徳島・鳴門『阿波の狸と、世界を飲み込む巨大な渦(と、すだち)
三月、春の気配が漂う大阪・梅田。
老舗菓子メーカーの営業エース、湯達 直は、阪急百貨店前の待ち合わせ場所で、深く、深いため息をついていた。
「……亮。お前、今どこや。そこは『動く歩道』の終点か? 違うな、お前の後ろに見えてる看板、『東通り商店街』やろ。駅の反対側や。……そのまま動くな。動いたらお前、明日には名古屋におるぞ」
電話の向こうでは、大学図書館司書の安木 亮が、のんびりとした声を上げている。
「……いとおかし、直君。大阪駅というのは実に不思議な空間ですね。歩けば歩くほど、目的地が『奥の細道』のように遠ざかっていく。まるで時空が歪んでいるかのようです」
「歪んでるのはお前の三半規管や。ええから、そこにいろ。俺が『捕獲』しに行く」
十分後。
人混みの中で、丸メガネを光らせ、よれよれのジャージ姿で呆然と立っている亮を、直が「確保」した。亮の肩には、古典文学全集の厚い一冊が入った古びたショルダーバッグが食い込んでいる。
「亮、今日は神戸からバスで四国に入るんや。遅れたら阿波踊り踊りながら海渡ることになるぞ」
「……おぉ、直君。四国。弘法大師空海が歩んだ修業の地ですね。『同行二人』……我々二人の旅にぴったりではありませんか」
「お前が『逆打ち』して迷子になるのが目に見えてるわ。行くぞ!」
明石海峡大橋を渡り、淡路島を縦断して、二人は徳島県・鳴門へ降り立った。
目の前に広がるのは、鳴門海峡。
瀬戸内海と紀伊水道の激流がぶつかり合い、巨大な渦を巻く、世界最大級の潮流だ。観光用遊歩道「渦の道」を歩き、海上四十五メートルのガラス床から下を覗き込む。
「……ひえっ」
直が顔を引き攣らせる。
「……吸い込まれる。これ、三好長慶も見たんかな。……この渦、まるで戦国の激動そのものやないか」
一方、亮はガラス床の上にへたり込み、熱心にメモを取っていた。
「……直君、知っていますか。徳島は『狸の国』なのです。阿波狸合戦の民話……。金長狸率いる軍団が、ここで化かし合いをしたという。……あぁ、見てください。あの渦、実は巨大な狸が尻尾で海をかき回しているのではないか……そんな幻覚が見えてきました」
「お前の場合はシラフで幻覚見るからタチが悪いんや。ほら、地元のおばあちゃんが不思議そうな顔でお前を見てるぞ」
案の定、亮の側に、派手な手作り帽子を被った地元の高齢女性が近づいてきた。
「お兄ちゃん、そんなに渦が怖いんか? 飴ちゃんあげるけん、しっかりしなよ」
「……あぁ、かたじけない。……いと、かたじけない。……この飴、もしかして狸の化かしではないですよね?」
「何言いよん、ただの黒飴よ!」
亮はあっという間におばあちゃんと仲良くなり、徳島弁のイントネーションを教わっていた。
夕暮れ時。二人は徳島市内へ。
今夜の戦場は、徳島駅前の路地裏にある、地元の人に愛される居酒屋。
店に入ると、芳醇な柑橘の香りが漂ってきた。徳島の至宝、「すだち」だ。
「……まずは、これやな」
直がメニューを指差す。「すだちハイボール」。そして亮は、「鳴門鯛の刺身」と、徳島の地酒『芳水』を注文した。
まずは乾杯。
カチャン!
「……ッ!!」
直がグラスを置く。
「……爽やかすぎる! すだちの酸味が、ハイボールの炭酸と合わさって、喉を突き抜ける! ……これは、長宗我部元親が四国を平定した時のような爽快感や!」
亮は、お猪口一杯の『芳水』を口にし、瞬時に顔をリンゴのように赤くした。
「……あぁ……『芳しき水』と書いて芳水。……その名の通り、阿讃山脈の清流が見えるようです。……直君、この鳴門鯛の身の締まり。……渦潮に揉まれた筋肉の輝き。……万葉集にある『由良の門を……』という歌を思い出します……」
「……二杯目やぞ。もうポエムが始まったか」
料理が運ばれてくる。
「阿波尾鶏」の焼き鳥。身が厚く、噛みごたえがあり、溢れ出る肉汁。
三杯目。
直はすだちを大量に絞った地焼酎のお湯割りにシフト。亮は……もう目が座っている。
「……直君。……さっきのおばあちゃんが言ってました。……徳島には『狸の祠』がたくさんある。……狸は酒が好きなんです。……私も……狸になりたい。……化かしたい。……直君を、美女に化かしたい……」
「……お前が狸になったら、化かす前に道に迷って山に帰れなくなるやろ。……それより食え、この『フィッシュカツ』。徳島のソウルフードや」
魚のすり身にカレー粉を混ぜ、パン粉で揚げたフィッシュカツ。
一口食べた瞬間、直のスイッチが入った。
「……店長ッ!! このカツ、ファンキーやな! カレーの風味が、幕末の黒船来航のような衝撃や! ……ええか、松平茂昭(徳島藩主)も、このカツを食えば、もっと早く開国に踏み切ったはずや!」
「……出た、歴史憑依ボケ」
亮がトロンとした目で呟く。
「……直君、声が大きいです。……徳島藩は、親藩ですから……開国には慎重だったんですよ……」
「やかましい! 今、俺には阿波の志士たちの声が聞こえるんや! ……店長! すだち一升持ってこい! 徳島の海を全部ハイボールにしてやる!!」
二軒ハシゴし、千鳥足で向かったのは、締めの「徳島ラーメン」。
豚骨醤油の濃い茶色のスープに、甘辛く煮た豚バラ肉、そして中央に鎮座する「生卵」。
着丼した瞬間、直が身を乗り出した。
「……茶色い。このスープの色の深さ、まさに……関ヶ原の泥沼の戦いや」
ズズッ。
スープを啜る。
「……濃ッ!!」
直が唸る。
「……でも、この生卵を溶かすと……あぁ、慈愛や。……激動の戦国時代を包み込む、ねね(高台院)の優しさや。……豚バラ肉の甘みが、胃袋を蹂躙していく!」
亮は、麺を一本ずつ大切に啜りながら、幸せそうに微笑んでいた。
「……直君。……徳島ラーメンは『おかず』です。……白ごはんが欲しい。……ラーメンとごはんの邂逅。……それは、紫式部と清少納言が女子会を開くような、奇跡の組み合わせです……」
「……お前、パフェも食うとか言わんやろな」
「……あぁ、……いと、をかし……(そのままカウンターで沈没)」
「……亮!! 寝るな! ここは戦場やぞ! 起きろ、狸に化かされてる場合やない!」
店を出ると、夜の徳島市内にそびえる眉山が見えた。
万葉集で額田王が「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山」と詠んだ山だ。
ロープウェイは終わっているが、麓の公園で夜風に吹かれる。
「……直君。……見てください。……星が、すだちの形に見えます」
亮が、直の肩に寄りかかりながら空を指差す。
「……お前、それ眼精疲労や。……でも、四国。……幸先ええな。美味いし、人あったかいし」
「……はい。……次は、香川。……うどんの国。……讃岐の亡霊と、黄金の出汁が待っています」
「……亡霊て。祟られるようなことすんなよ」
二人は、ふらふらとホテルへ向かって歩き出した。
直の鼻歌は、なぜか勇壮な「軍艦マーチ」に。亮の足取りは、まるで阿波踊りの「女踊り」のように、しなやかに、かつ不規則に。
西国を巡る、酔いどれコンビの旅は、まだ始まったばかり。
徳島の夜空に、二人の笑い声が、渦を巻いて消えていった。
(シーズン2・第1話 徳島編 了)




