広島・宮島『安芸の宮島で溺れる文学と、流川のお好み焼きに宿る知将の計略』
九州の熱気と美味を網羅した二人が、新幹線とフェリーを乗り継いで足を踏み入れたのは、中国地方が誇る安芸の国――広島・宮島である。瀬戸内海の穏やかな青に、鮮烈な朱塗りの大鳥居が浮かび上がる。潮の満ち引きによって姿を変える厳島神社は、まさに平安絵巻そのものの美しさで人々を魅了していた。
「……着いたぞ、亮! ここが平清盛公が全精力を傾けて築き上げた、海上天国・厳島神社や!」
湯達 直は、潮風を浴びながら、営業エースらしい完璧な通る声で宣言した。彼のスマートな頭脳では、平家の栄華盛衰と、のちにこの地を巡って繰り広げられた毛利元就と陶晴賢の「厳島の戦い」という奇襲作戦のタイムラインが猛スピードで交差している。 「……見ろ、この海上に浮かぶ回廊の美しさと、それを計算し尽くした建築技術。既存の概念を覆して海に神社を建てるという清盛公の圧倒的なプレゼン力と実行力、これぞ現代の新規事業開発に必要なイノベーションの極致や! 俺たちも今日は、瀬戸内の覇者のスケールで広島を呑み尽くすぞ!」
直が意気揚々と参拝ルートへ進もうと振り返ると、相棒の安木 亮の姿が綺麗に消えていた。慌てて周囲を見渡すと、亮は本殿への回廊とは完全に逆方向、干潮を迎えつつある砂浜の、立ち入り禁止の看板が立つ古い石積みの排水溝へ向かって、スマートフォンの画面を凝視しながらフラフラと歩き出していた。
「……あぁ、いとをかし……」
亮は、丸メガネを指先でクイッと押し上げながら、虚空に向かって陶酔したように呟いた。
「……直君、見てください。私が大学の生徒たちと開発している『おさんぽ・文学マップアプリ』のGPSが、この干潟の奥に『平家物語』の幻の写本が眠る座標を示しています。……おや、あの苔むした古い側溝の暗がりの底から、琵琶法師の切ない幻聴が私を呼んでいるような……」
ズルッ。
亮の足が、潮を吸ってヌルヌルに滑る石造りの側溝の縁を捉え、見事に重力を味方につけて傾いた。
「亮、そっちは海だ!! 四国まで泳ぐつもりかァァッ!?」
直が野生の反射神経で猛ダッシュし、側溝へスライディングドボン寸前だった亮の首根っこをガシッと力任せに掴んで安全な砂浜へと引き戻した。
「お前はアプリで平家を探す前に、自分がドブに落ちて盛衰の哀れを体現しようとするな! 側溝ドボンどころか、満潮になったら海の藻屑やぞ! マジで今日こそ、お前のジャージの裏に犬用の超高精度GPSユニットを縫い付けてやるからな!!」
「……直君。……助かりました。……しかし、平家の一門もまた、波の下の都へと……」
「お前が行こうとしとるのはただの排水溝や! ええから俺の背中から1ミリも離れるな!」
直の徹底的なマンマークのもと、二人は無事に参拝を終え、お土産物屋がひしめく宮島の古い路地裏へと回り込んだ。香ばしい醤油の匂いや甘い香りが漂う中、直のビジネスアンテナが敏感に作動する。
「……亮、ここは観光地でありながら、リピーターを飽きさせない商品開発が徹底されとる。俺は少し、この限定土産のインバウンド向け動線と価格設定の戦略を分析してくる。勝手に動くなよ」
直が売店のディスプレイを鋭い目で見つめ、手帳にメモを走らせてから振り返ると。
亮は、観光客の雑踏からはみ出した静かな民家の前で、もみじ饅頭を焼く地元のおばあちゃんや、鹿の世話をしているおじいちゃんたちに、完全に包囲されていた。
「お兄さん、えらい涼しげで品のある顔立ちをしとるねぇ。こげん細くて、宮島の鹿に突っつかれんかったね? 出来立ての一番ええやつじゃけぇ、遠慮せんで食べんさい」 「ほら、これも持っていきんさい! 縁起物の『特大しゃもじ』と、採れたての『広島レモン』じゃ!」
亮の細い両腕の中には、まだ箱が熱い「もみじ饅頭」の詰め合わせと、太陽の光を浴びて輝く立派な「広島レモン」の袋、そしてなぜか家内安全と必勝を祈願する、亮の顔よりも巨大な伝統工芸品「宮島の木製しゃもじ」が、まるで国宝の古文書のように大切に抱えられていた。
「……かたじけない。……安芸の神々が、私に豊穣の果実と、敵を『召し捕る(飯取る)』という言霊の宿る聖具を授けてくださいました。……直君、見てください。このもつ焼きならぬもみじ饅頭の、完璧な葉脈の造形。これぞ、在原業平が詠んだ『竜田川の紅葉』の精神の立体化……」
「……お前、路地裏に3分放置しただけでなんで特産品と巨大武器のフルコンボ決めてくんねん!!」
直は頭を抱えて天を仰いだ。この男の「愛され人たらし」スキルは、もはや因果律をねじ曲げるレベルだ。ただ迷子のように佇んでいるだけで、周囲の人間が母性や父性を刺激され、次々と至宝を貢いでいく。
「……その巨大しゃもじは俺が背負う! さあ、フェリーで本土に戻って広島最大の歓楽街、流川へ殴り込みや! 今夜は、鉄板の熱気と地酒が俺たちを待っとるんや!」
夜。色鮮やかなネオンと、ソースの焦げる官能的な香りが五感をマヒさせる、中国地方最大の歓楽街・流川。二人が入ったのは、巨大な鉄板がカウンターを占拠する、活気溢れる老舗のお好み焼き居酒屋。目の前の鉄板からは、これでもかと広島のプライドが湯気を立てていた。幾重にも重ねられたキャベツと麺が芸術的な高さを誇る「広島風お好み焼き」、大ぶりな身がパチパチと音を立てる「牡蠣のバター焼き」、そして新鮮な「小イワシの刺身」。
「……亮、見ろ。この鉄板という名の戦場で、具材たちが完璧なフォーメーションを組んどる。これぞ広島のソウルや!」
直は、東広島が誇る日本酒の銘醸地・西条の銘酒『賀茂鶴』の冷酒を注文。亮の前には、同じく広島の至高の地酒『雨後の月』が、小さなお猪口にトトト……と注がれた。
乾杯!
カチャン!
亮が、お猪口の縁に唇を触れさせ、ほんの数滴を喉に滑り込ませた瞬間。まるで宮島の紅葉が一夜にして真っ赤に染まったかのように、真っ白だった亮の顔面から耳の裏、首筋に至るまでが、瞬時に鮮やかな緋色に染め上げられた。
「……直君。……このお酒。……瀬戸内の穏やかな波と、雨上がりの月光のような透明感が、私の五臓六腑を優しく潤しています……」
亮はトロンとした至福の目で、牡蠣のバター焼きを一口で運んだ。そして、二口目の日本酒をコクリと飲み込む。
「……あぁ、直君。……このお好み焼きの、幾重にも重なるキャベツと豚肉、そしてそばの階層。……これはまさに、『新古今和歌集』の複雑精妙な、言葉の『重層美』の具現化です……。……そして、このとろりとした濃厚なソースの抱擁。……これぞ、藤原定家が求めた、妖艶にして深遠なる『有心』の境地……。……あぁ、私の胃袋の中で今、平安の詞華集とお好み焼きのソースが、濃厚な文芸批評を交わしています……。……いと、あはれ……」
「お前、たった二口でお好み焼きを藤原定家に昇華するな! 飯を食うだけで文学の歴史を編纂すな!」
直は完璧な営業スマイルをかなぐり捨て、豪快に笑いながら『賀茂鶴』のグラスを次々と空にしていった。普段は論理と数字を武器に戦う営業エースの直だが、限界を超えたアルコールは彼の中の「歴史オタクの野生」を完全に解放する。
「……大将! 次は西条の『白牡丹』を熱燗で、なみなみと持ってきてくれ! ……うまい! この米の旨味の塊、これぞ安芸の国を一つにまとめた戦国知将の血湧き肉躍る味わいや!」
そして、直が四杯目のグラスを激しくテーブルに叩きつけ、お好み焼きの上の青のりの香りを吸い込んだ頃。ついに、彼の理性を司る防壁が完全に崩壊し、稀代の謀将・毛利元就の魂が直に憑依した。
「……大将ォ!! このお好み焼きの、生地、キャベツ、麺の三位一体! これぞまさに、俺が息子たちに授けた『三本の矢』の教え、そのものの陣形やなァ!! 一本のお好み焼きの層は簡単に崩れても、三つの層が重なれば、いかなる強敵(空腹)もこれを崩すことはできんのやァ!!」
直が突然、中国地方を統治した百戦錬磨の知将のような、威厳と凄みに満ちた大声で叫び始めた。
「……ええか亮! 毛利元就はな、ただ戦に勝ったんやない! 『一日一力一心(百万一心)』の精神で、国人領主たちの心を一つに束ねて巨大な組織を作ったんや! 一人の天才に頼るな、全員の力を有機的に結合させろ! ……俺も今、老舗菓子メーカーの営業ルートの上であぐらをかいてる場合やない!! 時代は令和の戦国期や!!」
その眼光は完全に「新たなる中国地方の覇者」の輝きを放っている。狭い店内の他の客たちも、その圧倒的な覇気とお好み焼きを絡めた熱弁に息を呑んでいる。
「……俺はやるぞ! 資本金100万円! たった100万円の元手から、現代の『一日一力一心』を体現する最強の人事コンサルティング会社を起業する! 企業という名の城に、最高の人材を『三本の矢』のごとく結束させ、絶対に空中分解しない無敵の経営組織を構築してみせる! その時は亮! お前、俺の城の初代・特命組織文献統括官に就任せよォ!! 秀吉公の茶会はもっとこうファンキーやってん! 店長、もう一升持ってまいれ!!」
直が熱く、そして寸分の隙もない組織論と意味不明な秀吉イじりをミックスして吼え続けている、その真横の亮は。
三口目のお酒をきれいに飲み干した亮は、すでにこの世の重力から解き放たれ、巨大な宮島しゃもじを愛おしそうに胸に抱きしめながら、厳島神社の女神様かというような、慈愛に満ちた究極の微笑みを浮かべていた。
「……むにゃ……直君の……新しいお城の看板は、……この巨大な……しゃもじに……書いてくださいね……。……『安芸の海…… ソースの香りに…… 酔いしれて……』。……あぁ、いと、をかし……」
スウゥゥゥ……。
亮は、カウンターの端で、焼き立てのもみじ饅頭の甘い残香に包まれながら、スヤスヤと極上の眠りへと落ちていった。
「……って、ここで天下の『三本の矢』を聴かずに寝る奴があるかァァイ!! 俺の100万円元就ピッチを最後まで一言一句漏らさず聴けェ!!」
深夜。すっかり心地よく酔い潰れて深い眠りにある長身の亮(右腕にはもみじ饅頭、左手には巨大な宮島しゃもじがしっかりとホールドされている)を、直ががっしりと肩を貸して支え、フラフラと千鳥足で流川の路地を歩いていた。
「……ったく、お前は本当にどこに行ってもフリーダムやな。顔よりデカいしゃもじを抱きしめたまま居酒屋で爆睡する司書が世界にどこにおんねん」
直は、瀬戸内から吹き抜ける冷涼な夜風を浴び、激しい憑依状態から少しずつシラフの理性を取り戻しつつあった。
ふと見上げれば、ネオンの光の隙間から、古の時代から変わらぬ静けさで広島の街を照らす月が輝いている。
「……むにゃ……直君。……あちらの暗がりの底に、……毛利水軍の……秘密のドックが……」
寝ぼけた亮が、フラフラと足元を狂わせ、繁華街の裏路地にある深い排水溝の方へ吸い寄せられていく。
「アホ! そっちに行ったら水軍になる前にただのドブネズミや! 危険を察知するセンサーが本当にゼロかお前は!!」
直は慌てて亮の身体を強引に引き剥がし、力強く安全なアスファルトの中央へと引き戻した。
「……でもな、亮」
直は、自分の肩で幸せそうに小さな寝息を立てている相棒の横顔を盗み見ながら、ふと口元を緩めた。
「……お前みたいに、損得勘定やビジネスの競争から完全に超越して、古典の世界やアプリ開発に命を燃やせる奴が隣におらんかったら、俺の『100万円で起業して理想の組織を作る』なんて野望も、日々の営業数字に追われる中でとっくに摩耗して消えてたかもしれんな。お前のその底なしの『天然』と『純粋さ』が、俺のガチガチの『成果主義』を、お好み焼きのソースみたいに優しく包み込んでくれるんや」
「……むにゃ……直君、……それは、……いと、をかし……な、現代の……三本の矢……ですね……」
「……寝言でめちゃくちゃ上手い表現使うな。ほら、ちゃんと足動かせ。もみじ饅頭をドブに落とすなよ」
シラフの時は、完璧な論理的思考を持つ営業エースと、地図を読めない絶望的迷子の司書。
酔った時は、天下を狙う戦国知将の起業家と、3杯の酒で宇宙と調和して眠るポエマー。
どこまでも非対称で、どこまでも正反対の二人が織りなす凸凹な歩みは、広島の夜風に吹かれながら、奇跡的なまでの調和を保って進んでいく。
知将たちの魂が宿るその千鳥足は、終わることなく、山陰・山陽の道をどこまでも続いていく。
(シーズン2・第14話 広島・宮島編 了)




