長崎『異国情緒の迷子と、海援隊を夢見る軍師の宴』
神々の息吹が残る宮崎を後にし、西国を巡る二人の旅はついに九州の西の果て、長崎へと到達した。石畳の道に路面電車のレールが走り、どこからか教会の鐘の音が響く。鎖国時代にあって日本で唯一、世界へと開かれていた窓。和、華、洋の文化がモザイク状に交じり合う異国情緒あふれる街並みが、二人を迎えていた。
「……着いたぞ、亮! ここが幕末の志士たちが駆け抜け、世界への野望を抱いた国際都市・長崎や!」
湯達 直は、石造りのアーチが美しい『眼鏡橋』の上に立ち、中島川の川面を見下ろしながら目を輝かせていた。彼の脳内では、坂本龍馬や勝海舟、そしてトーマス・グラバーといった歴史的偉人たちが、熱い議論を交わしている。
「……見ろ、この川面に映る見事な円! 技術と美の結晶や。ここから日本の近代化が始まったんやな。俺たちも今日は、龍馬のごとく太平洋を見据えるスケールで長崎を飲み尽くすぞ!」
直が熱弁を振るいながら振り返ると、相棒の安木 亮の姿がない。慌てて周囲を見渡すと、亮は眼鏡橋の反対側、川沿いの細い路地に向かって、スマートフォンの画面を食い入るように見つめながらフラフラと歩き出していた。
「……あぁ、いとをかし……」
亮は、丸メガネの奥の目を細め、画面をスワイプしながら虚空に向かって呟いた。
「……直君、聞いてください。私が開発を進めている『おさんぽ・文学マップアプリ』ですが、ついに画期的なアップデートを実装しました。……古の和歌や植物図鑑の機能に加え、歩数に応じて『SDGsの健康目標』に貢献し、かつポイントが付与されるシステムを……おっと、この画面上の青い点によれば、この水路の底に幻の南蛮渡来の書物が……」
ズルッ。
亮の足が、中島川沿いに口を開けていた深い石積みの側溝の縁を捉え、見事に重力に逆らうことをやめた。
「危なァァッ!!」
直が猛ダッシュで駆け寄り、落下寸前の亮の首根っこをガシッと鷲掴みにして、強引に石畳の上へと引き戻した。
「お前、SDGsの健康目標を語りながらなんで自らの健康と生命を『水路の底』へ葬り去ろうとしとんねん! 側溝ドボンどころか、もはや川へのダイブ寸前やぞ! ポイント貯める前に命が尽きるわ! 頼むから俺の視界から1ミリも消えるな!」
「……直君。……助かりました。……しかし、古の遣唐使たちもまた、荒れ狂う海原へ身を投じる覚悟で……」
「遣唐使はドブには落ちへんわ! ただの絶望的な方向音痴や! ええから俺の半径1メートル以内を死守しろ!」
直の徹底的な監視のもと、二人は洋館が立ち並ぶ異国情緒豊かな「オランダ坂」へと足を踏み入れた。石畳の急な坂道を登りながら、直は長崎港を見下ろす絶景に感嘆のため息を漏らす。
「……亮、この坂道をかつて異国の商人たちが歩いたんや。歴史の息吹を感じるやろ。俺は少し、この開港の歴史の空気を味わってくる」
直が港の景色を数枚写真に収め、ふと振り返ると。
亮は、観光客ではなく、地元の洋菓子店のおかみさんや、通りすがりのご近所のおじいちゃんたちに、完全に包囲されていた。
「お兄さん、えらい涼しげな顔立ちやねぇ。こげん細くて、オランダ坂の風に飛ばされんね? ちょっとこれ、うちの店で作っとるんやけど、食べてみんね」
「ほら、これも持っていき! 今朝市場で買うた『茂木びわ』たい!」
亮の細い両腕の中には、焼きたての甘い香りを放つ巨大な「カステラ」の箱と、オレンジ色に輝く高級な「茂木びわ」の束、そしてなぜか美しいガラス細工の「ビードロ(ぽっぺん)」が大事そうに抱えられていた。
「……かたじけない。……南蛮渡来の神々が、私に異国の甘露とガラスの芸術を授けてくださいました。……直君、見てください。このカステラの黄金色は、まさにマルコ・ポーロが夢見たジパングの輝き……」
「……お前、オランダ坂を5分歩いただけでなんで特産品と伝統工芸品のフルコースもらってくんねん!!」
直は天を仰いだ。この男の「愛され人たらし」スキルは、もはや超常現象の域に達している。ただボーッと立っているだけで、地元民が吸い寄せられ、次々と貢物を置いていくのだ。
「……それは俺が責任持って宿に郵送する! そろそろ思案橋に戻るぞ。今夜は、卓袱料理とちゃんぽんが俺たちを待っとるんや!」
夜。ネオンが輝く長崎屈指の繁華街、思案橋。二人が暖簾をくぐったのは、和華洋が入り混じる長崎ならではの料理を出す老舗の居酒屋。テーブルには、圧倒的な美食が並んだ。長崎名物、豚肉をとろとろに煮込んだ「豚の角煮」、エビのすり身を食パンで挟んで揚げた「ハトシ」、そして新鮮な「鯨の刺身」。
「……亮、見ろ。これが世界と交わった長崎のエネルギーや!」
直は、長崎が全国に誇る麦焼酎のルーツ『壱岐焼酎』のロックを注文。亮の前には、長崎の地酒『六十餘洲』のお猪口が置かれた。
乾杯!
カチャン!
亮が、お猪口に口をつけ、ほんの一舐めした瞬間。ステンドグラスに光が差し込んだかのように、顔面から首筋に至るまで、一瞬にして見事な紅色に染まった。
「……直君。……このお酒。……長崎の出島から吹き込む異国の風が、私の全身の細胞を巡っています……」
亮はトロンとした目で、豚の角煮を口に運んだ。そして、二口目のお酒をコクリと飲み込む。
「……あぁ、直君。……この角煮の、とろけるような脂の甘み。……これはまさに、東洋の醤油と西洋の豚肉文化が交差した、食の『シルクロード』です……。……そして、このハトシのサクサクとした食感。……これぞ、『古今和歌集』の繊細な調べに、南蛮音楽の力強いリズムが融合した奇跡……。……あぁ、私の胃袋の中で今、壮大な和漢洋のオーケストラが鳴り響いています……。……いと、あはれ……」
「お前、二口目で完全に文明開化の音が鳴っとるやないか! 胃袋の中でオーケストラ演奏すな!」
直は豪快に笑いながら『壱岐焼酎』のロックを一気に飲み干した。普段は理性と論理で生きている直だが、アルコールが入ると、彼の中の「情熱の堰」が勢いよく決壊する。
「……大将! 焼酎、おかわり! ピッチャーで持ってきてくれ! ……うまい! この麦の香ばしさ、これぞ荒波を越えてきた海援隊の生命力や!」
そして、直が三杯目のジョッキを空にし、締めの「長崎ちゃんぽん」の濃厚なスープを啜った頃。ついに、理性のタガが完全に消滅し、幕末の風雲児が直に憑依した。
「……大将ォ!! このちゃんぽん、見事なまでに多種多様な具材が混ざり合って、一つの完璧な味を創り出しとる!! まさに『日本の夜明け』の味がするわァ!!」
直が突然、世界を股にかける志士のような威厳と情熱に満ちた声で叫び始めた。
「……ええか亮! 長崎の出島は、異なる文化や人材を繋ぐハブやった! ……俺も今、ただの菓子メーカーの営業に留まってる場合やない!! ゼロからイチを生み出し、人と企業を繋ぐ、新しい仕組みが必要なんや!!」
その目は完全に「新時代を創る男」のそれになっている。周囲の客も「なんだこの熱量が高すぎる男は」と圧倒されている。
「……俺はやるぞ! 資本金100万円! たった100万円の元手から、現代の『海援隊』を創る! 人事、採用、そして総務管理まで、企業が抱えるあらゆる課題を解決し、最高の人材を最適に配置するHRコンサルティング事業を立ち上げるんや!! 日本中の企業をちゃんぽんのごとく美味くまとめ上げてみせる! その時は亮! お前、俺の会社の初代・特命情報分析官になれェ!!」
直が熱く、そして緻密なビジネスプラン(泥酔・幕末混入版)を叫び続けている、その頃の亮は。
三口目のお酒を飲み干した亮は、丸メガネを少しずらし、美しいビードロを優しく撫でながら、マリア像もかくやという至福の微笑みを浮かべていた。
「……むにゃ……直君の……海援隊には、……『万葉集』の……英訳版を……置いて、くださいね……。……『長崎の…… 鐘の音響く…… 夕月夜……』。……あぁ、いと、をかし……」
スウゥゥゥ……。
亮は、テーブルの上で、茂木びわの爽やかな香りに包まれながらスヤスヤと平和な眠りについた。
「……って、なんで寝とんねん!! 俺の現代版・海援隊の起業ピッチを聞けェ!!」
深夜。
すっかり酔い潰れて眠りこけた長身の亮(右腕にはカステラ、左手にはビードロをしっかり握りしめている)を、直が肩を貸して、フラフラと引きずるように歩いていた。
「……ったく、お前は本当に愛されすぎや。カステラとビードロを持ったまま寝る奴がおるか」
直は、長崎港から吹き込む潮風に吹かれ、少しだけシラフに戻っていた。見下ろせば、すり鉢状の街に広がる、宝石を散りばめたような長崎の夜景が輝いている。
「……むにゃ……直君。……あっちの……暗がりに、……グラバーさんの……隠し部屋が……」
寝ぼけた亮が、フラフラと道端の暗がり――またしても、水音が響く深い側溝の方へ吸い寄せられていく。
「アホ! そっちはドブや! グラバー邸はこんな飲み屋街の裏にはないわ!!」
直は慌てて亮の首根っこを引っ張り、力強く安全な石畳へと引き戻す。
「……でもな、亮」
直は、寝息を立てる相棒の顔を見ながら、ふと小さく笑った。
「……お前みたいに、SDGsだの和歌だの、損得抜きで自分の世界に没頭できる奴が隣におらんかったら、俺の『100万円で人事・採用の会社を創る』なんて夢も、ただの酒の席の冗談で終わってたかもしれんな。……お前のその果てしない『天然』と『優しさ』が、俺のガチガチの『成果主義』をちゃんぽんみたいに中和してくれるんや」
「……むにゃ……直君、……それは、……いと、をかし……な、相補性……ですね……」
「……寝言で難しい言葉使うな。ほら、ちゃんと歩け。ビードロ割るなよ」
シラフの時は、完璧な常識人の営業エースと、絶望的迷子の図書館司書。
酔った時は、幕末憑依のHR起業家と、3杯で幸せに眠るポエマー。
正反対の二人が織りなす凸凹な歩みは、長崎の美しい夜景を背に、完璧なバランスを保ちながら進んでいく。
異国情緒の風に吹かれたその千鳥足は、果てしなく、どこまでも続いていく。
12話 了




