愛媛・松山『道後温泉の白鷺伝説と、蛇口から滴る黄金の蜜』
香川から特急『いしづち』に揺られ、二人は伊予の国、愛媛県・松山へと降り立った。駅を出ると、そこにはレトロな路面電車が走り、街全体がどことなくのんびりとした、しかし一本筋の通った「文学の香り」に包まれている。
「……亮。お前、今度は何に感動して立ち止まってんねん。松山城に行くリフト乗り場はあっちやぞ」
湯達 直が振り返ると、安木 亮は路面電車の停留所で、掲示板の路線図を指でなぞりながら、深い溜息をついていた。
「……いと、をかし。直君、見てください。この路面電車……。まるで夏目漱石の小説から抜け出してきたかのような、古風な佇まい。……あぁ、私は今、明治の世にタイムスリップした『坊っちゃん』のような心持ちです。……よし、決めた。私はこの一番端の電車に乗って、世界の果てまで揺られていこうと思います」
「世界の果てどころか、お前それ車庫に入るやつやぞ! 降りろ! 逆や逆!」
直が亮の首根っこを掴んで引きずり下ろし、ようやく二人は松山市内の中心部へ。見上げる先には、標高一三二メートルの勝山にそびえる、現存十二天守の一つ「松山城」。
「……亮、見ろ。あの鉄壁の構え。築城の名手、加藤嘉明が二十五年かけて築いた、まさに難攻不落の要塞や。……連立式天守のこの美しさ。幕末まで残ったこの威容……。俺がもし伊予松山藩の武士やったら、この城門の前で一人、押し寄せる官軍を食い止めとったわ!」
一方、亮はリフトに揺られながら、古びたメモ帳にペンを走らせていた。
「……直君、知っていますか。この地は正岡子規が愛した故郷。『柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺』は奈良の句ですが、彼は松山でも数多くの句を詠みました。……あぁ、リフトの下に広がるこのミカンの木の青々とした葉。……『春風や 城をめぐりて リフトゆく』……。一句できました」
「……お前、リフトで一句詠むやつがあるか。季語が台無しや」
城を降りた二人が向かったのは、ロープウェイ街にある観光案内所。そこには、都市伝説として全国に知れ渡る「蛇口から出るみかんジュース」が実在していた。
「……亮、これを見ろ。まさに愛媛の奇跡や」
直が百円玉を投入し、蛇口をひねると、黄金色の液体がドクドクとコップに注がれる。
「……ッ!!」
直が飲み干す。
「……濃い! 濃すぎる! これはもはや飲み物というより、ミカンの魂そのものや! ……ええか亮、これが加藤嘉明が求めた『黄金の蜜』の正体かもしれんぞ」
亮も震える手で蛇口をひねった。
「……直君。……かつて、この地には『橘』を神聖視する信仰がありました。……この蛇口から滴る蜜は、古代から続く太陽の恵み……。……あぁ、私の喉が、ミカン色の夕日に染まっていくようです……。……店員さん、この蛇口、自宅のキッチンに増設することは可能でしょうか?」
「無理に決まってるやろ! 破産するわ!」
その時、地元のおじいさんが亮に話しかけてきた。
「お兄さん、ええ飲みっぷりやな。……愛媛のミカンは種類が何十種類もあるんよ。今は『せとか』が美味い。……ほら、これ持っていきな」
手渡されたのは、やはり大量の高級ミカンだった。
「……かたじけない。……伊予の国は、なんと施しに満ちた地なのでしょうか。……直君、また食料が増えました。私のバッグは、もうミカン全集です」
夕暮れ時。二人はついに、日本最古の温泉、「道後温泉」へ。
明治二十七年に建築された本館は、壮麗な木造建築で、ジブリ映画のモデルの一つとも言われる風格を放っている。
「……亮、ここやぞ。三千年以上の歴史があると言われる温泉や。……伝説では、足を怪我した白鷺が、岩の間から湧き出るお湯に浸かって傷を治したんや。それを見て人間も入るようになったんやで」
「……あぁ、白鷺。……聖徳太子も入ったと言われる、霊験あらたかなる湯。……直君、私は今、一羽の鷺になりたい。……日々の司書業務で凝り固まった肩甲骨を、この太古の熱に委ねたいのです……」
本館の中は迷路のよう。亮は案の定、脱衣所から浴室へのわずか三メートルの距離で迷子になり、女湯の方へフラフラと向かおうとして、直に首根っこを掴まれた。
「……どこ行くねん! 『坊っちゃん』の部屋を拝む前に、お前が『お縄』になるわ!」
湯上がりの休憩室。二人は浴衣姿で、道後名物「坊っちゃん団子」を頬張る。
「……甘い。この三色の団子……。抹茶、卵、小豆。……まさに、漱石が描いた人間模様の縮図やな」
直が緑茶を啜る。
亮は、団子を一本手に持ち、虚空を見つめた。
「……直君。……『坊っちゃん』の中で、主人公は温泉で泳いで注意書きを書かれますよね。……私も今、心の中で泳いでいます。……文学の海を。……あぁ、温泉の蒸気が、私の脳内の古今和歌集をふやかしていく……。……いと、をかし……」
夜。松山最大の繁華街・大街道。二人は、今夜の戦場となる郷土料理店へ。愛媛には二種類の「鯛めし」がある。松山流の炊き込みスタイルと、南予・宇和島流の「刺身スタイル」だ。
「……亮、今夜は宇和島スタイルで行くぞ。……生け簀の新鮮な鯛を刺身にし、秘伝のタレと生卵を混ぜたものをご飯にかける……。これぞ、村上海賊も愛した勝負飯や!」
注文したのは、「宇和島鯛めし」、「じゃこ天」、そして愛媛の地酒『石鎚』。
まずは乾杯。
カチャン!
「……ッ!!」
直が『石鎚』を飲み干す。
「……美味すぎる!! 清涼感の中に、しっかりとした芯がある。……まさに、西日本最高峰の石鎚山を仰ぎ見るような神々しさや! ……店長、この酒、志士たちの夜明けの味がするな!?」
亮は、お猪口一杯で既に頬をバラ色に染め、宇和島鯛めしの準備に取りかかっていた。
「……直君。……この透き通った鯛の身。……これは、紀貫之が『土佐日記』の帰路に眺めた、穏やかな瀬戸内の波しぶきそのものです。……そこに、黄金の卵黄が混ざり合う……。……あぁ、これは『月と太陽の結婚』です……」
亮がタレのかかったご飯を口に運ぶ。
「……はふ……。……直君、……鯛が……私の口の中で、跳ねています。……私は今、海になっています」
直も負けじと、揚げたての「じゃこ天」を齧る。
「……この小魚の骨のジャリッとした食感! これぞ愛媛の魂や! ……店長ッ!! このじゃこ天、パンクやな! ……ええか、正岡子規も、病床でこのじゃこ天を食えば、あと五万句は詠めたはずや!! ……おい亮、お前は今から河東碧梧桐になれ! ……おい店長! 『石鎚』を樽で持ってこい! 俺は今から、松山城の門番として、夜明けまで飲み明かすんや!!」
「……直君、……声が……大街道の端まで聞こえています……」
亮は既に三杯目で、幸せそうに机に突っ伏し始めた。
「……むにゃ……夏目先生……。……吾輩は……猫ではなく……、……酔っ払いです……。……名前は……亮です……」
三軒ハシゴし、千鳥足で向かったのは、締めの「五色そうめん」。白、赤(梅)、黄(卵)、緑(抹茶)、茶。江戸時代に、ある少女が美しい糸の束を見て思いついたという、松山の伝統料理だ。
着丼した瞬間、直が身を乗り出した。
「……美しい。この彩り……。まさに、幕末の動乱期を生き抜いた個性豊かな志士たちの競演や! ……赤は高杉! 黄色は龍馬! ……俺は今、多色刷りの浮世絵の中にいる気分や!」
ズズッ。
喉越し爽やかな麺が、酒で火照った胃を優しく撫でる。
亮は、麺の一本一本を愛でるように眺めていた。
「……直君。……この色は、人生の喜びと悲しみを表しています。……白い糸は無垢な心、赤い糸は運命の……。……あぁ、直君。……私の赤い糸は、……どこで、……酒瓶に絡まってしまったのでしょうか……」
「……お前のは、赤い糸じゃなくて『飲み過ぎの血管』や! ほら、最後の一口食え!」
深夜。二人は、かつて河野氏の居城であった湯築城跡(道後公園)をフラフラと歩く。
静かな夜の公園。土塁の影が、歴史の深さを物語っている。
「……亮。……あそこが、かつて伊予を支配した河野一族の夢の跡や」
直が酔った顔を夜風に晒す。
「……どんなに権勢を誇っても、最後は時の中に消えていく。……でも、この街の美しさは変わらんな」
亮は、ベンチに座り込み、月を見上げて呟いた。
「……直君。……『柿くえば……』。……私は今、……『酒飲めば…… 腹が鳴るなり…… 道後かな』。……子規先生、……すみません……」
「……お前の句は、いつも最後が食べ物になるな。……でも、ええ夜や」
亮は、最後に一首、即興で詠んだ。
「……『伊予の路を…… 千鳥足なる…… 二人連れ…… 蛇口の蜜が…… 明日を照らす』」
「……お、いい締めやんけ。……って、亮! お前また逆の方向に歩き出しとるぞ! 宿は反対や!」
二人の千鳥足は、道後の温泉街の灯りに導かれるように、夜の闇へと消えていった。
松山の夜は、ミカンの甘い香りと、文豪たちの囁き、そして心地よい酔いと共に、更けていく。
(シーズン2・第3話 松山編 了)




