その手を離さない:前編
「お昼、行ってきます」
いつも通り、クララは午前の授業を終えると、医療学科の校舎から飛び出してソニアとセラと合流する。
ヨシュアの事件の後、私の環境は180度変わっていた。グループにセラが加わったということじゃない。私の大親友、いつも一緒に過ごしてきたソニアの環境が180度変わったのだ。
「あっ、ソニア様だ!」
今日も来た、来た。
「本当だ! セラ様も一緒にいるぞ!」
校舎へ続く石畳を歩いていたソニアは、聞こえてきた声にびくりと肩を跳ねさせた。振り返るよりも先に、数人の生徒達がこちらへ駆けてくる。その胸元には、以前から学院内で見かけるようになった飾りがある。
『ソニアファンクラブ No.28』
『セラファンクラブ No.257』
ソニアとセラのファンクラブを示す飾りがついていた。
「ソニア様、ヨシュアを倒した魔術、最高でした!」
「旧校舎の事件でも活躍されたんですよね!見たかったです!」
「今度、ドラゴンを倒した時の話を聞かせてください!」
ソニアはまだ対応に慣れておらず、わたわたしている。
「えっ、あ、あの……」
ソニアは一歩ずつ後ろへ下がり、助けを求めるようセラを見る。しかし、セラは何事もないかのように真っ直ぐ前を向いていた。
「セ、セラ、どうしよう……」
「どうって、放っておけばいいのよ」
セラは全く興味を示さない。
「でも、みんな目がキラキラしてるよ……」
「あなたに用があるのでしょう。自分で何とかしなさい」
「そんなぁ……」
ソニアが泣きそうな顔になった時、その間へクララが入ってきた。
「はいはい、みんな。一度に話しかけても、ソニアが困るだけだよ。もうすぐ授業が始まるから、質問は一人一つだよ」
クララが両手を叩きながら明るく声をかけると、生徒達は素直に一列へ並び始めた。クララはその様子に満足そうに頷いてから、固まっているソニアの背中を軽く押す。
「ほら、ソニア。最初の人が待ってるよ」
「クララも一緒に答えてよ」
「私はドラゴンと戦ってないもん」
「私だって戦ってないもん!」
ソニアは困りながらも、目の前に立った下級生の話を聞き始めた。その横では、セラのファンクラブらしい生徒が、恐る恐る本人へ声をかけている。
「あの、セラ様……今日もお美しいです」
「そう」
セラは無表情で即答すると、話しかけた生徒はぱあっと表情が明るくなる。
「あ、ありがとうございます!」
「どうしてあなたがお礼を言うの?」
セラは訝しんで聞く。
「ご褒美です!」
「……何を言っているの?」
セラが不審そうに眉をひそめると、その生徒は感激したように胸を押さえた。周囲にいた者達からも、羨ましそうな声が上がる。
「いいなぁ、私もセラ様に冷たくされたい」
「今日はいつもより……いいぞ」
「羨ましい……」
セラは生徒達を見回した。その表情には、隠しようのない困惑が浮かんでいる。
「どうして喜んでいるの?」
「さあ?」
クララは思わず笑った。
「何がおかしいのよ」
「ごめん。セラが思ってたより困ってたから」
「意味が分からないわ。私は褒めてもいないし、喜ばせるようなことも言っていないでしょう?」
「うん。その通りよ」
「では、どうしてあの反応になるの?」
「それは私にも説明できないかな」
クララが笑いながら答えると、セラは納得できない様子で生徒達を見た。本人だけが、自分の言葉をなぜ喜ばれているのか、本気で理解できていなかった。セラと出会ってから、まだ数週間しか経っていない。それでも、セラが本当に嫌がっている時と、そうでない時の違いくらいは分かるようになっていた。
ソニアとセラが困っている様子を面白く見ていると、クララはあることに気付く。
あれ、ソニアとセラ……手を庇っている?
二人はファンクラブの生徒達の対応をしながら、どこか普段と変わっていることにクララは気付く。それは、誰にも気づかれないような、本人でさえ気にしていないくらいの小さな差異だった。
「ソニア?」
「えっ?」
クララの声かけに、対応にいっぱいいっぱいのソニアは変な声で返す。
「ソニア、手出して。右手」
「何?」
ソニアは訳も分からずに手を向ける。
「やっぱり、怪我してるじゃない」
よく見ると、人差し指の先が赤くなっていた。
「さっきの実技で、少し火傷しちゃって」
「少しって?」
「これくらい。本当に大したことないよ」
ソニアは笑っている。しかし、指を曲げた瞬間だけ眉がわずかに動いた。クララは何も言わずソニアのところまで行くと、その手を取る。
「ちょっと、じっとしてて」
クララは慣れた手つきで魔術杖を取り出すと、さらりと魔術陣を描く。
「優しき光よ 傷つきし者に寄り添い その痛みを癒やせ アインス・サナティオ」
クララが火傷へ指先を重ねると、淡い緑色の光が二人の手を包んだ。暖かな光が赤くなった皮膚へ染み込み、痛みを吸い取るようにゆっくりと消えていく。
「どう?もう、痛くない?」
「うん。ありがとう」
ソニアは、満面の笑みだ。
「よかった。でも、応急処置だからね。あとで水でも冷やしてね」
「分かった、ありがとう、クララ」
ソニアは重ねてお礼を言うと、治った指を嬉しそうに見つめる。その様子を見ていたファンクラブの生徒達から、今度はクララへ感心したような視線が向けられた。
「クララ先輩、回復魔法使えるんですね!」
「まだ勉強中だけどね」
「いいえ、すごいです!」
生徒達はクララの魔術に興味津々だ。
「これくらいなら、回復魔法専攻の生徒はみんなできるって」
クララはいきなり自分が持て囃される形となり、少し照れながら笑った。
「そんなことないです!ヒーラーがいて初めて、攻撃魔術は生きると教わりました!」
下級生の熱い想いをぶつけられて、ソニアとセラの大変さが分かったクララは、
「ありがとう」
と、笑顔を見せてセラに告げる。
「セラも手を見せて」
「私は何もしていないわ」
一瞬、セラはぎょっとした顔を見せた。
「右手」
「何もないと言っているでしょう」
クララは、観念しなさいと言わんばかりに手を出す。
「じゃあ、見せても困らないよね?」
セラは無言でクララを見る。しばらく視線をぶつけ合ったあと、諦めたように右手を差し出した。人差し指の付け根に、鋭い刃で切ったような傷が複数ある。
ソニアの怪我よりも重いな、これは。
「……………ね?」
「この程度は怪我とは言わないわ」
クララはくすりと笑い飛ばす。
「はいはい。すぐ終わるから」
クララはセラの手にも回復魔術をかけた。セラは治療が終わるまで顔を背けて何も言わなかったが、手を引っ込めようともしなかった。ファンクラブの生徒達は弁えがよく、ソニアが「ごめんね」と声をかけると頭を下げてその場から去っていった。
「終わったよ」
「そう。ありがとう」
セラはそれだけ言うと、何事もなかったように歩き出した。
「素直じゃないなぁ」
「聞こえているわよ」
「聞こえるように言ったからね」
クララは笑う。
「クララ、授業に遅れるよ〜」
ソニアに呼ばれ、クララは笑顔で二人の後を追った。
◇
その日の放課後、クララは医療学科の実習として、学院医務室の当番に入っていた。窓の外は既に橙色に染まりかけている。今日の授業は終わり、あとは在庫の確認と、怪我をした生徒がいれば対応するだけの静かな時間になるはずだった。
「クララ君、来ていたか」
薬品棚を整理していると、指導医のガイウスが顔を出した。まだ三十代半ばだというのに、目の下には深いくまがあり、いつも眠そうな顔をしている。医療学科の教師は、他の教師のような教員を示す外套は身につけず、白衣を着ている。顔つきからは想像できずにその手つきは正確で、患者を診る目には迷いがない。実習生達の間では、厳しいが公平な指導医、というのが専らの評判だった。
「お疲れ様です、ガイウス先生」
「今日は静かなものだな。この調子なら、早めに——」
ガイウスがそう言いかけた時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「先生! 二人、急患です!」
実習生の一人が、医務室の扉を勢いよく開けて叫ぶ。その後ろから、担架に乗せられた生徒が二人、次々と運び込まれてくる。一人は、実技の授業中に転倒したという上級貴族の生徒、セオドアだった。額に軽い擦り傷があり腕を庇うようにしているが、顔色はしっかりしている。もう一人は、平民出身の生徒、トマスだった。クララは、トマスの様子に目を留めた瞬間、背筋に小さな冷たさが走るのを感じた。
顔色が、悪い。それも、擦り傷程度でなるような色ではないわ。唇の色まで、少し薄い。
「トマス君、大丈夫? 聞こえる?」
クララが声をかけると、トマスはうっすらと目を開け、小さく頷いた。息が、浅い。呼吸のたびに、肩がわずかに上下している。
「二人とも、実技場の資材倉庫の近くで倒れていたそうです。何があったのかは、まだ……」
実習生の説明に、ガイウスは頷きながら二人を交互に一瞥した。
「セオドア君のお怪我は、御実家にもすぐ連絡が行くだろう。丁重に頼む」
「え……」
クララは、思わず声を漏らした。ガイウスの視線は既にトマスへは向いていない。手元の器具を整えながら、当然のことのようにセオドアの処置台へ歩み寄っている。
「あ、あの……ガイウス先生」
「なんだ」
「トマス君の方が、明らかに具合が悪いです。顔色も悪いですし、呼吸も浅いです。もしかしたら、外から見えないところに、何かあるかもしれません」
クララの声は、自分でも驚くほど震えていた。それでも、言葉は止まらなかった。
「私の回復魔法じゃ、対応できないかもしれません。先生の医療魔法で、診ていただけませんか」
ガイウスは、クララの方を全く見向きもしない。
「セオドア君は、意識もはっきりしていますし、外傷も浅いです。何なら、私の回復魔法で十分でしょう。でも、トマス君は……」
「重症度の判断は担当医が行う。邪魔をするな」
ガイウスは、クララの言葉を遮るように、静かにそう告げた。怒っているわけではない。むしろ、あまりに平淡な声だった。まるで、天気の話でもするように。クララは、それでも食い下がった。トマスが危ない。実習で習った知識を、必死にかき集める。
「脈が速くて……呼吸も浅いです。外傷が軽くても、それは危険な兆候だって、授業で……」
「トマスは大丈夫、多少辛いかもしれんが、命に関わる程ではない」
「で、でも!」
「わざわざ今私がそれを言わねばならんのか」
ガイウスは、クララの方を見もせずに言った。手元の器具は止まらない。彼は忙しなく処置の準備を進めている。彼の言葉に、悪意のようなものは感じられなかった。この医務室で、医療魔法を使えるのはガイウス一人だけだ。それなのに、その力は今、外傷の浅いセオドアの治療から使われようとしている。
『貴族』
これが全てだった。理解しろと。学生といえど高等部、もう分かるだろうと……。言いたいことは、痛いほどわかる。分かるくらいの体験はしてきた。地方貴族と上級貴族の差。両親だって、その苦渋を舐めた場面も何度も見た。
「だから!」
クララは、口を開きかけて、また閉じた。喉の奥に何かが詰まっている、いや、喉そのものを掴まれて「言うな」というような感覚があった。
——あんな、ナイフなんていらないです。
いつかの自分の声が、耳の奥で蘇る。あの日、広場で。ヨシュアの理屈に、何も言い返せなかった自分。あの時と、同じだ。私はまた、言葉を持っていない。正しいと思っているのに、それを証明する術がない。力がない。
「クララ君。ぼうっとしていないで、トマス君のバイタルを取ってくれ」
ガイウスの声に、クララははっと我に返った。
「えっ?」
いつの間にか、ガイウスはセオドアの治療を終えていた。私、何をして……。
「早くしなさい!」
「は、はい……!」
自分の不甲斐なさへの憤りなのか分からない。クララはトマスの脈を取る手に力を込めた。せめて、今できることをやろう。それだけは、今の私にもできる。
ガイウスはトマスの胴に手をかざし、医療魔法で診察する。
「軽い内出血だな。打った時に、肋骨の下を痛めたか」
命に関わるものではなかったが、回復魔法だけでは見逃していたかもしれない、という程度のものだった。ガイウスはそのまま、慣れた手つきで医療魔術をかける。トマスの顔色は、少しずつ戻っていった。それでも、クララの中には小さな棘のようなものが残った。もし、次に同じことがあったら。もし、もっと重い症状の子が、同じように後回しにされたら。……私は、今度こそ何か言えるだろうか。
「クララ君、もう大丈夫だ。後はこちらでやっておく」
ガイウスにそう言われても、素直に頷く気にはなれなかった。それでも、実習生の立場でこれ以上何を言えるわけでもない。クララは黙って一礼し、後片付けに戻った。薬品棚の奥、今日届けられたばかりの木箱に目が留まる。側面には、王都でも有名な薬舗の印が焼きつけられていた。学院で使われている薬や薬草の多くを納めている店で、医療従事者を目指すクララも何度か足を運んだことがある。今はこのような事務的な仕事がちょうどいい。何も考えずにできるからだ。中身を数え、伝票と照らし合わせて、今日の分の仕事はようやく終わった。
「ガイウス先生、全部終わりました……」
奥にいたガイウスへ声をかけると、短く「ご苦労」とだけ返ってくる。クララはそれ以上何も言わず、鞄を持って医務室を出た。窓の外を見る。空は既に赤く染まり始めていた。言葉にはできない。ずっと喉を掴まれているような感じは、拭えなかった。
学院から学生寮へ向かう道の途中には、プロムストリートという王都の商店が立ち並ぶ大通りがある。夕方になっても人通りは多く、仕事を終えた者達や、夕食の買い物をする者達で賑わっていた。クララは、頭の中で今日のやり取りを何度も反芻しながら大通りを歩いていた。決まりでは、重症度の判断は担当医が行う。その言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。正しいことを言ったつもりだった。それなのに、絶対者の一言で、自分の言葉はなかったことにされてしまう。トリアージに絶対に……絶対に身分など考慮してはいけない。私は間違ってなどいない。
クララが通りを歩いていると、少し先に三人の男が見えた。その間には、十歳ほどの少年がいる。親子には見えなかったが、商家の使用人と主人の子ということもある。男のうち一人は少年の肩へ手を置き、何かを急かすように歩かせていた。クララは最初、そのまま通り過ぎようとしたが、少年の歩き方が目に留まる。右足を地面へつけるたびに、身体がわずかに傾いている。顔色も悪く、唇からは血の気が失せていた。寒くもないのに、肩が小さく震えている。
「早く歩け」
男が少年の肩を強く押した。少年の身体が強張る。その反応は、足の痛みによるものではなかった。少年の鞄には、見覚えのある印がついている。先ほど医務室で見た、あの薬舗の印だった。クララは足を止めた。
「あの、すみません!」
クララが声をかけると、三人の男が一斉に振り返った。
「何だ?」
「その子、足を怪我していませんか?」
男達が少年を見る。肩を掴んでいた男が、すぐに少年を自分の後ろへ隠した。
「店で転んだだけだ。今から家へ連れて帰るから、問題ない」
「そうなんですか。でも、かなり痛そうです。もしよろしければ、少し診せてもらえませんか?」
怪我の程度は分からないが、自分が処置して済むのならと尋ねた。
「必要ない」
男の返事は早かった。
「この子の家は薬屋だ。戻れば、いくらでも治療できる」
薬屋という言葉を聞き、クララは少年の鞄を見た。いくら薬屋の子だと言っても、怪我の処置は早いに越したことではない。何故この男達が頑なに診断を嫌がるのか、クララには分からなかった。
「少し休ませるだけでもいいんです。顔色も悪いですし、このまま歩かせると――」
クララは、少年に手を伸ばそうとするも、一番大柄な男が割って入る。
「余計な世話だ」
低い声に、クララは口を閉じた。同じだ、これ……。そこに納得する理屈などない。ただ、力あるものの一言。
「……分かりました。引き止めてすみません」
今日はそういう日なのだ、とクララは諦めたかのように目を瞑り引き下がろうと一歩下がった。その時、少年の身体が大きく揺れた。傷めた足が力を失い、石畳へ倒れそうになる。
「危ない!」
クララは反射的に駆け寄り、その身体を抱き止めた。少年の袖がずれる。
————!
手首には、赤黒い縄の痕が残っていた。少年と目が合った。助けを求めている。クララの中で、明確に何かが変わるのを感じた。
クララは少年の身体を支えたまま、ゆっくり男達へ鋭い視線を向けた。
「この痕は何ですか?」
「放せ」
「嫌です。この子をどこへ連れていくつもりですか?」
「お前には関係ない」
男が少年の腕を掴もうとする。成人男性の力には、魔術科女子学生の力では抗うことはできない。クララは少年を庇い、近くの店へ顔を向けた。
「誰か、衛兵を――」
しかし、最後まで言うことはできなかった。背後から口を塞がれ、鼻と口に布を押し当てられる。甘さの奥に、鼻の粘膜を刺すような刺激臭があった。
――ソムニア草の眠り薬。
クララはすぐに自分の口元に当てられた薬品が分かった。ソムニア草から抽出される揮発性の眠り薬で、治療の際には痛みを和らげ、患者を眠らせるために使われる。しかし、布へ染み込ませて直接吸わせるような薬ではない。これほど濃いものを吸い込めば、数十秒も意識を保てない。
まずい、息を止めなければ——。
そう思った時には、既に一度吸い込んでしまっていた。クララは口元の布を引き離そうとするが、指先に力が入らない。視界の端から暗闇が広がり、石畳が大きく揺れて見えた。せめて、薬を嗅がされたことを誰かに残せないだろうか。クララは抵抗しながら、布を押さえる男の手首へ爪を立てた。だが、少年へ伸ばしたもう一方の手は届かない。もう片方の肩から、鞄がずり落ちかけている。医療学科の印がついた、見る人が見ればすぐに分かる鞄だった。クララは最後の力を振り絞り、肩を大きく振って、その鞄を石畳の上へ落とした。
ソニア——。
身体から完全に力が抜け、意識が暗闇へ沈んでいった。
◇
「……お姉ちゃん」
小さな声が聞こえた。
「お姉ちゃん!」
クララは重い瞼を開いた。頭の奥が鈍く痛み、鼻にはまだ薬品の匂いが残っている。身体を起こそうとして、両手が背中側で縛られていることに気づいた。床は冷たく、壁にはいくつもの亀裂が入っている。小さな窓には板が打ちつけられ、その隙間から夕暮れの光が細く差し込んでいた。そして、ドアは一つだけだ。
「大丈夫?」
先程男達に囲まれていた少年が、クララのすぐ近くに座っている。クララは自分の頭の痛みを確かめるより先に、少年の顔を見た。
「私は大丈夫。それより、足は?」
「平気です」
少年はすぐに答えた。けれど、膝の上で握られた手には力が入り、額には薄く汗が浮かんでいる。呼吸も通りで見た時より速くなっていた。
「そっか」
しかし、クララは、それ以上問い詰めなかった。
「じゃあ、痛くなったらすぐ教えてね」
少年は不思議そうにクララを見たあと、視線を落とした。その時、部屋に一つだけある扉の向こうから男達の声が聞こえてくる。
「薬屋の親父には、もう手紙を送ったんだろうな?」
「ああ。今夜、指定した場所へ金を運ばせる。衛兵へ知らせれば、息子の命はないとも書いてある」
「本当に払うのか?」
「一人息子だ。払わないわけがない。それに、あの店は学院や治療院へ薬を卸している。金ならいくらでも持っているさ」
クララは息を潜め、会話を聞いた。身代金目的の誘拐?街中では、この子を囲んでいたのは三人だった。クララは、今の状況を整理しながら少年を見る。怪我をしていることは確かだ。そして、少年の鞄にあった印は、やはりあの薬舗のものだった。
「それで、あの娘はどうする?」
「ログロースの学生か。面倒なことになった。だが、顔を見られた。店の印にも気づいていたようだ。金を受け取るまで、ここに置いておく」
「その後は?」
短い沈黙が落ちる。
「……その後のことは、金を受け取ってから考える」
男の声が遠ざかっていく。解放するとは言わなかった。その後を考えると言いながら、声には迷いがなかった。
「お姉ちゃん」
少年はクララに縋ってくる。すると、クララが震えていることがすぐに分かった。
「ごめんなさい」
「謝らないで、私が決めたことだから」
クララは震える手を押さえながらも、何かに反発するかのように強い口調で言う。
「僕達、どうなるんですか?」
「分からない」
クララは正直に答えた。安心させるために大丈夫と言いたかった。しかし、今の自分には約束できないし、何より曖昧なことは絶対に言いたくなかった。
「でも、その前に、足を見せてもらってもいい?」
少年は黙ったまま、腫れた右足を見た。
「怖かったら、触らないよ」
クララは、無理強いはしなかった。
「……痛いです。すごく、痛いです」
少年が、ようやく本当のことを口にした。
「教えてくれてありがとう」
クララは少年の近くまで身体を寄せた。両手が使えないため、詳しく診ることはできない。それでも足首の腫れと、靴の中でどのように足が傾いているかを確認する。
「いつ怪我したの?」
「荷車から逃げようとして、男の人に掴まれて一緒に落ちました。その時、手の上に男の人が落ちて……」
「そうだったんだね。よく頑張ったね」
「でも、逃げられなかった」
少年は、苦々しく語る。
「それでも、逃げようとしたんでしょう。それは無駄じゃないよ」
クララがそう言うと、少年は俯いた。張り詰めていたものが切れたように、目から涙が落ちる。
「僕、家に帰りたい」
「うん」
「お母さんに会いたい」
「うん」
大丈夫、絶対に帰れるよ!って言ってあげればいいじゃない。
クララは、心の中で自分を非難する。クララは、あえて帰れると言い切らなかった。ただ、震える少年の肩へ自分の肩を触れさせる。
「お姉ちゃんも帰りたい。だから、一緒に帰ろう」
クララは自分のことを「お姉ちゃん」と言った。その一言で、自分を縛った。
「お姉ちゃんは、怖くないんですか?」
少年は素直に思ったことを聞く。クララは、怪我をしていない少年の手に自らの手を添える。少年は驚いて、クララの顔を見る。
「ねぇ、あなたのお名前は?」
「……ロミオ」
クララは、ぎこちなく微笑む。
「ロミオ、お姉ちゃん、すごく怖いよ。でも、今はロミオがいるから大丈夫。一人で怖がるより、少しだけましでしょ?」
理路整然と言われる言葉よりも、少年には説得力があった。少年は涙を拭い、小さく強く頷いた。
◇
同じ頃、学生寮ではセラが苛立たしげに窓の外を見ていた。門限をとうに過ぎても、クララが帰ってこない。学生寮の寮母が、生徒会に連絡をしてきたのだ。
「クララに限って、無断で遅れるはずがないわ」
ソニアは独り言のように呟く。医務室の当番なら、遅くともこの時間には戻っているはずだ。何かあったと考える方が自然だった。
「2時間以上前には、医務室を出て帰ったみたい」
セラの一言に、ソニアは迷わず上着を羽織った。
「探しに行こう」
二人は、クララがいつも通るプロムストリート通りへ向かった。夜も更け、人通りはまばらになっている。
「すみません、この辺りで、女の子を見ませんでしたか?」
セラが露天商の一人に声をかけると、商人は困ったように眉を寄せた。すると、その隣の商人が割って入ってくる。
「俺は見たぜ。夕方頃、若い娘さんが男達に絡まれてるのをな。何だか様子がおかしくてね。声をかけようとしたら、あっという間に荷車に乗せられて、あっちの方へ……」
商人が指したのは、旧市街の倉庫が並ぶ方角だった。セラは指された方向へ数歩進み、石畳の隅に落ちているものへ目を留めた。
「その子が、これを落としていったんだ。何だかわざとらしくてね。拾っていいのか分からなかったが……その、商人なものでね。拾っちまったって訳よ」
商人は頭をかきながら言う。
「これは……」
それは、医療学科の印がついた鞄だった。
「これクララの鞄だ!」
ソニアはそれがクララのものだと分かると、走り出す。
「ちょ、ちょっと!待ちなさいよ!」
セラの制止も聞かずに、ソニアはどんどん旧市街の方へと走っていってしまう。とにかく、1秒が惜しい。それだけだった。




