名付けて『千鳥足・ダイナミクス構想』や!! ……店長! 麦焼酎の『二階堂』を、大友家の家紋入りのジョッキで持ってまいれ!!」
「……直君、……声が、……国宝の石仏まで届いていますよ……」
亮は既に幸せそうに寝息を立て始め、箸袋に「大分カボス辞書」の序文を書き殴っていた。
「……むにゃ……如来様……。……隣に、……お酒を、……置いてもいいですか……。……『石仏の…… 肩に落ちたる…… カボスかな…… 酔えば如来も…… 微笑み給う……』。……いと、をかし……」
「……何を如来様と酌み交わそうとしとるんや! お前は明日から臼杵の石を全部目録化するつもりか! ……店長! この『だんご汁』も追加や! 小麦の麺が、俺の胃袋という名の豊後平野を蹂躙していくんや!!」
店を出た二人は、月明かりに照らされた「二王座歴史の道」の石畳をふらふらと歩く。
亮は、おぼつかない手つきでスマートフォンを取り出した。
「……直君。……見てください。……おさんぽアプリの……座標が、……海の上にあります。……私は今、……陸にいるのでしょうか、……それとも……宗麟の南蛮船に乗っているのでしょうか……」
「……それはお前のGPSが酔っ払っとるだけや! 逆や、宿は坂の上やぞ!」
直は亮の肩を抱き、歴史の影が色濃く残る路地を歩く。
「……でもな、亮。お前とこうして九州を歩いてると、なんか不思議な力が湧いてくるわ。……お前の『天然』が、俺の『論理』を適当に壊してくれる。……それが心地ええんやな」
「……直君、……それは、……組織運営における……ダイバーシティの……肯定、……ですね?」
「……ええこと言うな、酔っ払いのくせに! ほら、そのまま寝るなよ、ここはキリシタンの聖地やぞ、清らかな心で歩け!」
深夜。二人は(またしても地元の人に「あんた、如来様に似てるねぇ」と声をかけられながら)宿へと帰り着いた。
直の枕元には、宗麟の戦術を記したつもりの「カボスの皮」が。亮の腕には、石仏と交信するための「魔法の杖(自撮り棒)」が握られていた。
臼杵の夜は、潮騒と石仏の微笑みに包まれながら、更けていく。
翌朝。二人は、さらなる北の目的地、湯煙たなびく別府へと向かう列車の中にいた。
「……亮。次は、別府や。八つの地獄が待っとるぞ」
「……地獄。……いいですね。……『往生要集』の世界を、……水着で体験できるのですね……。……直君、……私は地獄の入り口で、……図書室の貸出カードを配ってこようと思います……」
「……地獄の沙汰も『本』次第か! おもろいな、行こうぜ、地獄の果てまで!!」
二人の千鳥足は、大分の豊かな魚と酒を血肉に変え、湯煙り沸き立つ別府の「地獄巡り」へと加速していく。
(シーズン2・第7話 佐伯・臼杵編 了)




