香川・高松『讃岐うどんの結界と、崇徳院の孤独な食卓』
徳島から特急『うずしお』に揺られること約一時間。湯達 直と安木 亮は、香川県・高松駅に降り立った。駅を出た瞬間、鼻腔をくすぐるのは、潮の香りと——圧倒的な「いりこ(煮干し)」の出汁の匂いだ。
「……亮。お前、さっきから何してんねん」
直が振り返ると、亮は駅のロータリーにある池に向かって、深々と頭を下げていた。
「……直君。……見えませんか。この高松の街を覆う、黄金色のオーラが。……これは、数千年の時をかけて煮詰められた『うどん出汁』の結界です。……不用意に歩けば、我々の体組織もうどんに作り替えられてしまう……。まずは、海の神に挨拶を」
「お前の脳みそが既にうどんになっとるわ。行くぞ、まずはあそこや」
二人が向かったのは、駅から目と鼻の先にある「高松城(玉藻城)」。
日本三大水城の一つで、堀に海水が引き込まれている珍しい城だ。ここでは、堀を泳ぐ「真鯛」に餌をあげる「鯛願成就」という体験ができる。
「……ほら亮、餌や」
直が餌を投げると、巨大な鯛がバシャバシャと水しぶきを上げて群がってくる。
「……すごい生命力や。これぞ生駒親正が築いた鉄壁の守り……。海からも山からも、敵を寄せ付けん威風堂々たる構えやな!」
一方、亮は餌の入った袋を握りしめ、鯛と目を合わせていた。
「……直君。……万葉歌人・山部赤人が『玉藻よし 讃岐の国は……』と詠んだこの地。……この鯛たちは、もしかすると平安の昔から、都を追われた貴族たちの涙を食べて生きてきたのかもしれません。……あぁ、悲しきかな、鯛の目も潤んでいる……。いと、あわれなり……」
「……亮、それ鯛が餌欲しくて必死なだけや。……おい、お前、鯛に話しかけすぎて地元の中学生が避けて通ってるぞ」
高松市内から少し足を伸ばし、二人は坂出市の「白峯宮」へ。
ここは、保元の乱に敗れ、讃岐に流刑となった崇徳上皇を祀る場所だ。亮にとって、ここは聖地中の聖地である。
「……直君。……日本最大の怨霊とも言われる崇徳院。……彼はここで、都への想いを断ち切るために爪も髪も伸ばし放題にし、自らの血で経典を書いたと言われています……」
「……おどろおどろしいな。……でも、悲劇のヒーローやな。……新天王として即位できず、権力争いに負けてこの最果てに。……俺がもしこの時代の武士やったら、上皇様をお守りして京に攻め上ってたわ!」
亮は、神社の境内で、すらすらと一首の歌を暗唱し始めた。
「……『瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の……』。……直君。この歌は、離れ離れになった恋人がいつか再会することを願う歌とされていますが……。今の私には、この地で飲めなかった『都の酒』への未練に聞こえます」
「お前が詠むと全部酒の話になるな! ほら、おばあちゃんが掃除の手を止めてお前に感心しとるぞ」
境内の掃除をしていた地元の女性が、亮に近づいてきた。
「お兄さん、詳しいなあ。崇徳さんは寂しい人やったけど、この辺のもんはみんな大事にしとるんよ。……これ、あげるわ」
渡されたのは、またしても大量の「みかん」だった。
「……あぁ、かたじけない。……これも上皇様が我々に遣わした『供物』の一部でしょうか」
「違うわ! ただの親切や! 亮、お前どこ行っても貢ぎ物もらうな」
夕暮れ前、二人は高松市内のうどんの名店へ。香川のうどんは「セルフ」が基本だ。
「……亮、ええか。ここからは戦場やぞ。……まずは丼を受け取る。麺を温めるのは自分。出汁を注ぐのも自分。……そして、天ぷらのチョイスが勝敗を決める!」
直は手際よく「ぶっかけ・大」を注文。トッピングに巨大な「ちくわ天」と「半熟卵天」をチョイス。
一方の亮は、カウンターの前で固まっていた。
「……直君。……このトッピングの羅列……。まるで『古今和歌集』の二十巻の構成のようです。……どれを先に選ぶべきか。……春の歌か、秋の歌か……。……あぁ、後ろの工事現場のおじさんの視線が、私の背中を射抜くようです……」
「……早よ決めろ! 『かき揚げ』でええやろ!」
ようやく着席。透き通った黄金色の出汁。エッジの立った白い麺。
ズズッ、ズズズッ!!
「……ッ!!」
直が丼を叩く。
「……コシや!! この跳ね返るような弾力! まさに、屋島の戦いで那須与一が放った矢の勢いや! ……いりこ出汁のパンチが、胃袋に源氏の軍勢のように攻め込んできよる!」
亮は、麺を一本持ち上げ、光に透かして見ていた。
「……直君。……見てください。この麺の透明感。……これは、清少納言が『枕草子』で讃えた『冬はつとめて』の朝の空気感そのものです。……ツルリとした喉越し。……あぁ、私の喉が、琴の弦のように鳴り響いています……」
「……うどん一本でそこまで語れるのお前だけや。ほら、冷める前に食え。……次は、酒や!」
夜。高松最大の歓楽街・瓦町。二人は、香川のもう一つの名物「骨付鳥」の店へ。スパイシーな香りが店いっぱいに充満している。
「……まずは、これや」
直が注文したのは、親鶏の「おや」と、雛鶏の「ひな」。
そして合わせるのは、香川の地酒『凱陣』。
乾杯!
カチャン!
「……カァーッ!!」
直が『凱陣』を飲み干す。
「……重厚や! この酒、どっしりとした構え。……幕末、高杉晋作が四国に潜伏した時の、あの緊迫感を感じるわ! ……店長、この酒、志士たちの魂が入っとるな!?」
亮は、お猪口一杯で既に目が泳いでいる。
「……直君。……『おや』は硬い。……噛めば噛むほど味が出る。……これは、漢文の読み下しと同じです。……一方で『ひな』は柔らかい。……これは、土佐日記のパロディです……」
「……意味不明や! ほら、この骨付鳥の脂に、おにぎりを浸して食うのが通のやり方や!」
直が肉汁にどっぷりとおにぎりを浸して口に放り込む。その瞬間、彼の「歴史憑依」が発動した。
「……店長ッ!! この脂の輝き! まさに、金毘羅参りの灯籠の火や! ……ええか、坂本龍馬もこの脂を舐めて、世界の洗濯を思いついたに違いねえ! ……俺は今、海援隊の気分や! ……おい亮! お前は今から陸奥宗光になれ! ……おい店長、もう一升持ってまいれ! 香川の鶏を全部俺の胃袋に参勤交代させてやる!!」
「……直君、声が……大きすぎます……」
亮は既に幸せそうに寝息を立て始めている。
「……むにゃ……崇徳院……一緒に……うどん食べましょう……ポエム、送り合って……」
「……こいつ、怨霊と文通しようとしとるぞ! 起きろ亮! 今から金毘羅さんの階段、全速力で登るぞ!!」
深夜。二人はタクシーで屋島の山上へ。眼下に広がるのは、瀬戸内海の穏やかな多島美。
「……亮。……あそこが、源平合戦の舞台や」
直が酔った赤い顔で海を指差す。
「……義経の八艘飛び。……扇の的。……男たちの夢が、あの波の下に沈んどるんやな」
亮は、フラフラしながら手すりにつかまり、月を見上げた。
「……直君。……『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……』。……でも、私の腹の中には……『いりこ出汁の余韻あり』。……諸行無常かもしれませんが、……この満腹感だけは、……永遠だと信じたい……」
「……ええこと言ったつもりやろうけど、お前の腹、うどんでパンパンやぞ」
亮は、最後に一首、即興で詠んだ。
「……『讃岐路を…… 千鳥足なる…… 二人連れ…… うどんの糸が…… 縁を繋ぐ』」
「……お、まともな句やんけ」
「……と言いつつ、……直君。……私、……帰り道がわかりません」
「……やっぱりか! 逆や、出口はあっちや!」
二人の千鳥足は、屋島の月光に照らされながら、闇の中へと消えていった。
香川の夜は、いりこの香りと、歴史の亡霊たちの囁きと共に、更けていく。
(シーズン2・第2話 香川編 了)




