福岡・博多『太宰府の飛梅伝説と、中洲の屋台に響く軍師の組織論』
長崎からの路面電車の響きを遠ざけ、二人が至ったのは、九州最大の鉄路の要衝を経て辿り着く聖地、福岡・太宰府。天を突くような楠の高木が陰を作り、至る所に菅原道真公を慕う神霊の気配が満ちている。
「……着いたぞ、亮! ここが学問の神様にして、平安朝最大の悲劇の天才・菅原道真公が眠る太宰府天満宮や!」
湯達 直は、爽やかな声を境内に響かせ、本殿へと続く御神橋を見上げた。彼の鋭い知性は、道真公の左遷という歴史的事件と、その後にこの筑前の地を治めた天才軍師・黒田官兵衛の壮大な城下町戦略を瞬時に結びつけ、熱い火花を散らしている。
「……見ろ、この本殿の圧倒的な威厳。左遷という最大の逆境にありながら、なおも独自の文化と学問の礎を築いた道真公の不屈の精神よ。これぞ、現代のビジネスパーソン、特にキャリアの転換期に立つ俺のような人間に最も必要な『レジリエンス』の極致や! 今日は神の智慧を脳髄に刻み込む勢いで、博多を呑み尽くすぞ!」
直が情熱的に拳を握りしめながら振り返ると、相棒の安木 亮の姿がどこにもない。焦った直が周囲を索敵すると、亮は本殿へ向かう参拝客の流れを完全に遮り、境内の外縁に広がる古い池の裏手の、立ち入りが制限されていそうな梅の木の根元へと、スマートフォンの画面を凝視しながらふらふらと歩き出していた。
「……あぁ、いとをかし……」
亮は、指先で画面を滑らせながら、陶酔したような声で呟いた。
「……直君、聞いてください。この『おさんぽ・文学マップアプリ』ですが、素晴らしいバグ、いや奇跡的な仕様を発見しました。……歩数カウンターが太宰府の神域の磁場と連動し、道真公の有名な『東風吹かば にほひおこせよ 梅の花……』の和歌を暗唱すると、画面上にバーチャルな飛梅が咲き誇るのです。……おや、あの歴史的な風化を遂げた古い排水溝の底に、平安時代の瓦の破片が私を呼んでいるような……」
ズルッ。
亮の足が、千年前からそこにあるかのような、深く泥の堆積した側溝の縁を捉え、見事に均衡を失った。
「危なァァッ!!」
直が俊敏な動きで突進し、完全に傾いた亮の身体を背後からガシッと力強く抱き留め、石畳の安全圏へと引き戻した。
「お前はアプリで飛梅を咲かせる前に、自分が泥の中に『不時着』して歴史の遺物になろうとするな! 側溝ドボンどころか、もはや底なしの泥濘に沈没する寸前やぞ! 神様のバチが当たる前に俺の雷が落ちるわ! マジで今日こそ、お前の背中に超高精度のGPS発信機をガムテープで貼り付けてやるからな!!」
「……直君。……助かりました。……しかし、京都から一晩で飛んできたという伝説の梅の木も、このような大地の引力に導かれたに違いなく……」
「梅は側溝の泥には惹かれへんわ! ただのお前の壊滅的な方向音痴や! ええから俺の半径50センチメートル以内を絶対に死守しろ!」
直の徹底的なホールドのもと、二人は本殿での参拝を終え、賑やかな参道へと戻ってきた。両脇に並ぶ店から漂う、香ばしい焼き菓子の匂いに、直の営業マンとしての鼻がピクリと反応する。
「……亮、この参道の活気を見ろ。これが千年以上続く、最強のリピータービジネスの形や。顧客満足度の極致がここにある。俺は少し、この名物土産の流通経路と店舗の配置戦略を分析してくる」
直が周辺の店舗の動線を鋭い目で見つめ、手帳にメモを走らせてから振り返ると。
亮は、観光客の雑踏を離れた路地の隅で、梅ヶ枝餅を焼く職人のおばあちゃんや、通りすがりの老夫婦たちに、完全に甘やかされていた。
「お兄さん、えらいお上品な顔立ちをしとんしゃるねぇ。こげん細くて、博多の強風で飛ばされんね? 焼きたての一番美味しいやつやけん、遠慮せんで食べんね」
「ほら、これも持っていきんしゃい! 特産の『あまおう苺』と、縁起物の『木うそ』たい!」
亮の細い両腕の中には、湯気を立てる大量の「梅ヶ枝餅」の包みと、ルビーのように真っ赤に輝く巨大な「あまおう苺」のパック、そして職人が一つ一つ手彫りしたという、天神様の守り鳥である伝統工芸品「木うそ」の置物が、まるで国宝の古文書のように大切に抱えられていた。
「……かたじけない。……太宰府の慈悲深き神々が、私に現世の甘露と木彫りの精霊を授けてくださいました。……直君、見てください。この梅ヶ枝餅の白い餅肌。これはまさに、『竹取物語』のかぐや姫が求めた、汚れなき世界の輝き……」
「……お前、参道をほんの一瞬泳がせただけでなんで特産品と縁起物のフルコンボ決めてくんねん!!」
直は頭を抱えて天を仰いだ。この男の「愛され人たらし」の才覚は、もはや天賦の魔力だ。ただ迷子のように佇んでいるだけで、周囲の人間が勝手に引き寄せられ、次々と至宝を差し出していく。
「……その大荷物は俺が責任持ってホテルのフロントに預ける! さあ、博多の中心地、中洲へ移動するぞ。今夜は、屋台の熱気ともつ鍋が俺たちの理性を揺さぶるんや!」
夜。那珂川の水面に色とりどりのネオンが揺らめく、九州最大の歓楽街・中洲。川沿いにずらりと並ぶ屋台の暖簾をくぐると、狭い店内にひしめき合う人々の熱気と、出汁の濃厚な香りが二人を包み込んだ。目の前の鉄板や鍋からは、五感を刺激する至高の博多グルメが次々と生み出される。炎を上げて炒められる「焼きラーメン」、プルプルとした輝きを放つ「博多もつ鍋」、そして贅沢に明太子を巻き込んだ「明太だし巻き卵」。
「……亮、見ろ。この狭い空間に凝縮された圧倒的なホスピタリティと美味。これぞ博多のソウルや!」
直は、福岡の最高峰の地酒『田中六五』の冷酒を注文。亮の前には、同じく地元の銘酒『庭のうぐいす』が、小さなお猪口にトトト……と注がれた。
乾杯!
カチャン!
亮が、お猪口の縁に唇を触れさせ、ほんの数滴を喉に滑り込ませた瞬間。まるで、太宰府の梅が一斉に開花したかのように、真っ白だった亮の顔面から耳の裏、首筋に至るまでが、瞬時に鮮やかな緋色に染め上げられた。
「……直君。……このお酒。……筑紫平野の豊かな実りと、清らかな水が、私の脳細胞を優しく愛撫しています……」
亮はトロンとした至福の目で、明太だし巻き卵を一切れ口に運んだ。そして、二口目の日本酒をコクリと飲み干す。
「……あぁ、直君。……このもつ鍋の、豊潤にして官能的なプルプル感。……これはまさに、『枕草子』で清少納言が絶賛した『いとめでたきもの』の現代における具現化です……。……そして、だし巻きの中に隠された明太子の、この一粒一粒の鮮烈な自己主張。……これぞ、『万葉集』に集う名もなき防人たちの、命の叫びの如き調べ……。……あぁ、私の胃袋の中で今、平安の宮廷サロンと博多の屋台文化が、熱い恋歌の贈答を行っています……。……いと、あはれ……」
「お前、たった二口で胃袋を平安の社交場にするな! 飯を食うだけで壮大な文学絵巻を開帳すな!」
直は完璧な営業スマイルを完全に忘却し、豪快に笑いながら『田中六五』のグラスを次々と空にしていった。普段は論理と理性を武器に戦う営業エースの直だが、限界を超えたアルコールは彼の中の「野生の情熱」を爆発させる。
「……大将! 次は芋焼酎の『黒伊佐錦』をロックで、並々と注いでくれ! ……うまい! このガツンとくる芋のコク、これぞ筑前を駆け抜けた黒田武士の心意気や!」
そして、直が四杯目のグラスを激しくテーブルに置き、締めの焼きラーメンの濃厚なソースの香りを吸い込んだ頃。ついに、彼の理性を司る前頭葉の防壁が完全に崩壊し、天下にその名を轟かせた天才軍師・黒田如水(官兵衛)が直の魂に憑依した。
「……大将ォ!! この焼きラーメンの具材の調和、これぞまさに『三本の矢』ならぬ、完璧なる『諸国連合軍』の陣形やなァ!! 旨すぎて天下が動くわァ!!」
直が突然、戦国の世を裏で操った稀代の戦略家のような、威厳と凄みに満ちた大声で叫び始めた。
「……ええか亮! 黒田官兵衛はな、城を築くだけやない、そこに最適な人材を集めて完璧な『石垣(組織)』を組んだんや! 石垣の強さは、一辺の長さやない、異なる形の石がいかに噛み合うかで決まる! ……俺も今、老舗菓子メーカーの安定した売上を追ってる場合やない!! 時代は常に激変しとるんや!!」
その眼光は完全に「新たなる乱世の覇者」の輝きを放っている。狭い屋台の他の客たちも、その圧倒的な覇気に息を呑んでいる。
「……俺はやるぞ! 資本金100万円! たった100万円の元手から、現代の戦国ビジネス界を生き抜くための最強の『人材・組織コンサルティングファーム』を起業する! 企業という名の城に、最高の人材を石垣のごとく噛み合わせ、絶対に崩れない無敵の組織を構築してみせる! その時は亮! お前、俺の城の初代・特命戦略文献統括官に就任せよォ!!」
直が熱く、そして寸分の隙もない組織論(泥酔・戦国軍師混入版)を吼え続けている、その真横の亮は。
三口目のお酒をきれいに飲み干した亮は、すでにこの世の重力から解き放たれ、手彫りの木うそを優しく胸に抱きしめながら、聖母マリアか如来様かというような、慈愛に満ちた究極の微笑みを浮かべていた。
「……むにゃ……直君の……新しいお城の庭には、……太宰府の……梅の木を……移植して、くださいね……。……『博多の海…… 夜風に揺るる…… 赤提灯……』。……あぁ、いと、をかし……」
スウゥゥゥ……。
亮は、カウンターの端で、焼き立ての梅ヶ枝餅の甘い残香に包まれながら、スヤスヤと極上の眠りへと落ちていった。
「……って、ここで天下の組織論を聞かずに寝る奴があるかァァイ!! 俺の100万円如水ピッチを最後まで一言一句漏らさず聴けェ!!」
深夜。すっかり心地よく酔い潰れて深い眠りにある長身の亮(両腕にはしっかりと大量の梅ヶ枝餅と木うそがホールドされている)を、直ががっしりと肩を貸して支え、フラフラと千鳥足で中洲の路地を歩いていた。
「……ったく、お前は本当にどこに行ってもフリーダムやな。伝統工芸品を抱きしめたまま屋台で爆睡する司書が世界にどこにおんねん」
直は、那珂川から吹き抜ける冷涼な夜風を浴び、激しい憑依状態から少しずつシラフの理性を取り戻しつつあった。ふと見上げれば、ネオンの光の隙間から、古の時代から変わらぬ静けさで博多の街を照らす月が輝いている。
「……むにゃ……直君。……あちらの川面の向こうに、……遣隋使の……船が……」
寝ぼけた亮が、フラフラと足元を狂わせ、川沿いの遊歩道から那珂川の漆黒の水面――あるいはその手前にある深い排水溝の方へ吸い寄せられていく。
「アホ! そっちに行ったら遣隋使になる前にただの水死体や! 危険を察知するセンサーがゼロかお前は!!」
直は慌てて亮の身体を強引に引き剥がし、力強く安全な舗道の中央へと引き戻した。
「……でもな、亮」
直は、自分の肩で幸せそうに小さな寝息を立てている相棒の横顔を盗み見ながら、ふと口元を緩めた。
「……お前みたいに、損得勘定やビジネスの競争から完全に超越して、古典の世界や生徒とのアプリ開発に命を燃やせる奴が隣におらんかったら、俺の『100万円で起業して理想の組織を作る』なんて野望も、日々の営業数字に追われる中でとっくに摩耗して消えてたかもしれんな。……お前のその底なしの『天然』と『純粋さ』が、俺のガチガチの『現実主義』の角を綺麗に削り落としてくれるんや」
「……むにゃ……直君、……それは、……いと、をかし……な、現代の……軍臣合体……ですね……」
「……寝言でめちゃくちゃ上手い表現使うな。ほら、ちゃんと足動かせ。木うそを川に落とすなよ」
シラフの時は、完璧な論理的思考を持つ営業エースと、地図を読めない絶望的迷子の司書。
酔った時は、天下を狙う戦国軍師の起業家と、3杯の酒で宇宙と調和して眠るポエマー。
どこまでも非対称で、どこまでも正反対の二人が織りなす凸凹な歩みは、博多の夜風に吹かれながら、奇跡的なまでの調和を保って進んでいく。
天才たちの魂が宿るその千鳥足は、終わることなく、どこまでも続いていく。
(シーズン2・第13話 福岡・博多編 了)




